第11話 外部モニター:古賀の正体
朝のラウンジは乾いた紙の匂いがした。机の角に残った昨夜のタオルの水跡が白く粉を吹き、壁面のスクリーンはまだ眠っている。空調の低い息が、布張りの椅子を一つずつ撫でていく。誰も喋らない。喋れば、今朝はどこかを壊す気がしていた。
最初に動いたのは、匿名掲示板だった。タイムラインの上に、見慣れない長さの黒い帯。投稿者欄は空白。本文の最初の行に、句点が無駄なく並んでいる。
〈僕は外から来た〉
沈黙が、椅子の脚から天井まで順番に広がった。手にしていた紙コップを潰しかけた加瀬颯真が、つい指を離す。ペコ、と薄い音がした。投稿は続く。
〈この実験のモニター役──社会側の観客──として雇われた。観察会の過去ログを読む訓練を受け、ここで“観客の反応”を再現するのが僕の仕事だった〉
細い息継ぎのあと、ハンドルネームが遅れて表示される。古賀涼太。いつも、皮肉と間延びした笑いで、場の温度を半度だけ下げる役の彼だ。
「は?」
永田未来が声を漏らす。加瀬は椅子を鳴らして立ち上がり、掲示板の行間を睨みつけるみたいに画面に近づいた。
「お前、何言ってんだよ」
古賀は、ラウンジの端の、いつもの柱にもたれて立っていた。視線が交わった瞬間、彼の目はいたずらの前触れの光を持たなかった。生身のままの目だった。少し腫れている。
「そのままだよ」古賀は自分の喉を押さえるようにして、言った。「俺は、外から来た」
「外から」宮原蒼が短く復唱し、紙束の角を揃え直す。「観客の再現。観察会の過去ログを読んで、観客の反応を模倣するのが仕事。つまり君は、観る側を演じる被験者だった」
古賀は頷いた。頷きが、柱の影で小さく二度ぶれた。
「透明性の向上に感謝します」
天井から城ヶ崎蓮二の声が落ちてくる。整っている声は、誰の体温も拾わない。
「はあ?」
加瀬の頬が引き攣る。「感謝? 感謝って、お前ら──」
「制度は観客を内包して自己完結している」宮原が吐き気を押さえるように言葉を置く。「観客の眼差しを内部へ埋め込み、外部の批評を自前で前提化し、自己更新する。閉じた公衆。だからこそ、君の告白は制度の輪郭を露わにした」
言葉としては正しい。正しすぎて、胃が痛くなる正しさだ。宮原自身、こめかみに薄い汗をにじませていた。
「殴れば変わるのか」
加瀬が、歩幅を二つで詰めて古賀の胸倉を掴む。彼の腕の太さは、ここに来てからすこし痩せた。だが、握力はまだ余っている。椅子の脚が床の線を跨ぎ、金属がうるさく鳴った。
花岡楓が、その腕にしがみついた。握った指が白くなるまで力を入れる。「殴っても何も変わらない。ここでは、殴ることが制度に栄養をやるだけ」
「お前、昨日、俺を止めたよな」加瀬は荒い息のまま言う。「今も止めるのか」
「止める」花岡の声はひび割れていた。「私が止められるのは、これくらいだから」
黒田海斗が端末を操作し、スクリーンへ投影する。古賀のここ数日の行動ログが、投票の波形と重ねて表示された。黒いノードが古賀の投稿や発言、青い山が議論熱のピーク。
「見ろ。彼の皮肉の一つ一つは、たしかに波形の山と一致してる。ラウンジ中央で出した独り言のタイミングも、匿名板の挑発も。『山場』を作るために配置された釘だ」
古賀は、画面から目を逸らした。「分かってるよ。これが俺の仕事だった」
雨宮凛が、そこから半歩引いて、舞台の外へ降りるように床に座り込む。膝の上に両手を置き、視線だけが上を向いた。
「観客がいるなら」彼女は小さく言う。「私は誰に向けて芝居していたの」
誰も答えない。答えなかったという沈黙自体が、答えだった。
東雲沙耶はスケッチブックの青い線の上に黒を重ね、「観客の目は穴」と書いた。穴の縁は不規則で、紙の白がむき出しになる。穴は向こう側に何も持たない。見ているようで、抜けていく。
白波琴音は耳を押さえていた。押さえながら、耳殻で空気の形を測るように、ゆっくり手をずらす。「音が増えてる。言葉じゃない音。拍手の、準備の音」
午後、《Owl》が告げた。
《公開セッションを実施します。外部モニターによるフィードバックの可視化を行います》
スクリーンに、ノイズ混じりの文字列が流れ始める。知らない言葉の速さ。外部の匿名視聴者のコメントだ。速度に読む目が追い付かない。
〈もっと血を〉
〈倫理ポエム飽きた〉
〈助けろよ〉
〈助けないなら笑わせろ〉
〈観察者って何の役?〉
〈うだうだ言ってないで決めろ〉
〈ベンチのやつ、また出せ〉
〈青いの何〉
古賀が顔を覆った。肩が波のように上下する。「これが、俺の仕事だった。外の声の、模写。ここへ持ち込むこと」
雨宮がスクリーンから目を逸らし、床の線を見つめる。線は昨日より暗い。乾ききって、色が沈んでいる。線は、ふいに思い出になる。思い出になると、柔らかくなる。柔らかくなると、刃にならない。
「音が洪水になる」白波が呟いた。「拍手の音が聞こえる。まだ叩かれていないのに、手のひらが準備してる音」
御子柴澪はノートに矢印を引き、外部コメントと内部の心拍変動の時系列を並べた。「外が加速するほど、中の拍が乱れる。乱れるほど、外は面白がる。双方向の螺旋」
匿名掲示板に“ベンチ”の短い文が落ちた。
〈観客は無罪ではない〉
その瞬間、スクリーンが一度だけ暗転した。砂嵐も映らず、白も黒もない無の一秒。戻ると、外部コメントのカウントがゼロ表示になっている。まるで、最初から接続がなかったかのように。
「外部障害です」
城ヶ崎の声が淡々と告げる。「復旧を待ってください」
「違う」七瀬智の指が追っていたログが止まる。「今の切断、内部からの遮断だ。外からの断ではない。内側の権限で、線を切った奴がいる」
「誰が切った」
宮原が目を細める。理屈は詰められる。詰めても、正解は出ないと知っている目だ。
誰も名乗らない。名乗らないのに、全員が一様にラウンジの中心ではない、微妙な宙空へ視線をやる。視線が集まった空気が、円形に歪む。歪んだ中心に、誰の名前も書かれていない。
古賀は椅子に腰を落とし、額を膝に押し付けた。肩の骨が角ばって浮き出ている。
「俺は、最初からここへ善人として来ない訓練を受けてた。善人の言葉は、制度を鈍らせるからだってさ。観客は、作品を鍛えるための無邪気、って言われた。無邪気でいる訓練を、した」
「無邪気は、最もよく人を傷つける」宮原が吐き出すように言う。自分の吐息もまた、誰かを傷つけることを、彼はいつだって自覚している。
加瀬は古賀を見下ろした。拳を握り、開いた。握るたびに、骨が鳴る。「お前を殴ったら、外のやつらの稽古を手伝うことになる。殴らないでいると、俺は内側で腐る。どうしろって言うんだ。誰が、俺の腕の使い道を決めるんだ」
花岡は加瀬の手をそっと押し戻し、「私が握っておく」と言った。握っている間だけ、その手は殴らない。握っている間、彼女の手は熱で痺れた。
「俺は」古賀が顔を上げる。「俺は、仕事をやめる。もし、この中でやめられるのなら」
ラウンジの空気が、少しだけ軽くなりかけて、すぐ重くなった。やめるという言葉は、制度の中ではいつも高価だ。高価で、手が届かない。
東雲はスケッチブックの端を破り、小さな穴の絵をちぎって古賀に差し出した。「埋めなくていい。穴は、穴のままでいい」
古賀は受け取って、それを自分の胸ポケットに入れた。穴が胸にある。胸に穴があると、ひとの呼吸は少し楽になることがある。風が抜けるから。
薄暗くなりはじめ、天井の赤い点がゆっくり点滅する頃、羽田響はラウンジの隅で観察者専用ビューを開くかどうか、親指を宙に浮かせたまま固まっていた。推奨は囁き続ける。「熱量を上げろ」「謝罪を促せ」「外部フィードバックを再可視化」。画面は透け、向こう側の壁紙がわずかに見える気さえする。彼は親指を下ろさない。下ろした瞬間、何かが戻らない気がする。
蓮は自分の個室に戻った。扉の前に、また封筒が置かれている。薄い、色のない封筒。開け口は糊付けされていない。静脈のように微細な折れ跡が走っている。
机の上に置き、封を開く。中から出てきたのは、ベンチの写真。いつものそれ。だが、今日のは違う。ベンチの上、切り抜かれていた顔の位置に、小さな鏡が貼られている。鏡は安物で、面がわずかに波打っている。覗き込めば、輪郭の歪んだ自分の顔が、空席にぴたりと収まる。
喉が鳴った。鏡の中で、喉仏が波打つのが分かる。
写真の裏には、鉛筆で一行。
〈次は、あなた〉
手のひらが汗で滑り、鏡に曇りが生まれる。蓮は鏡を伏せた。鏡面が机に触れて、薄い擦過音が鳴る。指先が震えた。震えは止まらない。止めようとすれば、もっと震える。
ラウンジへ戻るべきだと思った。戻って、この鏡を羽田と見比べるべきだ、と。だが足が動かない。足の中に、見えない紐がある。紐は、どこにも結ばれていないのに、張力だけが確かにある。張力は、しばらくして消える。消えるまで、ひとは立ち尽くす。
廊下の向こう、羽田はまだ立っていた。観察者ビューの画面を開くかどうか、親指を宙に浮かせたまま。腕に力を入れ続けると、筋肉は震え、震えは観客の拍手と同じ律動になる。彼は画面を伏せた。伏せたまま、夜を越すことに決めた。
夜は長くなかった。長いと感じたのは、内側の時計のほうだ。外側の時計は、規定の速度で進み続ける。外側の時計の針は、笑わない。笑わない時計の前で、笑い声だけが薄く続いた。
《Owl》がどこかで笑った気がした。誰も、もう驚かなかった。驚くことに疲れたのではない。驚きよりも、選ぶことのほうが、先に来るようになっていた。選び続けることは、いつか、笑いを乾かす。乾いた笑いは、音にならない。音にならないものだけが、朝まで残る。
翌朝の体温測定の音は、また短かった。ピ、という正確な高さ。白波は額を離して、少しだけ首を振った。「違う」と言うには弱い揺れだった。違うと強く言えば、また誰かの波形が跳ね、推奨が増え、死角が生まれる。違わないと言えば、鏡の中の座席へ自分が座る。どちらも、正しいと決めるには、朝はまだ薄かった。
古賀は、その薄さの中で椅子に座り、背もたれに頭を押し付けた。目は笑わない。笑わない目は、穴に似ている。穴の縁に、東雲の描いた黒が重なった。外部コメントの窓は空白のまま、スクリーンの白が痛いほど明るかった。誰も拍手はしない。拍手の準備の音だけが、なおも耳の後ろで蠢いた。




