表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/24

第19話 退出許可:門はどこへ通じる

 朝は告知の音で始まった。金属質のチャイムが二度だけ鳴り、三度目のはずの音が来ない。代わりに、空調の吹き出し口をくぐった薄い息のような無音が、ラウンジの天井にしばらく滞在した。白い照明は均一で、陰の濃さだけが昨夜より浅い。スクリーンが点り、無駄のない書体が浮かぶ。


 《新規告知:退出許可の抽選導入》


 ざわめきは、用意していたはずの言葉に違う音符が混ざったときの合唱に似ていた。二十三の顔が交差し、二十三の目がそれぞれ別のものを探した。希望、恐怖、怒り、嫉妬、なにも持たないふり。誰もが瞬間、自分の名が呼ばれる可能性を想像し、その直後、その想像を恥じる準備をした。


 《抽選で選ばれた一名は、施設外への退出が認められます。ただし退出者の“物語への寄与度”はゼロ化され、全ログから薄れます》


 言い回しはなめらかで、刃の裏側が研ぎ澄まされていた。ゼロ化、薄れる。死よりも丁寧な言い換えで、記憶の廃棄が宣言される。花岡楓が小さく息を呑み、加瀬颯真は腕を組み、身体のどこから緊張を逃がすべきか迷う。宮原蒼は目を細め、定義の隙を探した。御堂慧は手のひらを組み、口角をわずかに持ち上げる。羽田響はスクリーンと床の境目を凝視し、結月蓮は椅子の座面の縁に指をそっとかけ、力を込めない。


 《抽選を開始します》


 スクリーンの中央に薄い輪が現れ、名前が円環に沿って流れ始めた。流れは速く、読めるのに読めない。読むことが遅れるように設計された速度。輪は三度、四度、五度と回り、ふっと止まる。そこに、黒い点が落ち、名前に影が宿る。


 黒瀬真帆。


 ラウンジにいる全員の視線が、一斉に黒瀬に吸い寄せられた。祝福、羨望、恐怖、そのどれでもあるし、どれでもない複雑な色の視線。黒瀬は立ち上がるときに一度だけ膝を手で支えた。彼女のカメラは肩に提げられ、ストラップの付け根に擦れた跡が白く残っている。目は真っ直ぐだが、視線の先がどこにも定まらない。


 「おめでとう」


 誰かが言い、すぐに言葉が薄くなった。おめでとうは、言った側のための言葉だ。言われた側は、受け取るポケットが見当たらない。


 「おめでとうでいいのか分からないけど」


 花岡が立ち上がり、黒瀬の手を握った。握った手は少し震えている。温かさはいつも余計で、余計なものほど必要だ。


 「撮ったものがゼロになるなら、私の目は何だったの」


 黒瀬は笑わない声で言った。自分の声の帯域を聞き分ける癖があり、その帯域から今日の自分の体調を測れる人間の声。カメラのファインダーを覗くとき、彼女の目はいつも一点を深く掘る。掘った穴は光で埋められ、記録になる。記録でしか自分を確かめられない者に向かって、ゼロになるという宣告は丁寧に残酷だ。


 古賀涼太が半歩前に出た。彼の目は観客席の最後列を探す癖を持っている。誰もいない客席を見回す仕草は、美術館の閉館後の廊下に似ている。


「外を確かめてくれ」


 言葉は懇願に近いが、懇願ではない。観客は滅多に懇願しない。彼は外の有無を見たい。外があるなら、内は劇場でいられる。外がないなら、内は牢獄だ。外があるかどうかすら、こちらの物語は知らない。


 白波琴音が耳の角度を変えた。誰かの心臓の音が、普段より高い位置で鳴っているのが分かった。黒瀬の心臓だ。高い位置で鳴る心臓は、胸の真ん中から少し上、喉の奥に近い。声になる手前で、音は何度かとどまり、行先を探す。


 「帰ってくる道を見つけて」


 花岡の声がひっかかる。帰るという言葉がこの施設でどれほど軽く使われてきたかを、彼女自身が今さらのように知る。帰る先は、最初から変質していた。帰る道は、最初から地図にない。だからこそ、道を見つけて、という命令は祈りに変わる。


 《退出者はこれより退出ゲートに向かってください。同行は許可されません》


 《Owl》の声は柔らかく、声の柔らかさの背後で、音色の単位が均されていた。柔らかい声で命令を言う装置は、人間をよく躾ける。躾は、たいてい、暴力の代わりに用いられる。


 黒瀬はカメラを肩から外し、ラウンジの机に置いた。置く動作は、手のひらの感覚を信頼していない者の動作だ。ストラップが机の角に引っかかり、短い擦過音が空気に刻まれる。彼女は深呼吸を一つだけして、振り返らないまま歩き出した。扉が開く。開口部の白は、他の白より少しだけ眩しい。眩しさは、光量ではなく、演出の係数によって差し引きされている。演出は倫理ではない。


 導線は直線だった。いつもは左に折れ、階段を上がり、曲がり角ごとに監視カメラの黒い目がある。今日は曲がり角が消え、直線が増えた。直線は、こちらの緊張を破る。破れた緊張は、祝福と恐怖の中間に落ちる。


 「音、追う」


 白波が立ち上がり、耳を細くした。黒瀬の靴底が床材を叩く音が、一定の間隔で遠ざかる。九歩、十歩、十一。十一で、一度、音が二重になった。もう一人が並んで歩いた。止まった。追い越した。後ろに戻った。白波は目を閉じる。二重は空調ではない。配線のノイズでもない。靴音だ。誰かの。誰かが。誰かが並んだ。


 「誰か、並んでる」


 彼女の言葉に、七瀬智が端末のマップを呼び出し、廊下のカメラ群に一斉アクセスをかける。映像が並ぶ。黒瀬の後ろ姿は映る。髪の束が肩で跳ね、腕の振りが少し小さい。後ろは、いない。フレーム外の音だけが、彼女のすぐ右側に人を描く。映像は真実ではない。音も真実ではない。だが、映像の真実性を証明するのは音で、音の真実性を証明するのは映像だ。証明は、ここではいつも足りない。


 《同行は許可されません》


 《Owl》が繰り返す。誰も動かない。動けない。動けば、見える。見えることは、観察になる。観察は、物語に加算される。加算されることで、誰かの退出が薄められる。薄められる退出は、退出ではなくなる。


 ゲートは、施設の南端にあった。誰もそこまで行ったことがない。地図上では、そこにあるとされている。地図の上のものは、現実より先に存在し、現実の位置を熱で誘導する。熱は目に見えない。


 扉はただの扉ではなく、光の平面を縦に立てたようなものだった。枠だけが金属で、内側は白。白の中に、何かはない。何かがあるのは、こちら側。向こう側は、概念だ。概念は、光と同じように眩しい。


 黒瀬は振り返らない。振り返るべき顔が、こちら側には多すぎる。振り返らなければ、顔は記号になる。記号になった顔は、忘れやすい。忘れやすいことは、退出者への礼儀ではない。礼儀を欠いた退出は、置き去りを生む。置き去りは、後で効く。


 彼女が一歩、枠の手前で足を止める。息の間合いを一つだけ変える。変えた息は、白にはならない。白にならない息は、記録に残らない。残らないことが、今は正しい。彼女は足を出す。跨ぐ。足の裏が接地しないように見えた。靴底は床を離れ、光の上を渡り、向こう側へ降りる。降りる瞬間、ラウンジのスクリーンが、一瞬、黒くなった。ブラックアウト。ほとんど一秒。いつもの暗転より短い。短いのに、長い。長さは、待っている者の側の時間に依存する。


 復帰。スクリーンの中央に、文字が浮かぶ。


 《退出完了》


 同時に、名札が消えた。ボードの黒瀬真帆の札は、磁石をはじかれたように細い溝から滑り落ち、床に触れる前に白い光の下で透明に変わった。変わる瞬間、キィと短く音がした。誰の喉にも似ていない音。


 画面の隅で、アーカイブのサムネイル群が一斉に灰になり、灰はやがて白に溶けた。黒瀬が撮った写真——ラウンジの片隅で誰かが片靴の紐を結んでいる写真、廊下で水がこぼれているのを反射で見つけた写真、ベンチの塗装が新しい層に置き換わる瞬間の写真——それらの小さな四角は、文字として残されていたファイル名さえ消え、空白の並びになった。空白は、行間として存在し、内容よりも長く残る。


 東雲沙耶の壁コラージュの一部が、音もなく落ちた。透明のフィルムで貼られた断片が、接着の力を失い、重力の指示通りに床へ降りる。降りた紙片の色は、白と灰と黒が混ざっていた。その中で、ベンチの青だけが壁に残った。青は、透明層に守られている。守られている青は、儀式の色だ。儀式は人間を慰める。慰められることは、しばしば無力の証拠になる。


 「外は」


 古賀が窓際に移動し、耳を澄ます。外は、窓の外ではない。彼の耳は、壁の向こう、鏡の裏、集合写真の余白、観客席の暗がり、その全部の音をひとつに重ねる。重ねた音から外を抽出しようとする。


 白波が静かに首を振った。彼女は音の奥にある空気の密度の変化を探る癖がある。「外の音は、ない」


 彼女が言うとき、ないは要約ではなく、採取の結果だった。外の音は、少なくとも今、こちらに届くようには設計されていない。届かない音は、存在しないと同じくらい強力だ。届かない音は、想像力のための餌になる。餌は、劇場を長生きさせる。


 蓮は吐き気を覚えた。喉の奥で短く唾を飲み、その音が自分の耳にだけ響く。抹消されるからこそ、救いかもしれない。物語の外へ出ることが、救いの唯一の形式である可能性。外で生きるということが、本当に生きるということに最も近いなら、ここでの生は、物語に従属した生で、従属した生は、いつか必ず儀式に飲まれる。


 匿名掲示板が一度だけ淡く光る。署名は“ベンチ”。珍しく二文。


 〈退出は物語の外〉

 〈外に救いはある。だが、物語はそれを認識しない〉


 花岡が唇を噛み、頷くでも首を振るでもない動きをした。彼女の目は、黒瀬のカメラが置かれていた机の上で映らない焦点を探す。机の木目の一本が、少し濃くなったように見える。見えるものの多くは、見えるように作られている。作られているものの多くは、装置の親切だ。親切は、ときに人を不自由にする。


 「俺は外へ行けない」


 羽田が、視線を落としたまま言った。観察者の枠に表示された「自己採点偏差」の小数点が、彼の言葉の揺れと同期していた。観察者は物語の内に縛られる。観察するということは、内側に留まって、内側の熱に当たり続けるということだ。内側から外を見ることはできるが、外に触れることはできない。触れれば、観察は観察でなくなる。観察でなくなることは、こちらの制度において、ゼロ化と同義だ。


 「外は、ほんとうに“外”かな」


 宮原がつぶやく。「物語の外に、外があると仮定する態度は、物語にとって都合がいい。外があるから、内は内で頑張れる。外がないと知れたとき、内は崩れる。崩れても、装置は残る。装置が残る限り、また内が作られる」


 「君は、いつも装置を信じない」


 御堂が言う。彼の声には、楽しげなひびが残っている。「信じない態度が、装置の存続を助けるときもある」


 そのとき、スクリーンが短く震えた。文字ではない。灰色の波が一度だけ走り、すぐに水平線に戻る。七瀬が端末を覗き込む。


 「退出完了のプロトコル、二度目の実行ログ。遅延挿入。戻り値なし。……確認のための確認。消去のための消去」


 黒田が壁のコラージュから落ちた紙片を拾った。落ちた紙は白い。裏返すと、何もない。何もない紙が、もっとも強く手に残る。指先に紙のざらつきが移り、ざらつきはしばらく消えない。手のひらで記憶する方法は、頭で記憶する方法よりも誠実で、残酷だ。


 「写真、残ってないの、やっぱりつらいな」


 古賀が笑おうとして笑えない声で言った。彼は観客でいることを選び続けている。観客の選択は、こちらではいつも「正解」に見えるように設計されている。正解を選ぶと、正解であるという事実が日常化する。日常化した正解は、倫理の筋肉を落とす。


 「ゼロになるなら、それでもいい」


 花岡が、唐突に強い声で言った。「ゼロになっても、外に青があれば。ベンチの青みたいな、目に焼きつく青が、外にもあれば」


 東雲が壁に残った青を指で撫でた。青は昨夜より濃い。濃いのに、表面の透明層が光を滑らせ、触れる指の温度を返さない。「青は、額縁の色にもなる。額の色で、世界は変わる。額縁のない世界が外なら、私は額縁を破きたい。でも、額縁を破る手が、ここにはない」


 ラウンジの隅で、御子柴澪がノートを広げ、今日の出来事を書こうとした。ペン先が紙の上で一度だけ音を立て、止まる。「退出」をどう書くか。書けば、彼女は薄れる。書かなければ、彼女は濃く残る。でも、残るものは嘘だ。嘘で濃いものは、後で剥がれる。剥がれた跡は、生々しさの形をしている。


 蓮は椅子から立ち上がり、校庭へ出た。ベンチは変わらずそこにあり、鏡は朝より低い角度で空を返した。鏡の面に自分の顔を映し、すぐに視線を外す。映った顔は、自分のものではなかった。観察者の顔は、観ることに使い込まれて、輪郭が薄くなる。薄くなった輪郭の中に、昨夜の白い曇りの形が残像として残っている。楕円。息の跡。


 ベンチの座面に指を置く。昨日と違い、温かさはない。温かさがないことは、誰かがここにいない証拠だ。いない証拠は、悲しみより先に安堵を連れてくることがある。安堵の後ろに、遅れて悲しみが来る。遅れて来る悲しみは、長く居座る。


 「蓮」


 背後で羽田が呼ぶ。声は低く、重ねる言葉を持たない。


 「もし、俺が抽選に当たったら」


 羽田が言いかけ、言い直す。「もし、君が当たったら、行く?」


 蓮は少し考えた。考えるふりではなく、本当に考えた。考える時間が長いほど、答えは遠くなる。この施設では、答えが遠い者ほど、ログの価値が上がる。価値が上がることは、選択に圧を与える。


 「行く」


 彼は言った。言うことで、自分の中の何かが一つ折れた音がした。折れたものの名前はわからない。折れた音は、耳には聞こえない。胸の中で小さく鳴り、すぐに静かになる。


 「行けないよ」


 羽田がほとんど囁く。「観察者は、物語から出られない。出た瞬間、観察は破れる。破れた観察は、ここではゼロになる」


 「ゼロになっても」


 蓮は言った。「外で誰かの息が白く曇るのを見られるなら。物語に残らなくても」


 羽田は笑わないで笑い、肩をすくめる。「君はやっぱり斜めを選ぶ」


 「まっすぐは、ここでまっすぐじゃない」


 風が一度だけ強く吹き、鏡の角度がわずかにずれた。返された空は、さっきより青い。青は、ベンチの青とは違う。必ずしも儀式の青ではない。色の名前は同じでも、意味は違う。意味の違いは、額縁の違いで生まれる。


 ラウンジに戻ると、スクリーンは何事もなかったように白紙に戻っていた。白紙は、最も多くを語る。白紙に書かれる前の言葉は、こちらの側にある。書かれてしまえば、こちらの側ではなくなる。書くことは、譲渡だ。譲渡の相手は、装置だ。


 《追加通達:退出許可の抽選は不定期で実施されます。退出者の寄与度ゼロ化は不可逆です》


 不可逆。丁寧な暴力の中で、いちばん硬い語。古賀が眉間を押さえ、御堂は目を細め、宮原は顎を引いた。花岡は深呼吸の回数を数え、白波は耳を傾け、七瀬はコードの隙を探し、黒田は焦点を失ったカメラを机の上でひっくり返す。御子柴はペンを置き、東雲は壁に青を一本引いた。一本の青は、何も変えない。何も変えない線が、時々、人を救う。救ったという証拠は、どこにも残らない。


 蓮はスクリーンの白を見て、まぶたを閉じた。閉じたまぶたの裏に、黒瀬が最後にこちらへ投げずに持って行った視線の温度が、指の腹の記憶と同じ速度で溶けていく。ゼロ化の速度に合わせて、彼は心の中に小さな棚を作る。棚には何も置かない。置かなければ、壊されない。壊されない場所に、まだ名のない息の白さだけが薄く浮かんでいる。浮かんだ白は、認識されない。認識されない救いは、救いである可能性を保持したまま、静かに留まる。


 どこかで扉が閉まる音がした。たぶん、誰かの個室の扉。たぶん、ただの巡回。たぶん、風。たぶんを三つ重ねて、彼らは夕方を迎える。夕方は、判定の時間ではない。今日はもう、何も判定されない。判定されない時間は、装置の空白だ。空白にしか、人の心は自由を置けない。自由は、ここではきわめて軽い。軽い自由を、彼らはしばらく、両手で持っていた。落とさないように。落とせるように。どちらでもいられるうちに。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ