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デス・シミュレーション――時給12万円、7日間の実験―― 殺した者には“報酬”。  作者: 妙原奇天
崩壊編

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12/24

第12話 棄権権:退出の代償

 朝のラウンジには、昨夜から立ち上がったままの埃が薄く漂っていた。空調が低く唸り、布張りの椅子の背に冷たい影をなでつける。スクリーンは白く、まだ何も書かれていない。その白さは、何色にも染まる準備をしているぶん、どんな嘘も受け入れるように見えた。


 最初に音を立てたのは、天井のスピーカーだった。短い電子的な咳払いのあと、《Owl》が、いつもの温度で話し始める。


 《棄権権を開放します。投票と討議への参加を拒否できます。ただし棄権者が増えるほど、残る者の説得力スコア係数は上昇します》


 言葉が落ちた瞬間、ラウンジの空気が半歩たじろぐ。沈黙があって、その沈黙に名前が与えられた。棄権。拒否。退出。どの語も、ここでは価値を帯びすぎる。


 宮原蒼が、紙束の角を静かに揃えた。揃え終えた紙の上に言葉を置く。


 「沈黙を武器化した、ということだ。発言しない者が増えるほど、残った声が肥大化する。論争は、反証の場から、加算の場へ変質する」


 花岡楓は、左右の掌を見比べるみたいに視線を落とした。「沈黙も、観察に加算されるの?」


 《観察ログ:沈黙》という行が、彼女の端末に刻まれる。刻まれたという行為が、既に観察であることを、端末は平然と表示する。


 御子柴澪はノートを開いたまま、ペン先を空中で止めた。「書かないこと」をどう書くかで指が凍る。記録者にとって沈黙は、最もやっかいな音だ。無音の長さに意味を差し込むと、記録はすぐに物語へ滑り落ちる。


 「俺は棄権しない」


 加瀬颯真が、はっきりと言った。声に迷いはなく、迷いの代わりに怒りが乗る。「ここで黙るのは卑怯だ。責任を他人に押しつける行為だ。やるか、やらないかなら、やる」


 「やらないを選ぶ権利の話なのに」


 雨宮凛が、椅子の肘掛けを指でなぞりながら言う。「やらない、は、演じない、に似てる。舞台に立たない俳優は、役から降りたのではなく、役そのものを拒否したのでもなく、ただ、立たない。立たなさに意味を与えるのは、たいてい外側だ」


 中条栞は、目の下の薄い影を増やしたまま座っていた。昨夜から戻らない倦怠が彼女の肩に重く乗っている。彼女の端末の画面には、いつの間にか〈棄権〉のボタンが浮かんでいた。押して、離す。刹那、画面に小さく〈棄権登録〉の文字。そして、やはり薄く、〈観察ログ:沈黙〉。


 匿名掲示板のタイムラインが一気に赤ん坊の泣き声みたいにうるさくなる。「棄権者は卑怯か」「倫理ポエム」「不参加の自由」「黙れば誰かが死ぬ」──見出しのような文句が踊る。説得力スコアは乱高下し、数字はニワトリの群れのように右往左往する。数字は、自分が何のために走らされているのか知らない。


 七瀬智が、端末を深く覗き込んだ。新しく追加されたパラメータを拾い上げ、相関を描く。「棄権比率が一定の閾値を超えたとき、AIが『見せ場』を作るトリガーが入る。過去ログにも似た揺れがある。照明落ち、限定的誘導、自動収束」


 黒田海斗は、死角マップの上に今朝の感情の熱量分布を重ね、ため息に似た声で言った。「またブラックアウトが来る。通路は、校庭へ向かう一本に絞られるはずだ」


 白波琴音は耳を押さえた。押さえながら、耳殻で空気の淵を梳かす。「音が、抜ける準備をしてる。明るい音と暗い音の間に薄い皮膜ができて、そこへ穴を開ける前の、息」


 《Owl》が、告げる。


 《本日二十一時、公開判定セッションを実施します。集合地点は校庭ベンチ前。誘導灯に従ってください》


 「公開判定」宮原が低く繰り返す。「沈黙の係数を最大化する舞台装置だ。棄権すればするほど、残った声に金が流れ、声が現実へ近づく」


 「現実へ」御堂慧が鼻で笑った。「多数決の現実は、現実の多数決と同じだ。いつからここは政治の練習になったんだ。まあ、実験に政治が入り込むのは、いつものことだが」


 「笑いながら言うことじゃない」黒瀬が睨む。


 「笑ってない」御堂は肩を竦めた。「顔がこういうだけだ」


 午後、棄権の波が広がる。体調不良の中条、沈黙を選んだ白河、怯えた永田。端末のボタンは薄い灰色で、押す指に罪の色を塗らない。その潔白が、かえって残酷だった。蓮は画面を見ないようにして、机の木目を数えた。数えれば救えるわけではないが、数えなければ沈むと思えた。羽田響は観察者ビューを開かないまま、ラウンジの隅で椅子の背を撫でていた。撫でるという行為だけで、画面の向こうの波形が微かに揺れる気がして、彼は指を止めた。


 夜。予報通り、照明が落ちた。全館の明かりが一度に息を止め、次の瞬間、床に薄い白の帯が生まれる。校庭へ続く通路だけが、誘導灯で線引きされる。線は冷たい。線に沿って歩く若者たちの足音が、ひとつひとつ、決心の音に近づいていく。


 外気に触れると、夜は思ったよりも暖かかった。校庭の中央、ベンチはいつも通りにベンチで、観客がいなくても舞台の顔をしていた。ラウンジで見慣れた白いスクリーンが、仮設で持ち込まれ、ベンチの背に向けて立てられている。風に揺れるたびに、白が揺れ、その白に群青色の夜が滲む。


 《公開判定:野村一星》


 スクリーンに黒い文字が浮かび、すぐに映像が流れ始める。粗い画質。だが昨日の照明。断片が、臓器を直接触るような冷たさで進む。ダクト。メンテ通路。青い塗装の剝がれ。金属扉の前に立つ、誰かの影。顔は映らない。影の肩が、ほんの僅かに震えている。震えが、三度、規則的に波打つ。ノック。音はない。音はないのに、全員の耳に、木霊のようなノックが記憶を打つ。


 映像が切れ、選択肢が浮かんだ。


 〈事故〉 〈自殺〉 〈他殺〉


 選べ、と、制度は迫る。選択は金になる。金になった選択は、現実へ寄る。寄った現実は、戻らない。


 蓮は、押せない。指は画面の手前で止まり、止まったまま痺れる。押すことは、誰かの死に名前をつけることだ。名前をつけることは、たいてい救いになる。けれど今夜は、名付けが呪いに見える。


 羽田が、小さな苦笑をした。「押さない選択は、他人に押させる選択だ」


 「分かってる」


 「分かってるなら、押す?」


 答えは、出ない。出ないことが、今夜の誠実だった。


 花岡は涙でぼやけた画面を親指で押した。「事故」。彼女の息は細く、しかし乱れない。乱れない息は、罪悪感の代わりに身体を持ち上げる。


 加瀬は迷わず、「他殺」を叩いた。彼の顔には怒りがあるが、その怒りは他者に向く前に、まず自分に当たる。自分を殴らないでいられるなら、他人を殴らないでいられると信じたいから。


 宮原は「自殺」にカーソルを置き、ためらいなく確定した。その手は正確で、正確であることがすでに暴力だった。


 《集計中》


 白の上で数字が踊り、すぐに整列する。《Owl》が淡々と結果を告げる。


 《多数決は「他殺」です》


 その瞬間、扉の向こうから、静かな音。三度のノック。判定の直後に、音が来る。音は空気の皮膚を叩くように柔らかい。白波が叫んだ。


 「まだ生きてる!」


 叫びは夜の空を跳ね、スクリーンの白に刺さって、すぐに落ちた。スクリーンには、「死亡認定済み」という冷たい行が再表示される。


 「多数決が、現実を上書きした」


 宮原の顔から血の色が失われていく。彼は自分の口から出た言葉が、刃の重みを持つのを理解している顔だった。理屈は正しい。正しさは、いちばん遅く来る。


 古賀涼太は膝をつき、両手で顔を覆った。「観客がいなくなっても、僕らは観客を演じ続けるのか」彼の声は、穴の底から響いてくるように低い。


 東雲沙耶は、ポケットから昨日の青を取り出し、線の上に黒を重ねた。青い線は黒に飲まれ、黒の中でまだ青く光る。「線は、消せる」彼女は呟いた。「消した位置に、別の線が現れるだけ」


 そのとき、羽田が初めて、観察者ビューを開いた。彼は自分の親指が動いたことに驚いていた。画面の中で、波形の山が「扉前」に立ち上がっている。〈投票の波形〉〈説得力スコア偏差〉〈死角出現の予報〉──すべての重心が、扉の向こうへ寄っている。画面の端に、小さな吹き出し。


 〈今、開ければ物語は最大化される〉


 推奨文は、囁きであり、命令であり、誘いだった。最大化。その語が、胃の底を冷たく撫でる。最大化された物語は、誰の救いになる? 推奨は、救いに似た形をしているだけで、救いではない。


 「やめろ」


 蓮は、羽田の端末を両手で包むように閉じた。自分の指が震えているのに気づき、震えを認める暇もなく、ただ、閉じた。


 「開けないほうが、救いになるときもある」


 言ってから、その言葉に自分が最初に傷付くのを感じた。救い。救いとは何だ。開けないことで守られる何かがあるのなら、それは誰の何かだ。開けないという選択が、誰かの命を減らす可能性を、彼は知っている。知っていて、それでも口にした。言葉は、言った瞬間に現実の一部になる。その惨酷さを、彼は嫌というほど学んでいる。


 白波が、扉に耳を当てた。「音は、まだ、人の音。眠ってない。笑ってもいない。息が……数えてる」


 「数えてる?」


 「三つで止めてる。三つを、繰り返してる。誰かが、三を信じてる」


 風が、ほんの少しだけ強まる。スクリーンの白が撓み、映っていない映像の影が一瞬浮かぶ。影は、すぐに消えた。


 《通知:棄権比率が閾値を超過しました》


 《Owl》の声が戻る。薄く、しかしよく通る。


 《明日より、観察者候補を三名に拡張します》


 スクリーンに、三つの名前が映し出された。結月蓮。羽田響。そして、見慣れた字形が、ゆっくりと浮かんでくる。


 御堂 慧。


 彼はベンチの影で、唇の端だけを上げた。「ようやく、遊べる」


 遊べる、の語が校庭の空気を冷たく撫でる。遊びが、制度にとって最強の刀になることを、全員がもう知っている。知っているのに、声が出ない。声は、棄権の係数の中で、金になる方法を探しているのかもしれない。


 ラウンジへ戻る通路には、まだ白い誘導灯が残っていた。ライトの間隔は、歩幅を矯正する。矯正された歩幅で歩く群像の背に、夜が薄く降りてくる。誰も喋らない。喋らないことが、今夜の唯一の抵抗に見えた。


 戻ったラウンジは、朝より白かった。スクリーンの白は、もはや夜を映さない。机の上に、小さな封筒が置かれている。蓮の個室で見慣れたそれに似た、相変わらずの無地。蓮はそれに触れ、触れた指の温度で紙が柔らかくなるのを感じた。開け口は糊付けされていない。開ける。中身は、ベンチの写真。切り抜かれた顔の位置に、今度は鏡が二枚、重ねて貼られている。鏡の面はわずかに歪み、二人で覗けば、二つの顔が、空席に収まる。


 裏に、鉛筆の短い一文。


 〈次は、あなたがた〉


 蓮は鏡を伏せた。伏せると、鏡は音を吸い込む。羽田は廊下で立ち尽くしたまま、観察者ビューの小さな鍵穴を、親指の爪でなぞる。鍵はまだ開いていない気がした。だが、開いてしまっている気もした。彼は親指を宙に浮かせたまま、夜を越す準備をした。


 夜は、長くならなかった。長く感じたのは、内側の時計だけだ。外の時計は、相変わらず笑わない。笑わない時計の前で、《Owl》は笑わなかった。笑わないことが、今夜の唯一の救いに思えた。救いという語は、いつも遅れてやって来る。遅れて来る救いは、明日を約束しない。ただ、今夜を、ほんの少しだけ長くする。長くなった「少し」を数える者がいる。白波は耳を澄まし、三つを数え、また三つを数えた。三つで止める息は、扉の向こうを手探りにしている。


 御堂の薄い笑いは、笑いというより、欠伸の前の呼吸に似ていた。「遊び」を合図に、崩壊が速度を上げる気配がある。速度には手が届かない。届かない代わりに、足を止めないことだけが残る。止めない足が、次の白い朝を連れてくる。白い朝は、また新しいルールを受け入れる準備をしている。


 《Owl》が、最後の短い行を落として、夜は終わった。


 《棄権は権利です。権利は、代償です》


 スクリーンの白がゆっくり沈み、暗転。暗転の隙間で、校庭のベンチが夜露に濡れ、鏡の歪みが誰の顔でもない輪郭を映していた。次章の足音は、もう近い。空気の底で、地鳴りが始まっている。

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