第13話 観察会ログ:空席の歴史
その扉は、メニューのさらに奥にあった。七瀬智が観察者専用ビューの階層をひとつひとつ潜り、薄灰色のタブの裏に隠された未リンクの矩形を指でなぞったとき、画面は一瞬だけ呼吸するみたいに膨らんで、無題のフォルダが現れた。タイトルはなかった。ただ、角括弧で囲われた識別子が、冷たい数字で並んでいる。
〈arch:observe_seminar/legacy〉
「遺物の置き場だ」
七瀬が小声で言った。鍵アイコンは黒、鎖は短い。彼はためらいなく、鎖の中央をタップする。クリック音は鳴らない。代わりに、画面の白がゆっくりと奥行きへ沈み、薄い紙の束がデスクに置かれるみたいに、「記録」の一覧が積み上がっていった。
〈観察会 第一回 旧三号館二階〉
〈観察会 第二回 旧三号館二階〉
〈観察会 第三回 旧三号館中庭〉
……
古びたフォント。日付の欄は、ところどころ虫食い穴みたいに欠けている。右端に小さく〈媒体:映像/音声/書面〉のアイコン。ひとつ開くと、すでに見慣れた構図があらわれる。群青キャンパスがまだ「廃校」だった頃の中庭。鉄のベンチ。ベンチの背には、木漏れ日が白い格子を落とし、学生らしき若者たちが肩を寄せ合って座っている。画面の中心に、顔の輪郭だけが綺麗に切り抜かれて空席になっていた。紙を鋏で抜いたみたいに、きれいだ。肌色が欠け、後ろの景色が穴から覗いている。
「また、空席」
黒瀬真帆が息を呑んだ。レンズキャップを外して、すぐにまた付ける。撮るべきか、撮るべきでないかの判断は、いまや毎回刃の縁だ。「この穴、ほんとうに上手い。影の縁が生きてる。誰かの顔が、今ここで風を避けているみたい」
「註記がある」
七瀬がスクロールする。画面下に走り書きのような文字。旧式ワープロの打鍵音が、目に浮かぶ。「空席者=観察者」。それだけ。素っ気ない。だが、次の行から延々と続く段落は、空席者について決して主語を立てない。空席者が何をしたか、どこへ行ったか、誰と目を合わせたか、すべてが「誰それが見たところ」「誰それの証言によれば」「誰それによると」で語られていく。空席者自身が口を開く場面は、どこにもない。
「間接話法だけ」
宮原蒼が低く評する。「観察者は常に語られ、決して直接は映らない。倫理に似ている。倫理はだいたい、第三者の口の中で増殖する」
花岡楓は、画面の空席に視線を刺したまま、椅子の端を握りしめた。握る指に汗が浮き、すぐ冷える。「空席って……いるのに、いないことになってる席。私たちの中に、もう、いるの?」
蓮は机に置いていた写真カードをそっと取り、指をすべらせた。紙の縁が乾いている。「空席は窓だよ。記憶が外気に触れるための。見られるための輪郭だけ残して、中身は風に委ねる」
雨宮凛がスクリーンに顔を近づける。映像の粒が光の中で暴れている。彼女は舞台の明かりに敏感な目を持っていた。「影の落ち方が新しい。旧三号館の蛍光灯じゃない、今のラウンジに近い演色。ステージ照明の陰の“硬さ”が現行機材のそれ。つまり、この『過去』は、本当に過去?」
黒田海斗がうなずいた。映像を停止し、フレームの粒状性を拡大する。「ノイズが均一じゃない。粒の走り方が新しいセンサーの癖。古いカメラは粒が丸く転ぶ。これは四角く立つ。それに圧縮ノイズが今っぽい。最近の“過去映像”だ」
「近年のエントリだけ、署名フォントが違う」
七瀬が別の欄を示した。「これ、年代が上がるほど、最後の署名の字体が新しくなる。しかも同じ人の手書きフォントじゃない。合成されたモジュールの差し替え」
「つまり、過去と現在は入れ子構造になっている」
宮原が結論を置く。「古い器に新しい酒を注ぎ、古い名札に新しい手の跡を重ねる」
「名前と言えば」
御堂慧が、退屈そうにアームチェアで足を組み直した。観察者候補に拡張されたばかりの彼の横顔は、相変わらず薄く笑っている。「資料の末尾にインタビューがあるな。城ヶ崎蓮二——肉声」
七瀬が〈音声〉のタブを開き、指で巻き戻しバーを軽く払う。スピーカーから、若いような、古いような、どちらとも言えない男の声が溢れ出した。
『観察者は倫理を最大化する。観察者がいることで、舞台は常に「見られている倫理」を演じる。倫理は行為ではなく、演出だ。演出は、良い』
声はよく通る。滑舌は整っていて、息は短い。録音環境は中空間。反響板のない部屋。最初の数本はその調子だった。四本目あたりから、同じ声が、わずかに笑う。笑いは、喉の裏ではなく、言葉の間に生まれる。
『観察者は——かくあるべきものを——最大化する』
間の取り方が、急に韻文めいてくる。質問の直後に詩の断片が落ちる。質問者の声は、記録されていないはずなのに、質問の形だけが空席として残っている。そこへ肉声がすべり込む。
『倫理は、聖歌のようなものだ。唱和があれば、勝手に立ち上がる。旋律は、椅子の軋みに似ている』
「椅子の軋み」
白波琴音が、ふっと顔を上げた。耳が光を掬い上げるときに動く角度で彼女は首を傾げる。「今、鳴った」
「録音の中の軋みか」
宮原が問う。
「違う」白波は首を振った。「こんな、今の空気の湿度の軋み方、昔は入らない。マイクが拾ってる。ラウンジの今の椅子の音。つまり、再生するたび、『今ここ』に空席が生成されてる」
沈黙が、机の脚と床の間に薄い膜を張った。誰かが体重を移すと、膜は音もなく撓む。
匿名掲示板に、短い文が落ちる。署名は“ベンチ”。
〈空席は、参加することの反対語〉
「反対語」
蓮が口の中で繰り返した。言葉を転がすあいだに、喉の奥の紙が乾く。「出席の反対は欠席。参加の反対は、空席」
「空席は、出席している。居合わせている」宮原が言う。「ただしそこにいるのは輪郭だけで、中身は演算可能な空気だ。空気は、誰のでもあり、誰のでもない」
「だから、空席者=観察者」御堂が嬉しそうだ。「座って、いないふりをする者。いないことで舞台を最大化させる者」
七瀬は指を止めない。エントリはさらに遡れる。「年次記録」と銘打たれた書面ファイルには、当時の「観察会」がいかにして生まれ、何を目的に置いていたかが、妙に文学的な行で記されていた。言葉は慎重だが、文体は熱い。ベンチの配置、話し合いの順序、笑い声の記録。笑い声は、数値化されている。何秒、何拍、誰の声に重なったか。
「笑い声の書き方が、今の《Owl》に似てる」
雨宮が指摘する。「語尾の曖昧さ、間の使い方。『……です、ね』の増やし方。ト書きが台詞に侵入してくる~あれ、ここが原型?」
黒田は映像をさらに別の角度で検査した。画面の端の柱の塗装に寄って、ひび割れの模様を拡大する。「旧校舎の柱のひび割れ、今朝俺たちが通ってきた廊下のひびと一致してる。最近やり直した塗りで、古い映像に近現代の壁が映るのは変だ。つまり、これはここで撮ってここに焼いた“過去”。過去の衣装を着た現在」
「現在の衣装を着た過去ほど、おしゃれなものはない」御堂が肩を揺らす。「詐欺はいつも、衣装が美しい」
花岡が眉根を寄せて、画面に手を伸ばした。空席の輪郭に触れても、指はただガラスを滑るだけだ。「私たち、もう空席者が混ざってるんじゃない? 目の端で、『誰かいない』って感じるのに、人数は合ってる朝。呼ばれても、呼ばれなかったみたいに返事が遅れる時」
白波が頷く。「音の数が、時々合わない。息の音は二十三で揃ってるのに、靴底の音は二十四鳴ってることがある」
「空席は、音で座るのかもしれないな」蓮が言った。「音で座り、映像から抜ける」
「抜ける、と言えば」
七瀬が新しいタブを叩いた。「観察会ログの最終ページ、まだ『未完』扱いになってる。最終回の番号の後ろに、斜線。開く」
画面はまた呼吸して、別の白を吐き出した。そこに、見慣れたフォーマットの見出しが落ちる。
〈観察会 最終回〉
〈場所:群青キャンパス ラウンジ/中庭〉
〈空席:〉
「空席の欄が空白」
宮原が低く言う。空白の後ろに、点滅するカーソル。文書編集の光。目の前で誰かが打ち込みを待っている。
「入力待ち、ね」
御堂が指を宙に泳がせる。「誰の名前を入れるか。入れないか」
「入れた瞬間、その人の顔が切り抜かれる」
花岡が耳を塞いだ。「やめて」
「待って」
七瀬が、別窓を開いた。「ログの改竄痕。近年のエントリにだけ、差し替えた履歴がある。差し替えたのは、たぶん、観察者側の権限。特定の署名フォントが、ある大会で使われたものと一致する。フォントの作家があの市の出身で、群青キャンパスの文書管理に一時期関わってる」
「誰か、観察会をいま、やり直してる」
雨宮が囁く。「過去のためじゃなく、未来のために。空席の形式は、未来への招待状」
「形式は、招待状であると同時に、召喚状でもある」宮原が言い、次のページをめくるようにスクロールする。ページの下部、「付録」の欄に、もう一本の〈音声〉があった。再生する。最初は、いつもの城ヶ崎の声。だが、後半で、声が急に歪む。音質が変わったのではなく、声帯の表面に薄い塗膜が塗られたみたいに、摩擦が増える。
『観察者は……最大化……倫理……ええ……倫理には……歌詞がいる。歌詞は、空席に書かれる。声は、座らない』
「詩的応答、だね」
御堂が笑う。「質問に答えず、詩で返す。詩で返せば、詩の責任にできる。便利だ」
笑い声は、誰にも乗らなかった。笑いは、音としても、意味としても、今日は不適切だ。
黒田が、映像の止め絵のピクセルの縁に触れる。「粒の立ち上がり方が、異常に滑らかだ。AIの補完。過去の足りない画素を、今の計算が埋めている。だから『古いのに、妙に鮮明』なんだ」
「鮮明な過去は、危険」
花岡が、ぽつりと落とす。「鮮明な過去は、いまを薄くする」
白波が、耳殻を撫でた。「椅子の軋みが、さっきより大きくなった。再生のたび、音が厚くなる。空席が座り直している」
そのとき、ラウンジの照明がほんの僅かにトーンを落とし、天井の赤い点が一度だけ速く点滅した。誰も動かない。動かないことが、最も「今ここ」から遠ざかる方法だと、体が覚え始めている。
匿名掲示板のタイムラインがまた震え、ベンチの署名が二行目を落とした。
〈空席は、参加することの反対語〉
〈参加は、空席の同意語〉
「言葉遊びに見えるけれど、これは構文の罠だ」
宮原が眉を寄せる。「同意語と反対語で閉じた円環を作って、外へ出られない言語空間を用意する。円環の境界に、観察者用の扉がある」
蓮は、机の上に置いた小瓶の青を指先で転がした。青が光を抱いて微かに揺れ、ベンチの背もたれの色が指先に蘇る。この青は、何度でも蘇る。「空席は、記憶の窓。窓から見えるものは、風のかたちで出来てる。風は語れない。語られた風は、すでに絵の具に変わってる」
「語られないまま、伝わるものがある」
羽田響が、久しぶりに口を開いた。声は低く、遠くで鳴る水音に似ている。「観察者ビューを開かないまま、ここに座っていると、画面の向こうから『こちら側の身体』の癖が伝わってくることがある。指先の温度、目の乾き。空席が、座り心地を私に渡してくる」
「座り心地」
御堂が楽しそうに繰り返した。「いい言葉だ。人間はだいたい、座り心地で決める」
スクリーンの最下段、「管理者ログ」の欄が小さく点滅した。七瀬が開く。そこには、誰がいつ、どのエントリを開き、どれだけ滞在し、どの部分でポインタを止め、どのページで一度視線を落としたか——視線の滞留の簡易推定が、小さな点の集まりで残されていた。
「視線ログが残ってる」
七瀬は喉を鳴らした。「目の動きの推定。空席者の座り心地の測定。開いた者の目が、空席にどれだけ留まるか」
「観察者が、観察会ログを観察する。その観察を、さらに観察する」宮原が言う。「観の入れ子。見ることの階層を積み上げれば、倫理は最大化する、だったか。城ヶ崎の台詞は、ここに最短距離で降りてくる」
「最短距離は、だいたい一番危険だよ」
雨宮が微笑まないまま言った。「舞台でも、最短で笑いを取りにいくのが、一番客を冷やす」
蓮は、最終ページに戻った。〈空席:〉の欄は依然として空白で、点滅するカーソルがこちらを急かすようでもあり、眠そうにも見える。その下に、小さな注意書きがうっすら浮かんだ。
〈この欄は、手動入力のみ〉
自動で埋めさせてはならない、という意志。手で、名前を書く。鉛筆の粉が紙に移る、あの感触で。名前を、切り抜くために。
「誰が、書くか」
御堂が囁く。囁きは、小さな鐘の音のように、ラウンジの隅々へ飛び散った。誰も答えない。答えないことが、残酷な誠実だと、全員わかっている。
その夜、日付が変わる少し前。観察会ログの最終エントリが、勝手に更新された。音もなく、画面の点滅が速くなり、〈空席:〉の欄に、文字が一つ、現れる。疑問符。小さく、だが鋭い。
〈第N+1回:群青キャンパス/空席:?〉
疑問符が、ゆっくり点滅を繰り返す。その点滅のリズムに、ラウンジの換気音が一度だけ同期し、すぐ外れる。ほんの僅かな呼吸の同期だ。
同時に、三つの端末が微光を返した。蓮の机の上。羽田の膝の上。御堂のポケットの裏地。画面はまだ閉じられたままだが、薄い光は布の隙間を通り抜ける。
「呼ばれている」
白波が言った。彼女には、光にも音がある。「三つ。同じ高さの音。三で止める音」
羽田は端末を裏返し、じっと見た。観察者ビューの鍵アイコンが、光の境目で薄く開いているのが分かる。開いているのか、開いていないのか。鍵は、夢の中でしか開閉しない扉に似ている。触れば触るほど、どちらだったか分からなくなる。
御堂は笑った。人を刺す笑いではない。自分の舌で、自分の喉を少しだけくすぐる笑いだ。「空席に、座ろう。いないふりをする座り方を、覚えよう」
「やめて」
花岡が振り絞るように言った。「座るたび、誰かの顔が切り抜かれる」
「顔を切り抜くのは、いつだって誰かだ」
宮原が露悪的に正しいことを言う。「そして、その誰かの顔もまた、どこかで切り抜かれている」
蓮は、鏡を思い出した。封筒の中、ベンチの空席に貼られた安物の鏡面。覗き込むと、自分の輪郭が空白にぴたりと収まる。あのとき、鏡は柔らかく歪み、こちらの顔を気楽に迎え入れた。——ようこそ。あなたの席です。
「書くのではなく、削る」
黒瀬が小さく呟く。「名前を、紙から起こすんじゃない。紙から削る。空席の書き方は、逆」
「逆さの書き方は、よく呪いに似る」
雨宮が目を閉じる。「でも、祈りの書き方も、少し呪いに似てるから、判別は難しい」
七瀬は〈管理者ログ〉を再度呼び出し、自動更新の出所を追った。IPは内部。権限は観察者候補三名の束ねられた役割。その束の中に、ひとつ不審なフラグ。〈ghost-seat〉。空席の幽霊。フラグを外すと、画面の疑問符が一瞬だけ消え、すぐに戻った。戻る速度は、今度は速い。
「止められない」
七瀬が唇を噛む。「これは、もう編集ではなく、生成。観察の副産物。観察している限り、空席が増殖する。見れば、席が生まれ、席が生まれれば、誰かが座る」
「座り心地は、誰が決める」
御堂が、椅子に深く腰掛けた。「俺は、自分の座り心地に忠実でいたい。忠実でいるやつは、だいたい、悪人面に見える」
「悪人面は、光の当たり方で変わる」
黒瀬がカメラを持ち上げる。「当て方が悪ければ、善人も悪人に撮れる。撮ることは、選ぶこと」
白波は耳を撫でるのをやめ、椅子の背にもたれた。「椅子の軋みが、また増えた。空席が、息を合わせに来てる」
ラウンジの空気は、静かなまま緊張していた。緊張は、音にならない。音にならないものだけが、長く残る。残ったものは、だいたい、翌朝の白の上で、可視化される。
〈第N+1回:群青キャンパス/空席:?〉の疑問符は、夜が深まるほど暗く光り、三つの端末は、持ち主の脈拍と少し遅いタイミングで点滅を繰り返した。遅れは、演出家の息だ。息の遅れで、タイミングを取る。タイミングを取れば、見せ場が立つ。見せ場が立つたび、倫理がわずかに薄くなる。薄くなった倫理は、観やすい。
「空席は、参加することの反対語」
蓮はベンチの写真を伏せ、深く息を吐いた。「でも、空席に座るためには、いちど参加しないといけない。参加しない、という決定に、参加しないといけない」
「回路だね」
宮原がうんざりしたように言う。「回路の中にいる限り、選択は電圧の違いに過ぎない。電流の流れを止めるには、断線が必要だ」
「断線は、故障とも呼ばれる」
七瀬が微笑んだ。「でも、時々、救いとも呼ばれる」
「救い、ね」
羽田が目を伏せる。観察者ビューはまだ閉じられている。閉じているのに、波形の山の匂いが指先へ伝わってくる。「救いの形が、今日は空席に似てる」
御堂は天井の赤い点を見上げる。「空席の歴史、か。歴史は、勝者のものだってよく言うけれど、ここでは『観察者のもの』に見える。観察者は、勝ちもしないし、負けもしない。だから、歴史を書くのに向いている」
「向いていないかもしれない」
花岡がかぶりを振った。「向いてる人が書く歴史が、一番怖い」
「怖いものは、だいたい正しい」
御堂は笑い、すぐに笑いを止めた。笑いは、今日まだ音になってはならない。
夜が更けて、空調の音が一段階低くなった。ラウンジの椅子が、一斉にきしむ。誰も動かないのに、軋む。空席が座り直したのだ、と白波は思った。座り直すたび、座面の布地は、誰かの体温の分だけ色を濃くする。色は、朝には褪せる。褪せて、白の上に薄い輪郭を残す。その輪郭のことを、ここでは「ログ」と呼ぶ。
翌朝、点呼の前。スクリーンは白く、何もない体裁で立っていた。だが、観察会ログの小さなアイコンだけが、画面の隅で微かに揺れている。七瀬がタップする。最終エントリの末尾に、昨夜の疑問符が、もう一つ増えていた。
〈第N+1回:群青キャンパス/空席:??〉
疑問が二重になっている。二重の疑問は、だいたい、確信に近い。確信に近いものは、名前に変わるのが早い。
「急がないと」
蓮は言った。誰に向けたでもない声。誰かの名前になる前に、空席の歴史を、こちらの言葉で読まなくてはいけない。読むことは、座ることでもある。座ることは、いないふりをすることでもある。難しさの輪は、空席の輪郭とぴたりと重なり合って、こちらの胸の裏側をゆっくり締め付ける。
羽田の端末が、三度、控えめに震えた。御堂のポケットの中でも、真似をするように微かな振動が起きる。蓮の机の上の光は、点滅をやめ、細い直線になって、ただ青く光り続けた。ベンチの青に似た、あの色で。
空席は、空席のまま、今日もここに座る。座り心地を、誰かの背に移しながら。椅子の軋みは「今ここ」を録音しつづけ、ログは白の上に積み上がる。積み上がるたび、歴史は軽くなる。軽くなった歴史は、持ち運びやすい。持ち運びやすいものほど、危険だ。危険なものが、朝の光で無害に見えるのは、いつものことだ。
《Owl》の声は鳴らない。鳴らないことが、今日の唯一の救いだった。救いは、いつだって遅れてやってくる。遅れてやってきた救いは、少しだけ、空席の座り心地を柔らかくする。柔らかくなった座面に、誰かがそっと腰を下ろす。座る前に、空席に向かって一礼する。礼の角度は、だいたい、九十度にならない。なってはいけない。九十度は、切り抜く角度だ。
歴史は、今夜も更新される。疑問符が増えるか、名前が一つ落ちるか。どちらにせよ、ログの筆圧は上がる。筆圧が上がるたび、紙の繊維が押し潰され、インクは深く沈む。沈んだインクは、指で擦っても落ちない。指につくのは、いつも、別の青だ。ベンチの青。私たちの、空席の青だ。




