指輪
木曜日の昼前。深夜まで起きていた二人は、目覚めた時にはもうそんな時間になっていた。
「さすがに寝すぎたな」
「そうね。ご飯食べて、出掛ける準備しなきゃね」
それから二人で朝食と昼食を兼ねて食事を済ませ、午後2時にマンションを出る。
このマンションには、純平がバイオリン教室に勤めてから引っ越してきたため泉水にはこの家のことはもちろん、バイオリン教室で講師をしていることも知られていない。
ただ、五十嵐や他の音大関係者の数人はバイオリン教室のことを知っているため、そこから知られるのも時間の問題だとずっと危惧している。
だからこそ、泉水と少しの繋がりでも断ち切りたい純平は、電話番号を変更することに何の抵抗もなかった。
携帯ショップに到着すると少し待たされたものの、手続き自体はスムーズに終わり、あっという間に電話番号の変更を完了する。それは拍子抜けするくらいあっけないものだった。
「俺の新しい番号を教えるのは、梓が第1号だな」
「ふふっ、一緒に来たしね」
楽しそうに笑い合う二人は、携帯ショップの店員の前でも自然とイチャイチャし、生温かい目で見られるも、そんな目など今の純平は全く気にならなかった。
なんせ、数年間続いたしがらみから解放され、気持ちは晴れ晴れとしていたから。そしてその気持ちのまま、梓を次の目的地へと誘う。
「梓、もう1カ所、付き合って欲しいところがあるんだけど」
携帯ショップを出た直後、純平は梓にそう言うとタクシーを止め、15分程行った先にある、ジュエリーショップへとやってきた。
「梓はいらないって言ってたけど、でもやっぱり、俺が梓に着けて欲しいし、着けさせたいんだ。婚約指輪」
「純平くん・・・」
「本当は俺ひとりで決めた方がいいんだろうけど、サイズとか好みとかいろいろ考えてたらわからなくなってさ・・・。それで、江口に聞いてみたんだ」
「・・・江口さんに?」
「うん。そしたら、別に二人で買いに行けばいいじゃないかって言われて。その方が梓の好きなデザインが選べるし、いいだろうって言われたから、今日、選んでもらおうかなって」
純平は忙しい合間を縫って、婚約指輪のことまで考えていてくれた。
その気持ちが梓にはとても嬉しかった。
そして、純平にアドバイスしてくれた江口にも感謝だ。
「ありがとう。・・・すごく、うれしい」
顔を綻ばせる梓を見て、純平は連れてきて良かったと思いながら、店の中へと入っていった。
それから二人が店員に婚約指輪を探していることを伝えると、店員が最初に出してきた指輪は、どれもこれもが大きめのダイヤがドーンと鎮座しているような「ザ・婚約指輪」というものばかりだった。
それを見た梓は、店員に自分の要望を明確に素直に伝えることにする。
「私、バイオリンを演奏するので、大きな石がついているものより、シンプルで普段使いしやすくて、邪魔にならないようなものが良いんですが」
「まあっ、バイオリンですか! 素敵ですね! それなら・・・・・・」
そう言って次に出してきたのは、ダイヤモンドが中央にあるデザインではなく、リングの中にダイヤが埋め込まれているデザインのものや、立爪ではなくダイヤを覆輪留めにし、まるで花のようにデザインされている指輪などを出してきた。
「あっ、こういうのなら、演奏中も気にならないかも」
「そうだな。シンプルで、梓らしい」
「それに、左手じゃなくて右手に着けるけど、いい?」
「なんで? 別にいいよ。どっちも梓の手だから、俺はこだわらないよ」
「ふふっ、純平くんならそう言うと思った」
「梓が右手に着けるなら、俺も結婚指輪は右手に着けようかな」
「うん、楽器のためにもその方がいいよ」
バイオリン講師であり演奏家でもある二人は、弦を押さえる左手よりも、弓を持つ右手の方が楽器を傷つけないと考えた。
店員そっちのけで完全に二人の世界に入ってしまっている二人を、慣れた様子で見守る店員。
さっきの携帯ショップとは違い、こちらの店員はこういうカップルに慣れているため、純平と梓の様子を見てもなんとも思わない。
それどころか、二人の話に口を挟まず見守りに徹し、二人の話がまとまったと思えば購入に向けて猛アピールをしてきた。なかなかのやり手である。
「こちらは服などに引っ掛かりにくく、ダイヤを埋め込んでおりますので、外れにくくなっています。こちらはデザイン性が高く、普段使いされても派手過ぎず、違和感なく着用することが出来ると思いますが―――」
店員の話を参考にしながら実際に着けてみたりした結果、リングにダイヤを埋め込んで留めている「彫り留め」の指輪を購入することにした。
幸い、梓の指に合うものがあったので、今日持って帰ることが出来るそうだ。
「メッセージの刻印サービスもございますが、いかがなさいますか?」
「え? それも今日出来るんですか?」
「はい、レーザーでちょちょいと出来ますよ。20文字までは無料サービスになっています」
純平がせっかくなら何か入れてもらおうと言うと、梓が、
「私は純平くんが考えた言葉をそのまま貰うわ」
と言ってきたので、純平は一人で悩む。
その結果、Ich liebe dich für immer《あなたを永遠に愛してる》と、ドイツ語で刻印することにした。
一応純平も大学でドイツ語の勉強はしたのだが、あまり自信がなかったため、結局最後は梓に確認してもらったのだが、それを見た瞬間、梓の顔が真っ赤になったのは言うまでもない。
「結婚指輪もぜひ、当店でお願いいたしますね。またのご来店、心よりお待ちいたしております」
ジュエリーショップの店員に丁寧に見送られ店を出ると、辺りはもうすっかり日が落ちて暗くなっていた。
「梓、夕飯は外で食べて帰ろうか。どこか行きたいところってある?」
「あの、それじゃあ・・・・・・」
純平が梓にリクエストを聞くと、梓は迷うことなく1軒のお店の名前を出した。
「らっしゃいっ! ・・・・・・おお! 純平、また来てくれたのか」
純平は先月花純と一緒に訪れた、大学時代にアルバイトしていた居酒屋にやってきた。梓からリクエストされたのがこのお店だったからだ。
「こんばんは、大将。カウンター、いいですか?」
「おお、座れ、座れ」
そうして通されたカウンターに梓と二人で座ると、大将は目を丸くして純平と梓を交互に見る。
「純平お前、今日はまた、ものすごい美人な彼女連れてるなぁ・・・」
「ははっ、大将紹介します。彼女は遠山梓さんと言って、その・・・俺の婚約者です」
「初めまして。遠山です」
「・・・・・・は? 婚約者ぁ?」
大将はいらっしゃいよりも大きな声を店中に響かせた。
まだお客さんが少なくて良かった。
「おい純平、なにがどうなって、こんな美人を捕まえたのか説明しろよ」
大将は純平と梓が注文したビールを持ってくるなり、腕を組んで説明という名の馴れ初めを聞かせろとせがむ。
それから五十嵐と同じように大将にも、高校の出会いからこれまでのことを話して聞かせた。
「お前、いい男なのに遊びもしねぇし、もったいねぇと思っていたら・・・。こんなに一途な男だったのかぁ。お嬢さん、純平を幸せにしてやってくれよ」
「ふふふっ、はい。もちろんです」
「大将、違いますよ。俺が梓を幸せにするんです」
「けっ! んなもんわかってるよっ! デレデレ鼻の下伸ばしやがってよぉ」
口ではそんなことを言いながらも大将は終始笑顔で、純平が幸せな顔をしているのがよほど嬉しいらしく、心から喜んでいるのがこちらまで伝わってきた。
それからも二人は、カウンター越しに時折大将と会話をしつつ、料理を楽しむ。
明日は通常通り仕事のためアルコールは最初のビールだけで、そのあとはノンアルコールのカクテルなどを飲んでいた。
「んなことより純平、お前ちゃんとお嬢さんに、渡すものは渡したのか?」
少し手が空いたのか、また大将が純平たちに話しかけてきた。その時、大将は自分の薬指を指し、そんなことを聞いてきたのだ。
そのジェスチャーで何のことかわかった純平は、笑顔で答える。
「実は今日、買ってきたんです」
そう言ってジュエリーショップの紙袋を大将に見せつけた。
「なんだよ、買ってきただけで渡してねぇじゃねぇか」
「それは・・・、家に帰って二人の時に渡そうと思っているんですよ」
「そんなこと考えてたの? 純平くん」
「そうだよ。当たり前だろ」
純平が梓に対して甘い顔で言うと、それを見た大将は、呆れた顔で純平を見ていた。
「おいおいおい、お前、本当にあの純平か? 俺の知ってる純平じゃないんじゃねぇか?」
「なんですか、それ。俺は俺ですよ」
「大将、純平くんってここではどんな感じだったんですか?」
梓は興味津々に大将に質問する。
すると大将は頭を傾け、少し考えて口を開いた。
「んー? そうだなぁ・・・。こいつはほれ、顔が良いからよ、女の客からも従業員からもよく誘われていたけど、ビックリするくらい見向きもしなかったな。なんなら冷たーい顔してよ。俺だったら喜んで行くってのに、変な奴だなって・・・もしかして男色かとも思ったけど、なるほど。お嬢さんみたいな美人な彼女がいるなら、そりゃあ他の女に見向きもしないわな」
「大将・・・もう勘弁してください・・・」
純平は他人の口から自分の過去をバラされたのが恥ずかしいのと、それを梓に知られた恥ずかしさで、両手で顔を隠してしまった。それに構わず大将は話を続ける。
「お嬢さん、こいつは真面目で不器用な奴だけど、これからも仲良くしてやってくれよ。こいつはお嬢さんを裏切るような男じゃねぇからな」
「・・・はい、任せてください」
「梓・・・・・・」
梓はこの時やっと気づいた。
自分が知らない純平の10年間に嫉妬したり嘆いたりするのではなく、それを丸ごと全部受け止めて純平を愛し、支えていく。それこそが自分の幸せであり、喜びなのだと。
純平は自分に対して誠実であろうとしてくれている。だから、言い難い過去の話を打ち明けてくれた。
その話を聞いた自分にできることは、純平の全てを受け止めることだけだ。
それが出来るのは、この愛が本物だから。そう心に誓った。
マンションに帰ってきた二人は風呂に入り、寝支度を済ませる。
「梓、ここに座って」
寝室に入ると純平がベッドに座り、自分の右側をポンポンと叩く。
それに従い梓もちょこんとベッドに腰かけた。
「右手、出して」
梓もわかっていることとはいえ、些か緊張しながらも、風呂上がりでしっとりとした手を純平に差し出す。
純平は紺色のビロードの箱の中から、今日購入した指輪を自分の指で丁寧に持つと、梓の右手の薬指にそっと嵌めた。
その時、純平の指が微かに震えているのを感じた梓は、緊張しているのが自分だけではないと思うと、純平に対して愛おしさが込み上げてきた。
「梓、絶対に幸せにするから」
純平はそう言うと、指輪を嵌めた梓の右の掌側から薬指にそっと口づける。
その顔がとても色っぽくて、梓の心臓はすでに早鐘を打っていた。
「ちょっと・・・ズルいよ純平くん・・・」
「なにが?」
「・・・純平くんの・・・その顔が・・・」
梓のその言葉で悪戯心が湧いた純平は、右手を握ったまま梓に顔を近づける。
「この顔の、なにがズルいの?」
「い、言わなくてもっ・・・わかるでしょ」
「言ってくれないとわかんないよ。教えて」
純平はじりじりと梓との距離を縮めていくと、腰に手を回し、グイっと身体を密着させた。そして耳元で小さく囁く。
「梓は・・・俺の顔、好き?」
「ん・・・」
「ふーん・・・。どこが好きか教えて?」
「・・・お、教えたら、離してくれる?」
「・・・・・・内容によるかな」
今日に限って、なんでこんなことを言い出すのか梓には理解できなかったが、この様子では言わないと解放してもらえそうにもない。梓は恥ずかしさを押し殺しながら、自分が好きな純平のことを正直に話した。
「私は、純平くんのきれいな目が好き。二重の優しい目は、私を安心させてくれるから。あと、きれいに筋の通った鼻も、男の人にしてはすべすべの肌も、低めで落ち着いた声も好き。それと、この左顎のホクロが純平くんの色気を感じるから・・・好き・・・」
梓が一気に捲し立てるように言い切った瞬間、純平は梓を解放するどころかそのままベッドに押し倒した。
「え・・・ちょっ・・・」
「ズルいのは梓だよ。そんなこと言われて、平気でいられるわけないだろ」
「だっ・・・て、純平くんが教えてって言うから・・・!」
「うん、そうだね。でも、まさか梓がそんな風に俺のことを見ているとは思わなかったから」
そう言うと、純平は梓の唇に自分の唇を重ねる。部屋の中には、二人のリップ音と、時折荒くなった息遣いだけが聞こえている。
「昨夜もシちゃったから、今日はやめとこうって思ったけど・・・梓、いい?」
「・・・・・・ん」
梓の了承をもらった純平は、梓の身体から指輪以外すべて取り除くと、大事に大事にその身体を抱いた。
そして純平は、これまで散々「エロスの星」といって揶揄われてきた左顎のホクロのことを、ちょっとだけ好きになっていた。




