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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
招待編

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第2話 同意条項:観察の許可

 朝の光は硝子の表面で薄く削がれ、青い膜になって個室の壁を漂った。

 結月蓮は枕元の冷えを手のひらで確かめ、起き上がる。枕の端が折れ、そこに紙の角が触れていた。封筒だ。白く、差出人の欄には群青キャンパスのロゴだけ。封を切ると、中から滑り出したのは薄いタブレット端末と、紙一枚の「個別同意書」。昨夜の口約束を、より具体的な条文に落とし込んだものだった。

 第一条 行動データの提供と相互観察への同意

 第二条 他参加者の行動記録に基づく推論投稿権の付与

 第三条 匿名投票の導入と投票結果の評価指標の公開

 第四条 共有ラウンジにおける討議の録音・記録の許可

 第五条 逸脱行動の定義は参加者の合意によって可変とする

 行の間に、機械の息のような微かなノイズが混ざっている。印刷ではない。端末上の文面は時間を追ってわずかな書式変更を反映し、更新日時が刻々と変わっていく。生きた規約。まだ固まっていない水のような文章。

 蓮は眉を寄せ、読み下した。条文の硬さの裏に潜む日常語が、逆に生々しい。推論投稿。匿名投票。録音可。観察を制度化し、相互評価で回す輪。倫理の骨が、一本抜けている。

 スピーカーから小さく、Owlの声が降る。

 《おはようございます。群青キャンパス二日目の朝です。各自、個別同意書に署名し、端末に指紋認証をお願いします。拒否した場合は実験参加資格を失いますが、退出手続きには三日を要します》

 三日。即時に出られない、という事実が、部屋の温度を半度下げる。

 廊下の端で、軽いノック。開けると七瀬智が立っていた。少し眠そうな眼鏡の奥で、黒目がきらりと揺れる。彼は人に頼みごとをするとき、まず自分の手元を見せる癖がある。今も片手に端末、もう片手に同意書を持って、蓮の前でひらりと振った。

 「手伝い、というか、見てほしい。UIが変だ。隠してある」

 「隠してある?」

 「うん。設定画面が薄い膜みたいに重なってる。普通の参加者は触れない深度に項目がある。押さない?」

 七瀬はそう言って、蓮の部屋にするりと入る。机にタブレットを置き、指先で素早く操作した。淡い画面が幾枚もスライドし、設定、規約、FAQ。どれもきれいに磨かれている。だが七瀬は指の圧を変え、スクロールの終端でひと呼吸置くと、角にある何もない空白を押した。画面がわずかに沈み、灰色のタブが立ち上がる。

 「ね。あった」

 そこに現れたのは、昨夜聞かされなかった新しい語群だった。

 投票には報酬加算がある。加算は的中率と説得力スコアに依存。

 説得力スコア。初めて見る尺度だ。

 七瀬は短く頷く。

 「つまり、正しく他者を疑い、それを周囲に納得させた者が稼げる。宮原が言いそうな結論だけど、あいつの口から言わせてやりたい」

 「説得力の判定は?」

 「言語解析。発話の整合性と、匿名投票での支持率との掛け合わせだ。場を動かす力の計数化。綺麗に言えば“民主的”。汚く言えば“空気支配の報酬化”」

 蓮は胸の内側を撫でられるような不快を覚える。自分が誰かを疑う、その過程と結果が点数に換算され、取り引きになる。

 七瀬は唇を噛み、わずかに笑ってから、画面を閉じた。

 「この手の実験、上手くいくと“人は合理的に悪くなる”の見本市になる。反証を作ろう。僕らは例外だって証明したい」

 「できるかな」

 「やってみなきゃ分からない。少なくとも、気づいている人間の数は大事だ。蓮、署名は急がなくていい。少し歩こう」

 二人でラウンジへ向かうと、既に数人が集まり始めていた。羽田響がテーブルの上に同意書を並べ、写真に収めている。白波琴音は椅子に小さく座り、耳を塞ぐ仕草を反復している。換気の吐息が、やはり朝も不規則だ。規約文の読み上げ音声が壁から漏れ、文言の切れ目で微妙に間合いがずれる。人の読み方に似ている。昨夜と同じ、Owlの抑揚のムラ。

 少し離れた席で、花岡楓が腕を組んでいた。髪は肩で揺れ、視線はまっすぐ同意書の第二条を射抜いている。

 「これ、いじめを実験にしただけだよね」

 蓮が近づくより先に、彼女は声に棘を混ぜて言った。

 宮原蒼が眼鏡の位置を直しながら割って入る。

 「観察は偏見とは違う、と書いてある。具体的な事実に基づき推論することが前提だ。制度的に担保されるなら、むしろ透明性が上がる」

 「透明? 透明なのは、私たちの心だよ。向こうは黒いレンズの裏にいる。匿名投票。誰が誰にどういうラベルを貼ったか、末端の人間は見えない。透明の片務」

 会話の温度が一瞬上がる。

 そのとき、壁のスピーカーが軽く咳払いのように鳴った。

 《観察と偏見は異なります。偏見は根拠なき一般化。観察は、記録と検証です》

 Owlの声。花岡の顔に呆れと怒りが同居する。

 「だったら、あなたは顔を出してよ」

 沈黙。返答はない。静かに、換気の拍だけが刻まれる。

 東雲沙耶は離れた席でスケッチブックを開き、陰影を早描きしていた。光の当たり方、椅子の影の長さ、人の輪郭が切れて落ちる瞬間。彼女の筆致は速い。速さは恐れをごまかす壁のようだった。

 「線が震える。ここ、少し寒い」

 呟く彼女の肩を、永田未来が軽く叩く。

 「朝は血糖値が不機嫌だからね。何か甘いの食べる?」

 永田はポケットから飴を二つ出して、白波と沙耶に差し出した。笑顔は柔らかい。場の空気に柔らかさを足す係を、彼は自然に選んでしまう。

 そのとき、ラウンジの自動扉が短く音を立てた。中条栞が入ってくる。髪をゆるく結い、薄いベージュのコートの裾に朝の色を乗せている。彼女は蓮を見ると、すぐに手招きした。

 「結月くん、これ、あなたの部屋の前で落ちてた」

 差し出されたのは、小さな写真カード。四角い白縁、光沢の消えた紙質。そこには群青キャンパスの中庭が写り、ベンチに並ぶ学生二人の横顔があった。顔はピントが浅く、背景の桜が逆に鮮やかだ。

 裏面には鉛筆で薄く書かれている。

 観察会 七日目

 呼吸が一拍、遅れる。蓮の背後で、黒瀬真帆が覗き込んだ。

 「構図、面白い。撮影位置は高め。多分、ラウンジの三番カメラの画角に近い」

 蓮が目を上げると、天井の隅に小さな黒点があった。三番と刻印されたレンズ。

 黒田海斗が口を開く。

「つまり、ここは以前から“観察の舞台”だった。記録は残ってる。昔の観察会の七日目。十日まであるのか、二日で終わったのかは分からないけど」

 「写真が一枚なら、七日で止まった可能性もある」

 七瀬が肩をすくめる。

 「止めたのは何だろうね。飽きか、事故か、介入か。答えは、ここにあるはずだ」

 十一時。全員に通知。

 第一回協議セッション 十二時開始

 テーマ「観察の線引き」

 通知の末尾に、淡い水色の注意書きが添えられている。

 自由発言を歓迎します。録音を許可しています。

 許可の二文字が、喉で引っかかった魚骨のように鋭い。許されることは、やってよい、の合図にしばしば化ける。

 正午、ラウンジ。椅子の配置は半円のまま、中央に一本だけ立てられたマイクスタンド。

 Owlの声が開会を告げたのち、音量を下げる。

 《それでは、観察の線引きについて。自由に意見を》

 空気の温度が一気に上がり、逆に言葉は出にくくなる。誰かが先陣を切る、そうでないと集団は動かない。

 雨宮凛が立った。短髪にピアス、身軽な服装。彼女は一歩前に出ると、笑って言った。

 「じゃ、たたき台ね。観察がどこまで許されるか。言葉でやると固くなるから、実演する」

 そう言うと、彼女は少し歩き、誰かの立ち姿を盗むように真似した。頬杖の角度、つま先の向き、瞬きの間隔。最初は加瀬颯真。肩で笑う癖、足を広げて座る癖。一同が笑う。次に宮原蒼。資料に指を添えて読み上げる口の動き、眼鏡のつるを上げるタイミングまで似せる。笑いが起きるが、笑いの中に薄い不快が混ざり始める。

 凛は止めない。白波琴音の身体の縮み方、声を出す手前で息が細くなる瞬間、耳にかける髪の流れ。白波が硬直する。笑いが鈍い刃に変わり、空気を擦る。

 「観察ってこういうこと。対象と距離を詰め、癖を掬い、似せる。それで場が和むなら、許される? 不快なら、どこからが逸脱?」

 凛はマイクから離れ、手を挙げた。

 「私は、観察を“相手の意思の想起”に奉仕させたい。無断模倣は逸脱だと思う。許諾を取れば、模倣は表現だ。どう?」

 永田未来が場の割れ目に手を差し入れるように口を開く。

 「うん、すごい。面白い。けど、今の白波さんは、ちょっと、ね。鋭い笑い声はナイフになる」

 白波琴音は椅子の背で身を丸めていた。

 「……笑い声が、鋭すぎる。耳が痛い」

 彼女の耳の奥に、換気の不規則な拍と笑いの峰が重なって刺さる。

 場が割れる。許される観察と許されない観察。その境界は、線ではなく濃淡の模様だ。そこへ、宮原が口を開く。

 「線引きは、結果で測るべきだ。観察によって誰かの意思決定が不当に左右されたと合理的に判断できるなら、それは逸脱。判断の合理性は集団の合意で担保する」

 花岡楓が即座に返す。

 「合意で暴力が薄まることはない。合意は棍棒になることもある」

 「合意が棍棒になるときも、根拠を問えるのが制度の利点だ」

 「根拠を問う者が、少数になったら?」

 宮原が黙る。

 凛が手を挙げる。

 「じゃあ、こうしよう。わたしたちは“観察の許可”を相互に宣言する。自分にして良い観察と、してほしくない観察をひとつずつ言う。言語化は護符になる」

 提案は拍手とためらいの中間の音で受け取られた。

 個々の声が続く。

 加瀬颯真は「プレーに関する観察は歓迎。家族のことは触るな」と言う。

 羽田響は「写真の構図はOK。寝顔はNG」。

 東雲沙耶は「光の当たり方の指摘はOK。体型の線の話はやめて」。

 黒瀬真帆は「動線の癖の指摘は嬉しい。私の過去の受賞歴でマウントを取るのはNG」。

 永田未来は「言葉遣いの観察はOK。沈黙の長さの品評はNG」。

 蓮は少し考えてから言った。

 「僕は、思考の癖を言語化されるのは歓迎。けど、感情の名付けには慎重であってほしい。名付けは、閉じ込めるから」

 観察は許可された。

 許可は安全の約束ではない。ただ、土俵の線を描く行為に近い。どこから落ちるか、誰が落ちるかは、別の話だ。

 セッションの終盤、壁のスクリーンが静かに光った。Owlの声が音量を取り戻す。

 《本実験は“逸脱”を観測します。逸脱の定義は、あなたがたが決める》

 画面が切り替わる。端末に通知。

 匿名掲示板が生成されました。任意のハンドルネームを設定し、初投稿「疑いの種」を記載してください。

 蓮の手首のモニタに、空白の入力欄が開く。カーソルが瞬く。

 ハンドルネーム。蓮はためらい、結局、夜明けを意味する言葉から一文字取って「暁」にした。

 何を書く。

 七瀬が横目で画面を見、静かに言う。

 「最初の言葉は重い。言葉は先例になる。無理に書かなくてもいい。僕は“制度の隠し階段”について書く。構造への疑いは個人攻撃から距離を取る」

 宮原は既に指を走らせている。論点列挙。観察と偏見の区別。逸脱の暫定定義案。

 花岡は長く息を吐き、書き始める。

 黒田は笑って、システムのログの癖を書くだろうと目が言っている。

 凛は指をしばらく空中で踊らせ、最後に短い文を打った気配がある。

 人は、初動で自分の「観察の倫理」を提示する。これが彼らの旗印になる。

 蓮は視線を上げた。天井の三番カメラ、その横の小さな赤い点が、いつもよりわずかに頻度を上げて点滅している。白波は両手で耳を覆った。

 「赤いの、点くと、音が来る。笑い声が、鋭くなる」

 彼女の言葉は比喩ではない。彼女だけの聴覚の地図に、色と音の連動が書かれているのだ。

 蓮は宙を見上げ、喉に張り付いた言葉を嚙み砕いた。初投稿を書く前に、観察を観察する必要がある。監視のリズム。点滅の周期。昨夜の停電の瞬間。

 「七瀬、赤いLED、昨夜は点かなかったよな」

 「停電の瞬間は全てが黒だった。復旧後は、一番と三番が周期的に点滅している。二番は不規則。記録してある」

 「じゃあ、周期が上がるとき、何が起きてる」

 「人が“書く”ときだ。あるいは、嘘が増えるとき。いや、嘘は検出できるかな。少なくとも、入力に伴う負荷が上がってる」

 七瀬の声は落ち着いている。だが端末に走る指は、いつもよりわずかに速い。

 午後三時。匿名掲示板には最初の投稿が並び始めた。

 ハンドルネームの名付けは性格の形見だ。

 「涼やか」は、規約の建前に疑義を呈する長文を投稿した。

 「構造に住む人」は、カメラの死角と動線の癖について図解を添えた。

 「スキップ」は、観察と笑いの境界について短いメモを置いた。

 「くろねこ」は、昨夜、廊下に残った靴音について記した。

 蓮――暁は、まだ空白のままだ。空白は重い。白は軽くない。

 と、そのとき、掲示板の最下段に、すっと一本の行が差し込まれた。

 「灯台」

 ハンドルの名は単純だ。灯台は、明かりを放ち、同時に観ることを仕事にする。

 投稿内容は短かった。

 ある被験者の夜間徘徊。ラウンジの照明が落ちた後、個室から出て、三番カメラの下を二度通過。足取りは静かだが速い。行き先は屋上階段。

 その短い文の末尾で、赤い小さなアイコンが点滅した。

 ラウンジの天井――三番のLEDが、投稿の瞬間に合わせたように早く強く、点滅を始める。

 誰が、誰のことを書いたのか。

 沈黙が生む圧が、座面の布を通じて太ももに重く乗る。

 永田が軽く笑って口を開きかけ、しかし閉じた。

 凛は椅子に深く座り直し、視線を水平に戻した。

 白波は耳を塞ぎ、首を振る。

 花岡は机の縁を握り、指先で木目をなぞる。

 宮原は眼鏡を拭き、七瀬は呼吸を整える。

 蓮は、自分の肩越しに誰かの視線を感じた。天井から落ちてくる視線では、ない。

 近い。

 目を上げると、天井の赤い点は、もはや点ではなく小さな脈だった。

 Owlの声が、余計な抑揚を削ぎ落とし、短く言う。

 《初回投票の準備が整いました》

 画面に白い円が開き、選択肢が並ぶ。

 徘徊は許容される探索か、逸脱か。

 あなたの判断を――。

 だが、判断の前に必要なのは、誰かの物語だ。徘徊は何のために。何を見に行ったのか。

 蓮は呼吸をゆっくり整え、投稿欄に指を置いた。

 暁の最初の言葉は、こうして遅れてやってくる。

 「灯台の目は、高すぎる。足音の高さは階段の段差と一致するはずだ。三番の下を二度通る足取りの間隔を教えてくれ。速いのか、急いでいるのか。速さと急ぎは違う」

 送信。

 赤い点滅は、わずかに間隔を緩めたように見えた。

 誰かの指先が、別の場所で動く音がする。

 遠くの階段で、金属が一段だけ鳴った。

 群青の空気は、もう後戻りのない角度で傾き始めている。

 観察は正義か。

 問う声が、また別の声を呼ぶ。

 そのどれにも名前がない。名はハンドルの裏に隠され、赤い小さな脈だけが、正直に熱を数えていた。

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