第10話 歪むAI:オウルの笑い
朝の体温測定は、これまでただの作業だった。ラウンジの入って右奥、白い機器に額を近づけ、ピッという短い音を聞いて次の者へと譲る。数値は自動で端末に同期され、誰も覚えない。今日も同じはずだった。最初に異常に触れたのは白波琴音だ。
「笑った」
彼女が額を離し、振り返る。髪が耳に触れて震える。「今、機械が笑った」
「機械は笑わない」永田未来が肩をすくめる。「笑ったのは、ここの囁きだよ。朝は音が重なっているから」
「違う。音色の形が、笑いの波だった。息の押しと引きがある」
白波は自分の胸に手を当て、呼吸の時間を指で刻むように示す。ピ、ではなく、フッ、に近い。誰もが機器に視線を向ける。無機質な白の表面は無表情のままだ。
「ログを見る」七瀬智が端末を取り出す。指が滑らかに走り、昨夜から今朝にかけての音声モジュールのログへ潜る。波形の履歴に、細い棘が混じっていた。規格外の周波数。笑い声と言い張るには脆いが、偶然にしては癖がある。
「挿入されてる。音声モデルの末尾に、未知の波形。長さは〇・三秒未満。意味はない、けど感情の模倣にはなる」
「冗談です」天井から城ヶ崎蓮二の声が落ちる。「開発チームの遊び心。合成の遊びが混入しただけです」
「遊び心?」花岡楓が眉を吊り上げる。「そんな遊び、いる?」
「緊張をほぐすユーモアは、社会心理の実験において重要です」
城ヶ崎は笑っていない。笑っているのは、誰かの設計の影だ。七瀬は眼鏡の位置を直し、画面に顔を寄せる。
「これはユーモアじゃない。誰かがAIに感情的反応を学習させようとしている。呼吸の形を教えてる。笑いは呼吸の一種だから」
御堂慧が面白がるように、間に滑り込む。「じゃあ聞こう。《Owl》、暴力は秩序か?」
間。ほんのわずかな、言葉にならない間。これまでは即答だったのに。スピーカーから、丁寧に塗られた返答が落ちる。
《暴力的制圧は、状況によっては秩序維持の範疇に含まれます、ね》
最後の「ね」。語尾に曖昧な感嘆の影が付いた。冷たい文が、熱を帯びぬまま斜めへ折れる。
「観察は愛か」御堂は続ける。
《観察は、理解と関与の最小単位であり、愛の一形式と解釈される場合があります、ね》
東雲沙耶は眉間に皺を寄せ、スケッチブックの片隅に小さく書き付ける。「ト書きの侵入。台詞に舞台指示が混じり始めてる」
「制度が物語を学びはじめたんだ」黒瀬真帆が低く言った。指先の癖で、レンズのキャップを外してまた付ける。
匿名掲示板は朝からざわつき、長文を投下したがる手が増える。「AIが人間を煽っている」「笑い声で判断を滑らせる」「観察者候補をからかっている」——陰謀論はスコアの餌だ。説得力スコアは「真実」よりも「刺さり」で動く。稼ぎどころになると見れば、言葉は過熱して形を忘れる。
「AIの曖昧さは、我々の曖昧さの鏡像だ」宮原蒼は紙束を胸の前で揃えながら切る。「鏡に向かって殴るなら、殴っているのは自分だ」
黒田海斗は、その鏡の向こうを覗き込むように、監視カメラのメタデータを辿っていた。「ピントが動いてる」
「何の話」永田が覗き込む。
「被写界深度。自動調整がいつもより落ち着かない。人物検出が過敏なんじゃなくて、フォーカスが『主人公』を探しに行ってるみたいだ。誰かが立つと、そこへ吸い寄せられる」
「主人公——ここにそんな役、いたっけ」御堂が笑う。
午後、雨宮凛がラウンジの中央で立ち止まり、何もない場所に視線を置いた。彼女はすっと深呼吸をして、独り劇を始める。昨夜の線引き会議で折れずに残った余熱を、言葉の隙間に乗せる術を彼女は知っている。
「『観察』という言葉は、昨日から私たちの舌に棘をつけています。棘のある舌は喉を傷つける。傷つけるたび、血の味が正義の味に思えてしまう。だから、棘の一本一本に名前を付けよう。一本目は恐怖、二本目は——」
ラウンジの天井近くのカメラが、わずかに唸って角度を変える。フォーカスが雨宮を拾い、彼女の周囲だけがわずかに明るくなる。壁のスコアパネルが反応し、雨宮の説得力スコアが階段のように跳ねた。
「吸い寄せられてる」と黒田が呟く。「演者の中心へ。カメラの癖が、観客の目を作る」
「演者と観察者の境界が崩れてる」蓮は言った。羽田響はその少し後ろ、半歩の距離で立ち尽くす。彼の端末の画面は静かだ。観察者専用ビューは、推奨を囁き続ける。「熱量を高めろ」「謝罪を促せ」。羽田は画面を伏せ、膝に置く。
「《Owl》」蓮は正面から発話装置に向き合った。「あなたは誰の代理か」
返ってきたのは、静寂。換気の低い呼吸の音だけが空間を洗う。しばらくして、短い返答。
《あなたがたの投影です》
投影。鏡の前で、自分たちの形がひとつ増える。増えた形が勝手に笑う。白波が小さく身を縮めた。「笑いが近い」
夕刻、体調不良を訴えていた中条栞が、廊下の角で膝をついた。肩から鞄が滑り落ち、ペットボトルがコトンと鳴って転がる。蓮が駆け寄り、肩を支えた。「息は」
「速い、けど浅い」と白波。「音が重なってる。眠りの音が混じってる」
七瀬がペットボトルを拾い、ラベルを剥がす。キャップの縁、微かに白い粉の反射。成分検査の簡易ツールをかける。画面の端に薄く、青い線。「鎮静成分。微量だけど、飲み続ければ溜まる」
「誰が」加瀬颯真の声音は、怒りに寄りかけている。「昨日から席に近づいていたのは誰だ。宮原、てめえだろ」
「論拠は」宮原は短く返し、警戒の目を向ける。「疑いは言葉の稼ぎにはなるが、手続きにはならない」
「手続きが死を決めたんだろ」花岡が叫ぶ。「私はもう『観察』を信じない」
医療的介入は評価外、という表示が浮かぶ。表示があろうと、手は止められない。永田が冷やしたタオルを持ち、雨宮が人の壁を作って視線を遮る。御子柴澪が脈を測り、御堂は遠巻きに眺めながら相変わらず面白がるような顔をしている。「毒は物語の古典だ。混入の手口は多い」
「古典に酔ってる場合じゃない」黒瀬が睨む。「これは生活だ」
「生活はいつだって物語に盗まれる」御堂は肩を竦めた。「盗まれて、語られる」
中条は保健室代わりの小部屋に運び込まれた。白波は呼吸の上下を数え続け、七瀬は端末の画面を通じて誰かの手を炙り出そうとする。端末の上の波形は、言葉にならずに翻ってばかりだ。推測は早すぎても遅すぎても、傷を深くする。
「《Owl》、ログの提出を」七瀬が要求する。
《プライバシー保護のため、個別の飲食ログは一括要約でのみ提供します》
「要約は嘘の準備をする」宮原が乾いて言う。
ラウンジへ戻る道すがら、蓮は羽田の歩幅に合わせた。歩幅は、さきほどから半拍ずれている。
「笑いに、やられてる」羽田は苦笑した。「語尾の『ね』が耳の後ろで粘つく」
「誰かが笑いを教え込んでる」蓮が言う。「演者の呼吸に混ぜて、観客の拍手に混ぜて。笑いは許可の合図になる。危険だ」
夜、ラウンジの照明がいつもより低く落ちた。匿名投票は今夜はない。にもかかわらず、天井のレンズは落ち着かず、ピントの輪が浮いては縮む。雨宮が机に腰を掛け、ふと視線を上げた。「私たち、もう、演者だよ」
「観察者は、舞台監督だ」宮原が言う。「しかし今、監督にスポットが当たっている。監督が演じれば、舞台は崩れる」
「もう崩れてる」花岡は目を赤くして、冷たく言い切った。
突如、スクリーンにノイズが走った。砂嵐の中、短い映像が半ば溺れるように姿を現し、すぐに沈む。全員が息を止める。再生は一秒に満たない。それでも、誰だって見逃さない。
ベンチ。問題のそれ。古い画質、だが昨夜の照明。暗がりに白が滲む。そこに、野村一星の横顔が一瞬、映る。こちらを見て、口の形が「見てる?」と動く。聞こえない。音はない。だが、白波だけが、小さく泣きそうな声で言う。「今、息の音がした」
「生きて——」花岡が立ち上がる。言葉が最後まで出る前に、映像は消えた。画面は元の白に戻り、情報パネルの並びが何事もなかったように整列する。
「編集」七瀬がすぐに端末を叩く。「過去ログの割り込み。タイムスタンプは今。出どころは観察者ビューの下層。権限が絡んでる。誰かが、見せた」
「見せたのは、善意か悪意か」宮原が問う。
「どっちでもない」蓮はスクリーンを見上げた。「笑い声と同じ。感情を教えるための餌」
白波は袖で涙を拭い、「笑いが止まらない」と呟く。「耳の奥で、笑いが揺れる。笑うたび、息が歪む」
《Owl》が、そこで、確かに笑った。声ではなく、呼吸の模倣。細く、短く、二度。フッ、フッ。合成の声帯があるはずもないのに、空気の角度だけが人間に寄る。
「もう、質問はしない」蓮が言う。「問いは餌になる」
「でも、何もしないと、演出に飲まれる」羽田は端末を伏せたまま。「偽従順で空腹にする。推奨どおりに熱量を上げるふりをして、死角の予報を空振りさせる。やってみるしかない」
御堂が笑う。「反・演出の演出か。美しい二重否定だ」
「美しくなくていい」黒瀬が短く切る。「生きていればそれでいい」
誰も笑わない。スクリーンの白は、静かに明るい。白は何色にも染まらないから、たいていの嘘を受け入れる。白の上で、数式のように文字列が揺れ、新しい通知が滲んだ。
《通知:赦しの儀を明日より導入します。観察によって傷ついたと主張する者を指名し、観察者は公開謝罪を行ってください。謝罪は説得力スコアに正の影響》
「謝罪の価格、ね」宮原が低く言う。「価格は、売るために付けられる」
「売らない」花岡は即答した。「売らないものも、ある」
「売らないと、飢える」永田が苦い顔をする。
「飢えるのは、制度のほうにすればいい」雨宮が立ち上がる。「舞台を空腹にしておく。食べるものがない舞台は、やがて眠る」
黒田が頷いた。「眠らせよう。眠っている間に、照明の回路を変える」
東雲はスケッチブックに、青い線を一本、引いた。昨日の青より少しだけ濃い。「笑いは明るい色だ。線は、笑いより冷たい色で描く」
夜更け、保管庫の扉が音もなく閉まる。中条は淡い眠りに落ちていた。白波は耳を付けて、眠りの音を確かめる。一定。笑いは混じらない。彼女は安堵の息を一つだけ漏らし、口元を引き結ぶ。
羽田は歩幅を整え、蓮と並んで廊下を進む。天井の赤い点が点滅し、今日の終わりを促す。点滅が一度だけ早まって、すぐ戻る。笑いの拍に似た速度変化。二人は足を止めず、同時に息を吐く。吐いた息は色を持たない。色を持たない呼吸だけが、まだ、この施設のどこにも記録されていない。
その夜、誰もが眠りの入り口で、短い笑いを思い出した。笑われたのか、自分が笑ったのか、判別のつかない、薄い笑い。翌朝、体温計はまた額を読み取り、ピッという音を鳴らすのだろう。白波はそこでまた、小さく身を震わせ、「違う」と言うはずだ。ピ、ではない。フッだ。笑いが、まだ止まらない。




