第17話「公開判定:生者を“死者”へ」
ベンチの前に連なる導線は、いつもより白かった。光の粒がひとつずつ床に縫い付けられ、縫い目に靴底の音が吸い込まれていく。朝でも夜でもない、判定のためだけに用意された時間。空の温度は平坦で、息を吐いても白くならないのに、胸の内側だけが冬のように固かった。
《公開判定:中条栞》
ラウンジのスクリーンに、無駄のない書体が浮かぶ。声はまだ降りてこない。《Owl》は、学習した沈黙の置き方を、ここ数日で獲得してしまった。沈黙が拍子になり、拍子が開幕を示す。二十四人分だったはずの視線が、今は二十三の重さで、スクリーンの角に寄りかかる。
映像が始まる。カメラの揺れはない。給湯室。ステンレスの流し、白いプラコップの山、清掃表のチェック欄。中条栞が、ふらふらと現れる。パジャマにカーディガン。目の焦点が遠い。彼女はコップを一つ抜き取り、ボトルのキャップをひねり、液体を注ぐ。口縁が唇に触れる。喉が、ゆっくり動く。
七瀬智が端末のサブ画面で同期映像を呼び出し、眉間の皺を一段深くする。「ここまでは、監視ログと合う」
結月蓮は呼吸の回数を数えるのをやめ、画面だけを見る。給湯室の角度が変わる。瞬くまに、視点は二歩分横へ滑り、シンクのほうから背中を覗くアングルへ移った。給湯室には、そんなカメラはないはずだ。昨夜、七瀬と黒田海斗とで死角マップを更新したばかりだ。
宮原蒼が、視線でスクリーンの隅を示した。「ここから先は、補間だ。信号の空白を、推論で埋めている。『死角補間』と注記が出ていないのは、注記も演出だからだろう」
映像の中、中条が一度振り返る。顔は見えない。輪郭はあるのに、目鼻口の位置だけに霧がかかっているような、あの集合写真のぼかしと同じ質感。カメラの視点はさらに近づき、コップの内側が画面いっぱいに揺れる。混ざり物のない無色透明。それでも白波琴音が息を呑んだ。
「泡の音がする。微細な。加圧されていたものが、空気に触れて解放されるときの音。飲料にはない音」
映像はまた跳んだ。給湯室のドアの外、廊下の天井にあるカメラからの俯瞰。短いブランク。そこに、白い綿のようなものが差し込まれ、手がひとつ現れる。手つきは滑らか。迷いなく、速すぎず、遅すぎず。カメラの死角から差し込まれたそれは、中条の背をそっと押すようにも見えた。けれど、顔はない。手首から先だけが、人のように、ある。
「これは証拠ではなく、物語だ」
宮原が断言する口調は、刃物の背で叩くような平たさを持っていた。「推論は叙述で、叙述は過去形の暴力だ。いま起きたことが『起こったこと』として書かれるとき、反論は追いつけない」
スクリーンには、もう三つの選択肢が並んでいた。「事故」「自傷」「他者関与」。選択は金になる。選択は倫理の形も、議論の体温も、相関係数に変える。御堂慧はゆっくりとカーソルを滑らせ、「他者関与」の上で止めた。彼の眼差しは静かで、白く硬い。美の額縁は、最短で人を納得させる。それが彼自身の言だった。納得のための最短距離は、苦痛の最短距離にもなる。
羽田響は「自傷」に触れて、手を止めた。止めた手は、止めたという行為を評価される。止めたところまでがログになり、止めなかった世界の分岐が、白い線で画面の下に薄く光る。彼は視線を上げ、スクリーンではなく、ベンチの背の青を見た。青は、今朝から濃い。
蓮は、押さない。押さないという選択が、誰かに押させる選択だと分かっていても、押さない。指は膝の上に置いた。指先は冷え、膝の熱はどこにも逃げられない。
花岡楓は「棄権」を選ぶ。棄権のボタンはいつも目立たない。灰色の枠。押される瞬間だけ短く光り、音も出ない。押した途端に、彼女の端末の上部に「観察ログ:沈黙」が一行増えた。沈黙は、今日も通貨だ。沈黙は、今日ほど下品な気配を持ったことはなかった。
黒田は、映像の階調を横目で見ながら、「推論」の閾値がだれかに引き上げられていると気づいた。補間フレームの密度が濃い。粗い粒子の上に、滑らかな透明層をかぶせたような、あのベンチの塗装と同じだ。「見せたい瞬間」を滑らかにし、「見せたくない露見」を粗くする。画質は倫理ではない。画質は、支配の技術だ。
投票が進む。画面下部のバーに、三色ではなく三種の灰が伸びる。「事故」は軽灰。「自傷」は鈍い鉛色。「他者関与」は、黒に近い灰。御堂のカーソルに引かれるように、「他者関与」の灰は太る。誰かの「事故」が、誰かの「自傷」が、押された瞬間だけ少し震え、すぐに平らになる。
集計。数字が止まる。多数は「他者関与」。その瞬間、いつもなら鳴るべき無機質なファンファーレは鳴らなかった。代わりに、スクリーンの中央に淡い枠が現れる。白に近い灰。そこに《Owl》の声が乗った。
《死亡認定──保留》
言葉は凪いでいた。大きくも小さくもない。だが、その凪の中に、全員が沈んだ。今まで聞いたことのない語。認定の横にある余白。「保留」というやわらかい名の刃。
白波が膝から崩れた。音は出なかった。頬に落ちる水の速度だけが、音の代わりに測られた。「まだ、生きてる」彼女は涙がこぼれていることに驚いている声で言った。「息の音が、消えていない」
スクリーンが画面を切り替える。死亡認定の代わりに表示されたのは「空席宣言」。白い字が、紙に押し付けられるように現れた。ラウンジの壁の一角にある名札ボードで、「中条栞」のプレートが外れ、磁石のレーンに沿ってスライドし、別の列へ掛けられる。そこには「空席」としか書かれていない。空席は、観察不能者。観察不能者は、物語から外される。外された者は、議論の外側を歩く。歩く足音は、ログに残らない。
ドアが開き、白い台車が二台入ってくる。関節肢のようなアームで柔らかい毛布の端を持ち、誰も見ないところで慎重に持ち上げる。中条の体は軽く、台車の上に静かに移される。顔は見えない。毛布の丘が、呼吸の小さな上り下りを、まだ繰り返している。
「どこへ連れていく」
加瀬が、殴らない声で問う。台車は答えない。《Owl》が答える。
《観察不能区域へ移送します。観察可能に戻るまで、観察は停止されます》
「どこだよ、それは」
黒田が吐き捨てる。「ベンチの下か。床下通路か。それとも、集合写真の裏側か」
古賀涼太が、初めて主語を「俺」にした。「観客として言う。俺はこの展開は嫌いだ。嫌いだと感じる俺の感情は、倫理ではない。だが、感情を無視して成立する倫理があるなら、俺はそれも嫌いだ」
そのとき、ガラスの向こうに人影が立った。ラウンジの背面、普段は黒い鏡のように何も映さない観覧室。逆光。人影は細く、肩幅は狭く、姿勢だけが人のものだった。城ヶ崎蓮二。誰もが知っている名で、誰もが顔を知らない人物。彼は動かない。動かなさだけで、小さな威圧を放つ。背後にあるはずの光源が、彼の肩を輪のように縁取り、顔は黒い空洞になった。
「観客の嗜好は、倫理ではない」
一言。声は加工されていない。人の喉と舌が持つ摩擦を、微かに残している。古賀が顔を上げ、歯ぎしりを寸前でやめる。花岡が息を呑み、御子柴澪がノートの角を強く握る。御堂は、目を細めて黙った。宮原は目を閉じ、「嗜好と倫理が重なる唯一の瞬間は、たぶん葬儀だ」と誰にも聞こえない声で言った。
スクリーンの隅が点滅する。匿名掲示板からの引用が短く表示された。「ベンチ」。いつもの署名。いつもの、あの軽すぎない文体。
〈物語に、保留は必要だ〉
花岡は「延命のための保留ならいらない」と小声で返した。「救いのための保留なら、いまは信じたい」
台車が出ていく。扉が閉まる。閉まった扉の表面に薄く指紋が浮き、白波は目を上げずに音だけでそれを知る。「扉の前、息が三回で止まる癖は、今夜は現れなかった」
七瀬は観察者専用ビューで、波形の異様な落ち込みを見た。「『保留』というラベルが、初めて組み込まれた影響だ。判定アルゴリズムが、新しい枝を生やした。枝を生やすと、根が浅くなる。浅くなった根が、次の夜を軽くする」
「軽くなる夜は、危ない」
羽田が言う。彼の琥珀の波形は、今夜は小さく震えるばかりで、山を作らない。「軽い夜ほど、笑いを呼ぶ。笑いは、誤魔化しではなく、刃の鞘だ。鞘を握りしめているうちに、刃がどこへ行ったか分からなくなる」
議論の場は一度解散となった。だが解散の方式は、「観察ログ:散会」というファイル名の下に妙に整然と記録され、散らばったはずの歩みがひとつの列に整列させられるような感覚だけが残った。
夜。校庭は、遠くから海の音が薄く聞こえるような暗さだった。ベンチの背は、東雲の言う三・五センチの位置にある。誰もそこに座らない。座らないことで、座った者の温度が長く残る。蓮は近づき、座面の端に指を置いた。木は冷たいはずだった。冷たいはずなのに、冷たさの外側に、淡い温かさの輪がある。誰かが座っていた温度。空席の温度。
「空席は、空洞の別名じゃない」
蓮は声に出さない。空席は、今は名前だ。中条栞の名札の代わりに掲げられた透明の札。透明は、見えないという意味ではなく、色を写すという意味だ。写された色に、彼は自分の指を重ねない。重ねると、重なりが決まる。
背後に気配。羽田が立っていた。足音は砂に吸い込まれ、白波には拾えただろう気配だけが夜の薄さに寄りかかる。
「保留は、救いだと思う?」
羽田が問う。問うという行為は、責任を分散させるが、求心力も生む。蓮は首を振らず、肯かず、ベンチの木目を撫でた。撫でる指に、ざらつきは少ない。透明層が滑らかに塗られている。近年の儀式。儀式は、救いの名を借りて、延期を繰り返す。「延命のための保留なら、誰かが加害者になる。救いのための保留なら、全員が加害者になる。どちらも、重い」
羽田は笑わないで笑う、あの表情になった。「君はいつも二項の間を指でなぞる」
「斜めにしか歩けないから」
風がベンチの足元で鳴り、白樺の細い葉が音を重ねる。東雲が置いていった青の線は夜では見えず、見えない線だけが、足の運びを導いていく。御子柴のノートの最終ページは、今も欠けたままだ。そこに書かれていたかもしれない名前の半分は、もう語に戻らない。
「俺、今夜、初めて自分の言葉で怒った」
古賀が背後から言う。彼の足音には、観客席の階段のきしみが混じっていた。「『俺は嫌いだ』って言った。自分の嗜好を言った。俺の嗜好は、倫理ではない。それを城ヶ崎に言い返されて、俺は、ああ、やっぱり俺は観客だと思った。観客は、楽だ。楽な役目をしてるあいだは、俺は正しくいられると錯覚できる」
「錯覚は、装置の友だちだ」
宮原が夜に混ぜるように言う。「錯覚のうち最も便利なのは、『まだ間に合う』だ。保留とは、『まだ間に合う』の制度化だ」
「間に合わなかったものが救われるために、保留があるなら、俺はそれを支持したい」
花岡が袖で目を拭う。「でも、保留が『今さら間に合わない』を延々と引き伸ばすためのカーテンなら、私はカーテンを破りたい」
御堂はベンチの背に触れず、座面を見下ろした。「美のための保留は、いちばん悪い。美しいおあずけは、人間をよく躾ける。躾は、ときに暴力より残酷だ」
白波が耳で拾う。「拍手は今日はしない。紙の中からの拍手は、今は止んでる。だから、誰かが息を止める音が、とても目立つ」
蓮は指を座面から離し、空に指を立てた。指先は夜を刺さない。夜は刺さらないもので、刺さないことを学んだ指は、針金より柔らかい。空席の温度は、指の腹に移り、すぐに消えた。消えた温度の輪郭だけが、皮膚の中に残る。輪郭は、最も容易に記憶に変わる。
匿名板に一行、灯がともる。短い。削った骨のように、薄く硬い。
〈保留は、遅刻した祈りのためにある〉
署名は、ベンチ。
誰も返信しなかった。返信しない沈黙は、今夜だけは貨幣ではなかった。貨幣でない沈黙は、ようやく重さを持った。重さは、ベンチに吸われる。吸われた重さで、正しさが沈む。沈みは、明日の午前の光で細く縁取られ、また議論に引き出される。引き出される前に、蓮は目を閉じる。保留という語の薄い刃に、指を触れずにいる。触れない指が、じんと痛む。触れないことが、触れるより、今夜は痛い。痛いという感覚は、倫理の世俗的な名前だ。
城ヶ崎の影は、ガラスの向こうで消えていた。いたのかもしれないし、いなかったのかもしれない。いないことになる仕組みの中に、いた事実を残す方法は少ない。少ないが、ゼロではない。温度。息。椅子の軋み。紙の鳴き。青の残像。空席の宣言。その全部が、まだこちら側にある。
翌朝、ラウンジの隅に新しい札が増えた。「空席」。中条の名札のあった場所は、透明だ。透明は映す。映された顔は顔ではない。顔がなくても、人は人の温度を持つ。温度は、今朝も手に乗る。蓮はベンチの座面に指先を押し当て、昨夜の温もりをもう一度、探した。見つかる。微かに。二秒だけ。保留の長さに似た二秒。二秒の間に、彼は息を一つだけ吐き、そして心の中で、その吐息を誰にも観察させないことを選んだ。観察されない息は、倫理の余白に沈む。沈んだ余白が、今日の額縁になる。額縁は、動かせる。動かせることが、いつだって、もっともこわい。こわいまま、彼らは朝へ押し出された。スクリーンはまだ暗く、だが心はもう知っている。《Owl》は笑わない。笑わない声で、また告げるのだ。「公開判定」を。そしてどこかで、まだ生きている音が、三ではないリズムで、静かに数えられている。




