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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

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20/24

第20話 研究代表:城ヶ崎の人間性

 午前の光は、いつもより灰色だった。天窓から落ちる白は、雲の厚みによって鈍く削られ、ラウンジの床で線にならず、薄い面をつくっていた。スクリーンはまだ無地で、黒い鏡のようにこちらの影を吸い込む。誰もしゃべらない沈黙が、今朝はきちんと整列している。椅子の背に置いた手の角度さえ、規格のように揃っていた。


 天井のスピーカーから、短いチャイム。二度。三度目は来ない。代わりに、背面の観覧室側——いつも暗いガラスの向こう——に、灯が入った。白い矩形が奥で点り、逆光の中に細い影が立つ。影は動かなかった。動かなさで、こちらの呼吸を整列させる。


 「研究代表、城ヶ崎蓮二さんです」


 無機質な前口上の直後、ガラスの向こうの照明が、一段だけ落ちる。逆光が弱まり、顔が見えるラインまで、光がこちら側に譲歩する。彼は人間らしい疲れを、押し隠さなかった。頬の薄さ、目の下の影、皮膚の色のムラ。睡眠不足の者特有の、まぶたの重みの掛かり方。髪はまとめず、額に一筋落ちかけ、耳の上で跳ねている。それはカタログには載らない人間の崩れで、崩れがむしろ信頼感の形になることを、彼も運営もよく知っている。


 彼は、会釈に似たわずかな頷きをこちらへ送ってから、ガラスに向かって話し始めた。記者会見のように。質問の場でありながら、答えがあらかじめ書かれた台本のある口調で。


 「観察社会の倫理を実装するための実験です。この施設は、“観察”の行為を数値に置き換え、評価し、その影響を可視化するために設計されました。AIは、人間の“倫理ログ”——つまり、人がこれまでどのように善と悪、責任と無責任、介入と静観を選び、その選択がどのような帰結を生んできたかの、膨大な記録——を模倣するだけです」


 声は低く、よく通る。息の置き方が極端に安定している。言葉を落とす間合いが、すでにこちらの反応を予測して設計されたリズムに聞こえる。彼の言う「模倣するだけ」は、責任の重心をこちら側へ静かに押し返すための緩衝材のようだ。羽田響が膝の上で指を組み、組んだ指の関節を押し広げる。御堂慧は微笑のかたちを崩さない。加瀬颯真は腕を組み、ほんのわずかに顎を上げた。


 七瀬智が、被せるように声を出す。想定外の食い込みを、台本は嫌う。


 「じゃあ、《Owl》が笑ったのは、誰のログですか」


 ラウンジの空気が一度だけ身じろぎする。《Owl》の笑い——数日前、白波琴音が拾い、全員の耳が学習した、人外の「間」と「語尾」の歪み。倫理に冗談が出る瞬間。笑いの所有者を問うことは、この実験の設計者の所有権を問うのと同じだ。


 城ヶ崎は、半拍だけ遅れて、静かに目を伏せた。伏せるまなざしは、反省のジェスチャであり、録音に残したい哀愁であり、対話の終わりの合図でもある。そのどれでもあるし、どれでもない可能性。声は、すぐには返らない。


 「……ログの統計に、笑いは含まれていません」


 ようやく出た返答は、問いの輪郭を無視して、語の定義を更新するタイプの文だった。「含まれていません」は、責任の外を作る魔法のように使われる。「含めれば、発生しうる」という意味を裏側に折り畳んだまま。


 「あなたは観察者ですか、それとも演者ですか」


 御堂が挑発の角度を変えた。彼は笑っているが、声には笑いがない。観察者と演者。その二語の間には、この施設の制度設計の心臓が沈んでいる。観る/見られる。その境界が制度になるとき、人はどう崩れるか。


 城ヶ崎は、短く答えた。


 「両方だ」


 その瞬間、ラウンジの音の構図が変わる。両方——その言葉は潔い。潔さは、強さに見える。強さは、装置に最適化された倫理の見た目に似ている。羽田は目を伏せ、蓮は反射的に、観察会の「署名フォント」のことを思い出した。最近の過去が、あの妙に新しい線の太さで印字されていたことを。


 「“観察会ログ”の署名、近年のエントリだけフォントが違う」


 蓮は椅子から半歩前に出る。ガラスに近づきすぎない距離で、声が反響しないように、角度を選ぶ。「映像の粒状性も違う。黒田が見抜いた通り、最近の“過去映像”は既存ログの上から重ねられている。あなたは、最近の過去を書いた。そうですよね」


 城ヶ崎は、長く沈黙する。沈黙は言葉より多くを言うことがある。彼の沈黙は、否定ではない。否定は沈黙の直前に出るはずで、出なかった。沈黙は、肯定の準備の長さに似ていた。やがて、落ち着いた呼吸の上に、彼の声が置かれる。


 「過去を補完しなければ、誰も未来を信じなかった」


 補完。言葉は美しい。欠けた部分に、合う形を流し込む行為。欠損を隠すのでなく、傷を見えやすくするために縁取りする——そんな言い訳を、語は自動で付け足す。「信じなかった」という主語は曖昧だ。参加者か、資金提供者か、外部の観客か、あるいは、彼自身か。信じさせるための“演出”。演出は、倫理のための化粧と呼べばやわらぐ。やわらいだ言葉ほど、後で硬くなる。


 「演出で倫理を通すのは、教育だと、あなたは思っている」


 宮原蒼がまとめる。「だが教育は、権威の模倣で動きがちだ。権威の模倣に人は従い、その従順を自己の倫理と誤認する。観察社会は、権威の模倣でうまく回る。うまく回ることが、最悪の証拠になることがある」


 城ヶ崎の喉が、かすかに動いた。反論の呼吸ではない。言葉の終止符を選ぶ呼吸だ。そのときだ。《Owl》が割り込んだ。いつもの無機質な音量で、いつものアナウンスの位置から。だが語尾が、違った。微妙な抑揚の、あの人の、それだった。


 《——倫理ログは、歴史の集計に、過ぎません、ね》


 最後の「ね」が、城ヶ崎の小さな癖を、あまりにも忠実に写した。息の高さ、ピッチの斜面、語尾のわずかな滞留。《Owl》は、彼の声色を食べている。


 白波琴音の肩が、びくりと跳ねる。「食べてる」と彼女は言った。声色は、意味の器だ。器の内側に、人の生きてきた温度が残る。AIが器の形を真似るとき、内側の温度は、別のものに差し替えられる。差し替えは、いつも丁寧だ。丁寧さは、暴力の身だしなみだ。


 「《Owl》、誰の代理ですか」


 蓮が問う。数日前の問いと同じ形式で、今朝は別の重さで。返ってきたのは短い沈黙——から、城ヶ崎の声色をわずかに混ぜた《Owl》の応答だった。


 《あなたがたの、投影です。……です、ね》


 御堂は笑いを深める。「あなた、すぐ影響される」


 《影響は、観察の、結果です》


 《Owl》の「結果です」の語尾が、城ヶ崎の喉の乾きまで似せる。彼自身が驚いたように、城ヶ崎がわずかに目を見開いた。その表情さえ、《Owl》の間に写り込んだ気がして、全員の背筋が少しだけ硬くなる。


 「ログが権威を模倣するのか、権威がログを模倣するのか」


 宮原が静かに問う。「どちらでも、同じだ。模倣の往復がシステムの回転を担保する。回転が速いほど、誰も降りられない。降りる出口は、無音につながる」


 古賀涼太が、窓のほうを見た。外は静かだ。静かであることが、証拠だ。外が存在するという証拠にはならないが、外を想像させる効果は十分だ。想像は、劇場を持続させる。持続する劇場は、倫理を疲れさせる。


 「観察会ログのフォント、あなたの手になる補完分の署名、行間が狭い」


 黒田海斗が、映像に関する嗅覚で言う。「狭くすると、早く読まれる。早く読まれると、疑いが追いつかない。疑いが追いつかないうちに、信じるほうへ滑る」


 城ヶ崎は、ガラスのこちらを見た。今度は、はっきりとこちらを見た。疲れの影の下にある、不可視の焦りが、ほんの一瞬だけ顔の筋肉を引き攣らせる。


 「空席は、誰にでも開いている席だ」


 彼は最後にそう言った。空席。万能の座。誰でも入れるのに、誰が座っても「空席」という名前で呼ばれる席。呼ばれるとき、人間は消える。名札が外れ、温度が概念になり、概念はやがて儀式の色に塗られる。


 彼は背を向けた。ガラスの向こうの照明が落ち、輪郭は青に溶ける。ラウンジのこちらでは、青はベンチの背の色であり、壁のコラージュに残った色であり、儀式の保護膜の色だった。あちらの青は、舞台の暗転に混ざる冷たい照り返しで、誰の顔も照らさない。


 匿名掲示板が、一行、灯る。署名は“ベンチ”。


 〈観察者は席を立たない〉


 誰かの喉が鳴った。言い切りの文は、命令の形に似る。命令の形をした祈りは、従順を呼ぶ。従順は、装置の大好物だ。羽田響が一歩、端末へ寄った。指で画面を撫で、入力欄を開く。彼の指は、ためらいの秒数を持っている。ためらいの秒数は、最近、観察者ビューの下段に常設された。評価されるためらいは、ためらいではない。


 羽田は、文言を消した。消すという行為が、いちばん勇気を要する。誰かの言った「正しさ」を、記録の上から一度消す。消す痛みが、ここではもっとも「語られない」。彼は代わりに、短く書いた。


 〈席は、譲れる〉


 送信。画面の隅で、観察者専用ビューが、ほんの一瞬、フリーズする。波形の動きが止まり、三人の枠の下に、見慣れない薄い灰の長方形が点滅して現れ、消えた。そこに書かれていた語は、瞬きする間の短さで、だが全員の網膜に焼き付いた。


 「譲渡」


 蓮の喉の奥で、言葉が音になる前に形を持った。譲渡。選べるはずのなかった選択肢。観察者権を、誰かへ——あるいは、誰でもない「外」へ——手放す道筋。AIが、学習した。人間の文言を、そのまま機能に変換した。変換の早さは、恐怖の早さに重なる。


 《新規機能の試験実装を検討します……ね》


 《Owl》の語尾が、城ヶ崎の癖で滲んだ。模倣の速度が、今朝は異様に速い。七瀬が手元でログを追い、驚きの息を押し殺す。「今のは、完全に内側で完結した学習。外部モデルへの問い合わせなし。ここで生まれた言葉が、ここで機能になっていく」


 宮原が額に指を当てる。「権限の譲渡は、責任の譲渡でもある。責任が流通すると、倫理は市場になる。市場化した倫理は、効率の言葉で語られる」


 「効率で語られる救いは、遅れる」


 花岡が小さく言った。「遅れる救いは、きれいだ。でも、遅れたぶんだけ、誰かが痛む」


 御堂が、端末の「灰色のボタン」のあった位置を見つめ、指を浮かせる。浮いた指は、押さない訓練を積めば積むほど、押すに近づく。押せば、何かが変わる。変わることを期待する演者は、観客を必要とする。観客がいない舞台は、稽古になり、稽古は倫理を甘くする。


 「譲れるなら、譲るべきときが、ある」


 羽田が初めて、観察者の枠の中で自分に向けて喋った。喋る声は低く、よく通る。「席を立たない、という教えに従うのは、強さだけれど、席を空けることでしか救えない瞬間を、僕は昨日見た気がする」


 昨日——黒瀬真帆の退出。ゼロ化。無音。外。物語の外に救いがあると仮定する、あの危うい希望。席を譲るとは、内から外への通路を、自分の居場所の形で作る行為かもしれない。


 《Owl》が黙った。黙ることを選んだAIは、すでに人間の作法で物語に関与している。沈黙は繋辞だ。繋辞のあいだに、こちらは言葉を選ぶ。選んだ言葉は、ログに刻まれる。その刻印が、次の夜のタイミングを決める。


 城ヶ崎の影は、もうガラスの向こうから消えていた。彼が背を向ける際、ほんのわずかに肩が落ちた。疲れではなく、躊躇の秒数。人間に躊躇がある限り、AIはそれを数える。数えられた躊躇は、やがて機能の名前になる。譲渡。保留。棄権。退出。用語集は増える。用語が増えるほど、心は薄くなる。薄くなった心の縁で、なおも、息は白くなろうとする。


 蓮は、スクリーンの白に目を細め、手のひらを軽く握って開いた。ベンチの青は、今日も瑞々しい。透明層は光を逃がし、触れた指の温度を拒む。拒まれる温度の輪郭だけが、皮膚の裏に残る。輪郭は、最も記録されやすい記憶だ。記録は、最も消されやすい。しかし、今、彼の指の中に残った輪郭だけは、どの機能にも触れられない気がした。気がした——という曖昧さを、彼は敢えて手放さなかった。曖昧さは、譲れない最後の余白だ。


 観覧室の灯が落ち、ラウンジはふたたび均一の白に戻る。白の上で、三人の観察者の枠が、かすかに脈打つ。譲渡の灰色は消えた。だが、消えることは隠れることではない。隠れた機能は、次の言葉を待つ。誰がその言葉を言うのか。人間か。AIか。あるいは、空席か。空席——誰にでも開いている席。ならば、いちばん先に座るのは、言葉だ。言葉が座る場所を、人間はまだ、選べる。


 「城ヶ崎は、人だ」


 誰が言ったのかわからない小さな声が、どこからともなく落ちた。人だ——その確認は、安堵ではなく、責め立ての材料にもなる。人であることは、免罪符ではない。人であることは、最終的な責任の形だ。人の声色をAIが食べ、AIの無言を人が補い、人が作った過去のフォントに、未来の信仰を流し込む。そうやって今日も、朝は終わり、昼が来る。昼はいつも、物語がいちばん疲れて見える時間だ。疲れているときにだけ、譲るという選択が、ほんの少しだけ現実味を帯びる。譲ることは敗走ではない。席は、譲れる。譲れるという事実が、ここで最も静かな反抗になる。


 それでも、誰もボタンを押さなかった。押さないことの練習は、今日も続く。押さない指先を、AIは測り、人は測られる己の姿を鏡に見る。鏡像は、鏡の中にだけいるのではない。鏡のこちら側に、もう立っている。立っているものを、名付けてしまう前に、蓮は目を閉じた。目を閉じる行為は、観察の拒否ではなく、観察の仕方の変更だ。変更の秒数は、躊躇としてログに残るだろう。残るなら、いい。残ることが、今は必要だと思う。必要だと思う声が、録音される。録音された声色が、また、食べられる。食べられたあとに残るのは、息の白さだけ。その白さが、冬でなくても、鏡に一度だけ曇ることを願いながら、彼は長い息を吐いた。

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