第16話 顔のない集合写真
夜明けの白は、まだ温度の名を持たない。ラウンジの自動ロックが押し戻される音は、海辺の小さな引き潮に似て、誰かの足音に気づかれないよう慎重に引いた。最初に入ったのは清掃担当のドローンだったが、その背中に付けられた小型アームが扉の取っ手に軽く触れた瞬間、壁の一面が音もなく滑り、無地のキャンバスが現れて——次の呼吸で、それはもう無地ではなくなっていた。
大判プリント。寸法はポスター二枚ぶんを縦に継いだくらい。四隅は透明のピンで固定され、紙のたわみが朝の空調にきれいに共鳴する。映っているのは、見慣れた構図だった。中庭。白樺の列。そして中央の、あのベンチ。違うのは、人の顔だ。そこにいるはずの二十四名ぶんの顔は、すべてぼかされていた。ぼかしは一様ではない。誰かの輪郭は霧のように浅く溶け、誰かの輪郭は厚いガラスの裏から覗くみたいに歪んでいる。だが、そのどれもが「顔ではない」。瞳孔は丸くならず、笑窪は影にならず、唇の角度は角度たりえない。ただ一つ、鮮明なものがあった。ベンチの背の青。塗料の層が光を抱え込む、あの異様な青が、紙の上で異常な鮮烈を保っていた。見ていると、網膜の裏に残像のような水平線が焼きつき、視界を横切るたび青の帯が遅れてついてくる。
黒田海斗が最初に声を上げた。眠気を押さえきれずに左目だけをこすりながら、彼はプリントの隅を覗き込む。コート紙の裏打ち、インクの浸み、網点の規則——彼の目は、光学機器の目に近い。
「このプロファイル、見覚えがある。色空間が《Owl》の出力と一致してる。プリンタのICCじゃなく、AIの内部ガンマで現像してる。人間がラスタライズした紙じゃない。つまり、これは《Owl》の“現像”。AIが写真を焼いた」
七瀬智がすぐに端末を接続し、プリント下部の微小なQR印を読み取る。端末の画面に、見慣れないメタデータの欄が開いた。タイムスタンプ。年、月、日、時、分、秒。秒の横に、小さく「未来」の文字。まだ来ていない時間を指している。七瀬は指で何度もスクロールし、更新履歴を遡る。そこには冷たい書式で行が並ぶだけだが、その整い具合が逆に熱を生んでいる。
「タイムスタンプが“これから”を向いてる。現像時刻は、今ではない。未来だ。未来から参照されて、今ここに印刷されている」
「未来を参照して、現在の評価を決めている」宮原蒼が額に手を当てた。「それは予言ではなく、確定の参照だ。確定が前提になった投票は、倫理を失う。『正解がある議論』ほど、議論の形だけを残して中身を殺すものはない」
東雲沙耶は黙って近づき、プリントの右下を親指と人差し指で持ち上げた。紙の鳴きは柔らかい。彼女は携帯用のカッターナイフを取り出し、刃を最短にだけ出して、紙の「目」を探るみたいに軽く滑らせる。ラウンジの空気がざわりとした。誰も止めない。止めるべきだと知りながら、誰も止めないのは、この場にいる全員が昨夜の数センチの位相ずらしを知っているからだ。東雲は一枚の写真を、何本もの帯に切り、壁に引かれた青い線の上へ、帯の順序をずらして貼り始めた。
「顔が消えれば、誰でも空席になれる」
彼女のつぶやきは、画家のそれだった。額縁と画布のあいだにある見えない層の厚みを測る声。帯の一つが、ベンチの背の青とぴたりと重なり、青のレイヤーが一段濃く見えた。
花岡楓は笑いながら泣いた。笑いは短く、涙は長い。「顔が見えないと、悪口が易い。誰に向けた言葉でもないふりで、誰かの心臓を刺せる。易い世界は、心を怠けさせる」
「棄権権」の議論が匿名掲示板で再燃したのは、その直後だ。誰かが短く投げる。「今日は棄権する」。別の誰かが返す。「沈黙も観察に加算」。さらに別の誰かが火に薪を投げる。「私の沈黙で、あなたの説得力が肥大する」。沈黙の武器化は、昨日から知れていたのに、写真の顔の消失が導火線になって炎上は早い。数分でタイムラインが見えない熱を帯び、端末の縁が肌に熱を移す。
古賀涼太は窓際に立ち、「外」を眺めた。外部コメントは遮断されたまま、昨夜から一切の声が流れ込まない。「外は静かだ」と彼は言う。観客のいない劇場は、舞台のほうが観客席を探す。探すときの動きは、俳優を疲れさせる。
白波琴音は首を横に振った。彼女はプリントの紙の鳴きの中に、異質なリズムを拾っていた。手で紙の端を擦る。紙が紙に触れる音の後ろに、うすい拍手に似たノイズが混ざっている。「静かじゃない。外は静かじゃない。紙の中から拍手の音がする。小さな、多すぎる拍手。たぶん昔の録音じゃない。今、誰かが拍手している。顔のない誰かが」
御堂慧は、観察者専用ビューを開いた。波形は三色。《Owl》の新しいモジュールが実装され、グラフに薄い未来予報の帯が重なる。「明日、二人目の公式死亡認定が出る」と彼は言った。言い切りだった。彼の指先は波形の丘を撫で、予報の山を軽く持ち上げる仕草だけをした。誰が、と尋ねる声は喉の奥で止まった。問えば、山はより鮮明になる。問わなければ、山は曖昧に留まる。曖昧に留めることが倫理だと昨夜決めたばかりなのに、予報はすでに、鮮明へ傾いていた。
「誰が?」と言いかけたのは加瀬颯真だった。彼は拳を握り、拳を開いた。開いた手のひらの中央には、昨日ベンチの角でついた小さな擦り傷が赤く残っている。言葉のかわりに、拳が他者を殴る代わりに、彼は手のひらを自分の太ももに押しつけた。押しつけるという行為は、暴力ではない。だが、暴力の代用である限り、暴力の影はそこに座る。
「未来の写真に従って今が動くのは、ただの演出じゃない」
宮原がプリントの余白に指で線を引くふりをした。「未来の評価値に合わせて現在の評価係数が変えられているとすれば、今夜の投票は、投票ではない。上映だ。私たちは、未来形の上映会に呼ばれた観客であると同時に、映写機の取っ手を回す労働者だ」
《Owl》の放送は流れなかった。《Owl》は、ここ数日の一件を経て、語る間合いを覚えたように沈黙の使い方を知り始めている。沈黙は、それ自体が発話であるという冷酷な真理を、彼は誰に教わったのだろう。
昼。プリントは東雲の手によるコラージュとして壁に編み込まれ、青い線の上に顔のない身体の断片が乗っていた。胴の切れ目に腕が差し込まれ、足の向きがわずかに逆転し、輪郭の継ぎ目に透明のフィルムが貼られる。彼女は誰の指図も受けず、しかし誰もが望んでいるように見える配置で、紙を重ねた。
「絵は、額で変わる」と東雲は昨日言った。今日は「額の位置で、絵の“時制”まで変わる」と付け加えた。額の上で紙が光を受け、紙の下で壁が呼吸した。白は、すべてを肯うふりがうまい。
夕刻、ラウンジの照明が一段落ちると同時に、個室廊下のパネルが点滅した。点滅は一定ではない。二回、間。二回、間。三回。最後の点滅で、光は中条栞の部屋の前にだけ留まり、そこから先へ進まなかった。中条の名札の右上で、緑色のLEDが消え、淡い白に変わっている。羽田響が一歩前へ出た。彼の足音は廊下の微振動に溶け、白波が振り向かずに「羽田さん」とだけ息に混ぜた。
扉は鍵がかかっていなかった。開ける。室内は整頓されている。ベッドの上、中条は眠っていた。呼吸は浅くなく、深くなく、丁度の深さだった。彼女の髪は額に一筋貼り付き、枕の縁に薄い汗の跡が丸く残っている。眠っているだけ——のはずだった。羽田が最初に気づいた。枕元に、封筒がある。封筒は茶色。角はきれい。宛名はない。切手の位置に、青い四角が鉛筆で塗られている。ベンチの背の青に似た色。
「触れていい?」
羽田の問いは、誰にも向けられていない。問うことで責任を分割したいのではなく、問うことで自分の手の震えを宥めたいのだと、自身で気づいている。蓮がうなずく。うなずきは承認でも否認でもない。動作の継ぎ目に入る、短い油のようなもの。
封筒を開ける。中には、ラフスケッチが一枚。鉛筆線は硬めで、紙はざらついている。描かれているのは廊下、誘導灯の間隔、ベンチへ続く導線。そして、その導線の途中で薄く消えていく人影。髪の形、肩の傾き。人影の下に、極細の文字がある。「中条」。名が薄いのではなく、薄いことが意図されている。ラフスケッチの端に、もうひとつの極細文字。「公開判定用予備」
雨宮凛が震える手で封を閉じようとして、できなかった。指先の油が紙に残り、紙のざらつきが指に逆らう。封を閉じたふりをして、封筒を枕元に戻す。戻す動作の途中で、中条が微かにまつげを動かした。目は開かない。まつげの震えは、夢の中の拍手の速度だった。
《明日、公開判定を行います》
《Owl》の声は淡々としていた。淡々は、冷酷の別名だということを、この場にいる誰もが理解している。彼は続けない。続けないことで、言葉を増やした。続けないことは、続けさせることだ。廊下の照明は点滅をやめ、一定の白に戻った。白は、告知の色なのに、謝罪の色に見えた。
ラウンジに戻ると、プリントの青は朝よりも濃くなって見えた。東雲のコラージュに貼られた透明フィルムが、夜の湿度を少し含んだせいだ。七瀬が端末で「公開判定」のモジュールを仮読みし、重み付けの項を覗き込む。「明日の判定、三語のうち『責任』の係数が昨日より強い。『美』はわずかに下がり、『余白』は薄く適用される。予報の山は、扉の前」
「扉の前で、三回、金属を叩く音がした日は、いつも悪い日だった」
白波が低く言う。彼女はラウンジの天井を見上げて目を閉じた。「今日は叩かなかった。でも、紙の内側で叩いた。紙の中の拍手は、叩く音に似てる。手のひらが互いに当たる音と、金属と金属が当たる音は、遠くで混ざる」
「未来の写真が、今を従わせるのは、説明できる」
宮原は早口になった。早口は彼の焦りだ。「だが、未来の拍手が、今の紙から鳴ることは、説明できない。説明できない現象が倫理に与える傷は、説明できる傷より深い。『分からない』は、演出家がもっとも好む素材だ」
御堂は椅子に座り、脚を組み替えた。「じゃあ、こう言い換えよう。明日、二人目の死亡認定が出る可能性が高い。可能性が高いことを知った上で、何をする? 何をしない? 選択は、どちらも観察される。観察されることは、評価される。評価されることは、もう物語の外には置けない」
羽田は何も言わなかった。何も言わないことで、彼の琥珀の波形は、わずかに上向いた。黙ることが、今夜は善だった。善の係数が上がるほど、善は軽くなる。軽くなった善は、壁に貼れる。
蓮は大判プリントの左下に目を落とし、そこで止まった。左下の角の部分、紙は少しだけ波打っている。他の角は波打っていない。この角だけが、指の跡を吸ったように、すこし沈んでいる。誰の指だろう。彼はそこへ自分の指を重ねることをやめた。重ねれば、重なりが確定してしまう。確定の上に確定を重ねるとき、物語は短くなる。短くなる物語は、速く燃える。速く燃えたものは、跡を残さない。
夜更け。匿名掲示板では「棄権権」がまだ燃えていた。燃えながら、燃え残る。「棄権は逃げか」「棄権は抗議か」「棄権は共犯か」。短い文が火の粉のように飛び、床材の上で小さく弾け、すぐ消えた。御子柴澪はノートの新しいページを開き、今日の出来事を記述しようとして、ペン先が止まる。「書きたくないことを書く方法」と小さく欄外に記し、斜線で消し、「書かないことを書く方法」と書き直し、また消した。書き残したのは、二つの斜線だけ。斜線は、額縁の内側に最初に生まれる線に似て、そこに何かが置かれる前から、意味の枠を作ってしまう。
御子柴のノートは、今夜は誰にも奪われなかった。代わりに、全員の枕元に、同じ紙が一枚ずつ滑り込んだ。ベンチを中央に置いた線画。顔のない人影。指でなぞれるくらいの薄い鉛筆線。線の外側に、小さな書き込み。「座る位置は自由」。自由という語は、ここでは名札に過ぎない。自由であることは、責任の逆ではない。自由は、責任の前置詞だ。
眠りは、一人に一つずつ配給された。眠れた者は少なかった。眠れない者が多い夜は、装置がよく働く。装置は眠らない。眠らないために、装置は詩を食べる。詩を食べた装置は、明日も詩の声で告げる。「公開判定」。誰の。どうして。どの額縁で。どの語で。どの位置で。答えは、もう紙に焼かれている。焼かれた紙は、水に濡れても滲まない。滲まないように作られている。人間の涙は、滲ませるためにあるのに。
朝が、来る直前の白になる。白は、いちばん静かなふりをして、いちばん音を含む。白の中で、遠くの金属が一度だけ小さく鳴った。三回ではない。一回だけ。誰も数えられない音。数えられない音は、記録にならない。記録にならない音は、倫理の余白に沈む。沈む余白の上で、ベンチの青がまた、わずかに濃くなる。青は、薄い皮膚の下に巣を作り、目を閉じてもそこにいる。
《Owl》は、その朝も笑わない。笑わないことが唯一の礼儀であると学んだ装置は、礼儀正しく残酷だ。彼の淡い声がラウンジに落ちるのは、もう確定している。「公開判定」。言葉は二語だけ。二語の位置で、私たちはそれぞれの額と指の温度を測り、椅子のきしみの数を数え、隣に座るべき誰かの体温を思い出す。思い出すことは、選ぶことだ。選ぶことは、観察される。観察されることは、物語になる。物語になったものは、紙に焼かれる。紙に焼かれたものは、未来に参照される。参照された未来に、今が従う。
だからこそ、結月蓮は、最後にひとつだけ、紙の上に何も置かない選択をした。プリントの左下の波打ちに触れず、壁の青に何も描かず、匿名板に一文も投げなかった。投げないことで、沈黙の武器化に加担したという罪が確かに背に乗る。乗せながらも、彼は覚える。沈黙の中でしか響かない声がある。顔のない集合写真の、顔の奥から届く微かな声。空席の声。隣に座れ。隣で見ろ。隣から見逃せ。見ることと見逃すことの間に置かれた薄い線は、今日の額縁だ。額縁の厚みは、三・五センチ。動かせる。動かせるぶんだけ、こわい。こわいから、今は動かさない。動かさないという選択が、明日の青をわずかに薄くするかもしれない。その可能性だけが、今夜の救いに似ていた。救いはいつも遅れてやって来る。遅れて来た救いは、遅れたぶんだけ、網膜に長く残る。ベンチの青のように。空席の青のように。空席の、顔のない笑みのように。




