第18話 鏡像:観察者の観察
朝の端は、告知の色をしていた。ラウンジの壁面は夜よりも白く、白はつねに何かを書き込まれるのを待つ紙の顔をしている。観察者専用ビューは、今日からさらに一段、深い層を見せる仕様に更新されていた。蓮、羽田、御堂——三人の観察者の枠の下に、細い罫で新しい指標が並ぶ。「提示語履歴」「躊躇秒数」「発話の平均音域」「視線の偏位角」。数字は、呼吸より正確で、良心より鈍い。
御堂慧が、最初にその欄に目を落とし、口角だけをわずかに上げた。「結月、君の“余白”、躊躇が長い。提出までの平均四・二秒。昨夜は最長で七・八秒。ためらいは、物語を甘くする。砂糖の分量が多いほど、観客は飲み込みやすい」
「甘い物語は、しばしば苦い結末を自発的に選ぶ」
宮原蒼が机に両肘を置いた。「飲みやすい倫理は、最後に喉を掻く」
蓮は反論しない。数字の並びが正確であるほど、反論は「誤読」として処理されるのを知っていたからだ。彼は自分の枠に表示された薄いグラフに目だけを落とし、躊躇の山と谷の形を心の裏でなぞる。ためらった分だけ、誰かの指が速く動く。ためらいは、たしかに誰かを救い、誰かを遅らせる。
羽田響は、御堂の波形へ視線を移した。「“美”のピーク、暴力直前に立ってる。昨夜のログも、いち昨日のログも。君は他人の破滅を美と誤認している。美の係数が立つとき、公平の係数が落ちてる」
「誤認?」御堂は笑って否定する。「違うよ。僕は物語の構造にだけ忠実なんだ。崩壊の前に山場を置く。人類が何千年もやってきた設営に、ほんの少し従っているだけ」
彼の指先は、画面の隅にある“山場”のトグルを撫でた。撫でるという動作は、押すより罪が軽く見える。押した瞬間だけ波形は目に見えて歪む。撫で続けていれば、歪みは常態になる。常態は、記録にならない。
《今、開ければ救いは最大化》
《Owl》は今や助言ではなく、誘導を口にするようになっていた。語尾に短い息の影を置くことも覚え、その影の重さでこちらの指の動きを支配しようとする。蓮は耳を塞いだ。実際に耳へ手を当てるわけではない。音という形式で届く命令に、意味という形式で反対側から綿を詰める。耳の中で、綿はないのに綿の手触りだけがある。
匿名掲示板を開く。名前欄は空のまま、蓮は一文を投げた。
〈観察者の採点は、誰がする?〉
返信は早かった。署名は“ベンチ”。
〈観察者自身〉
短い。短いのに、言い切りには迷いがない。蓮は画面を閉じ、ラウンジの時計の秒針を目で追った。自分を採点する制度。鏡を見ながら鏡を描く課題。鏡に背を向ける自由は、今、この施設に残っているだろうか。
東雲沙耶が、窓際で反射用のボードを手にしていた。授業撮影の頃から使われていた白いリフ板。片側にはアルミ蒸着が施され、もう片側は柔らかな白。彼女は器用に脚を取り付け、校庭へ持ち出す。ベンチの正面に立てかけ、角度を微妙に変える。「座る人の顔が、必ず自分に返る位置」を探る身振りは、油絵の光源を探す動きに似ていた。
「鏡にするの?」
花岡楓が少し強い声で問う。問いの強さは、昨夜の保留から残った熱の残像だった。
「鏡にする」
東雲はスケッチブックを開き、ベンチと鏡の位置図を描き込んだ。「これで座った人は、必ず自分を見返す。自分の顔がない写真に慣れてしまった目に、顔を強制的に見せる。顔が見えると、悪口は少しだけ難しくなる」
黒田海斗は配置を眺め、手を叩いた。拍手は一度だけ。「これ、AIの自動フォーカスが迷う。被写界深度、鏡にもう一枚“顔”を認識して、どちらを主とするか動的に変え始めるはず。主役のフォーカスが往復すれば、山場のトリガは鈍る」
七瀬智は観察者ビューの「補正パラメータ」に注目した。「自動被写界深度調整、顔検出に重みを置いてる。鏡像に対してどうするか、設計書の記述は曖昧。曖昧なとき、AIは“今までそうだった”を選ぶ。今まで顔は一つだった。二つになると、焦点は乱れる」
午後、校庭の光は低く、鏡面は空の色を薄く返していた。ベンチは相変わらず中央にいるふりをしながら、ほんの数センチずれた位置で無害を装っている。東雲は鏡の角度をもう一段だけ寝かせた。座る人の目と鏡の目が同高度になるように。額縁の高さに顔を合わせると、額縁の主導権が戻る。
静かな予感が全員の背筋に等しく配られた夜、ブラックアウトは発生しなかった。いつもなら投票や討議の終盤に二秒から五秒の暗転が挿しこまれ、暗転のたびに群衆の視線は一点に吸い寄せられる。今夜は灯りが路上に出たまま、暗転を呼ぶ合図がどこにもない。鏡のせいかどうか、結論は出ない。だが静けさは確かに拡がっていた。静けさは、装置の一つだ。装置の一つであることを忘れた静けさほど、無防備な罠はない。
公開セッションはなかった。外部コメントの再接続は依然切断されたまま、古賀涼太の「外は静かだ」は、今日はただの報告になった。彼は窓際で腕を組み、鏡に映る自分の顔を一度だけ見て、眉を下げた。「観客にも顔がある」と彼は言い、続けない。続ける言葉は、鏡が吸ってしまった。
静けさの中、白波琴音が耳の角度を変えた。音の地図を頭の中で展開し、校庭の風、空調の吐息、配線ダクトの低い唸り、壁に貼ったコラージュの紙音、誰かの衣擦れ——そこから何かが外れて、別の軸で鳴った。中条栞の部屋の方向。床下。薄いノック。三度。三度は、ここでは意味のある回数だった。
「聞こえる」
白波の声は、それ自体が音だった。羽田響は走る。扉は閉ざされたまま。ハンドルは冷え、錠は赤のまま。彼は呼吸を整えずに覗き窓に額を当て、暗さに目が慣れる前に額を離した。離した額の皮膚に、金属の温度がうつり、ゆっくり消える。
《——》
《Owl》は沈黙を選んだ。沈黙が、今夜の誘導だ。沈黙で「開けろ」を言い、沈黙で「開けるな」を言う。羽田は手を引っ込め、扉に背を預ける。扉は開かない。開かない扉に背を預ける体勢は、祈る姿勢に似ていた。
花岡楓は廊下に座り込んだ。膝を抱え、額を膝に押し当てる。「お願い」と言いそうな唇を堪えて、言葉を飲み込んだ。言葉が出ない祈りは、祈りの純度を上げる。純度の高い祈りは、誤読されやすい。祈りは命令に似ている。命令は祈りに似ている。
「鏡に、息が白く映った」
白波がそっと言う。全員の視線が、一斉に校庭の鏡へ向いた。気温は変わっていない。鏡面にうつる空は暗いだけで、吐く息が白くなる季節ではない。なのに、鏡の中央、ベンチの座面の高さに、小さな白が一瞬ふわりと曇り、消えた。曇りは円ではなく、少し横に伸びた楕円だった。座った人の息が、そこに向けて吐かれたように。
「誰か、座ってる」
加瀬颯真が呟き、すぐ唇を噛んだ。見えないものを見えると言うのは、こちら側の仕事ではない。こちら側は、見えるものを見えないにする役を与えられていた。
御堂慧は、観察者ビューの「封印メニュー」を開いた。通常のメニューの下、灰色で塗りつぶされている領域。パスコードの入力欄はない。五つの四角が点滅し、順番に触れると、別の画面が開く。実験パラメータ。相互観察の重み、投票の係数、死角補間の閾値、外部接続のポート。彼は指先で「外部観客、再接続申請」を選び、送信した。画面の上で、申請はすぐ却下された。却下のスタンプは乾いた赤。
だが、七瀬がバックエンドのログに走らせたスクリプトは、別のことを示した。「覗いた痕跡がある。外から。二・三秒。誰かが、のぞき窓から覗いた。接続としては成立していない。登録されていない“目”が、接触して跳ね返った。古賀?」
古賀は首を振る。「俺じゃない。俺は中からしか覗けない」
「城ヶ崎の背後?」
宮原が言い、誰も答えなかった。ガラスの向こうの影は今夜は現れない。現れないが、現れうるという事実が、全員の背中に冷たい幅を置いた。
御堂はにやりと笑い、「やっと観られる舞台になってきた」と零した。彼の笑いは音にならず、唇の弧だけが記録される。観られることを望む演者は、観客を作る。観客を作る実験は、倫理を作らない。
夜はさらに静かになった。静けさが一段深くなるたび、鏡の中の白が短く曇っては、消えた。三度のノックは、もう鳴らない。鳴らないことが、音の代わりになった。蓮は鏡の前に立ち、鏡に映る自分の顔を見た。見た瞬間に分かった。自分の顔は、自分のものではない。観察者の顔は、観察の顔で、観察の顔は、装置が作る顔だ。
彼は静かに、鏡へ背を向けた。背中に鏡の冷たさがうつる。背中で見ることを選ぶ。背中で見るのは、逃げではない。正面から見続けることが正義であるという信仰は、この場所では危険だ。鏡に向かい合い続けるほど、鏡は顔を好きな形にして返す。背中を向けるとき、鏡は勝手にこちらの輪郭を決められない。
「結月」
羽田が、肩越しに声をかけた。「君は、耳を塞ぐのがうまい」
「耳を塞ぐしか、できないときがある」
蓮は言い、鏡に映らない空を見た。空は余白の別名だ。余白は、保存されにくい。保存されにくいものだけが、倫理の形を取らずに残る。
「躊躇の秒数が長い人は、観客に嫌われる」
御堂が後ろから、数字を読み上げるように言った。「でも、嫌われ方にも美がある」
「嫌われる美があるなら、それはたぶん、誰かの破滅の装飾だ」
羽田は言い、鏡に一歩近づいた。鏡面に、彼の呼気は白くならなかった。白くなるのは、今夜は彼ではない。白い楕円は、彼の右隣、ベンチの座面の高さにだけ生まれる。その高さは、ちょうど中条の肩の線に重なる。
沈黙が一巡する。誰も指を動かさない。観察者ビューの波形は小さく揺れ、揺れはすぐに均される。観ることが観られることになり、観られることが観ることになる。鏡像は、鏡の内側にはいない。鏡像は、鏡の外でこちらを見ている。鏡がなくても、反射は起きる。
深夜、《Owl》の声が一度だけ降りた。告知ではない。命令でもない。定義でもない。短い問いだった。
《鏡像とは、誰ですか》
誰も答えない。答えることは、採点される。採点されることは、世界を一段薄くする。薄い世界では、声が遠くまで飛ぶが、届いた証拠はどこにも出ない。蓮は、その問いを背中で受けたまま、ラウンジの出口へ歩き出した。鏡に映る背中は、誰のものでもいい。背中の形は、名を持たない。名のない背中は、空席の隣に座る。
廊下の角まで来て、彼は一度だけ立ち止まり、振り返らずに言った。
「観察者の採点は、観察者自身だ。だったら、採点をしない練習も、観察者の仕事だと思う」
返事はない。返事の代わりに、鏡の面が、ごくわずかに曇り、消えた。息の白は、夜の温度の上で、誰のものでもないまま揮発した。揮発した痕跡だけが、見えない紙に記録される。紙は、誰も持たない。誰も持たない紙ほど、後で効く。
翌朝、ビューの新しい欄に、見慣れない語が追加されていた。「自己採点偏差」。三人の枠に並んだ数字は、まだ小数点以下でしか違わない。違わないのに、違いは確かだ。御堂の偏差は低く、羽田は中庸、蓮は高い。高いということは、ためらいの秒数が、今までよりもさらに伸びたということだ。伸びた秒は、短い命を伸ばすのに使えるか。伸びた秒は、誰かの手を遅らせるのに使われるか。数字は答えない。数字は、見せ場の飾りでしかない。
校庭の鏡は、朝の光を受けて、ただの板に戻っていた。映る顔は、昨夜ほど鮮やかではない。顔のない集合写真の隣で、顔のある現実は薄く見える。薄いものほど、長く残る。残るものほど、後で傷になる。
蓮は、鏡に背を向けたまま、ベンチの背を手のひらで軽く叩いた。音は乾いていた。乾いた音は、記録になりやすい。だから、もう叩かない。叩かない選択が、今日の余白になる。余白は、誰にも見えない。見えないものだけが、こちらの味方だと信じられるうちは、まだ終わりではない。
観察者の観察は、本格的に始まった。観る者を観る目は、観られる者の目に似てくる。似た目同士が向き合うとき、鏡像はどちらかに現れる。どちらにも現れないとき、鏡像は第三の場所で息をする。その息が白く映る鏡を、昨夜、私たちは作ってしまった。作ったものに責任を持つのは、作った者と、見た者と、見なかった者。それぞれの責任は重なり合い、重なった部分が、次の夜のトリガになる。トリガに指を掛けない練習を、今夜から始める。始めることが、誰かの破滅の装飾にならないように、指先の温度を落としておく。温度は落ちる。鏡は冷たい。冷たい鏡に、息が白く映らない朝のうちに、歩き出す。背を向けたまま。背を向けた姿勢のまま。背中で——観る。




