先輩
正月の帰省から東京に戻ってきた純平と梓は、休み明けの教室再開に向けて忙しい日々を過ごしていた。
純平が午前中に受け持っていた団体レッスンの一部を梓に引き継いだり、個人レッスンに関しては、初心者クラスの子を中心に引き継いだりと、梓もバイオリン講師として歩み始める。
そして、それと同じくらい、二人の交際も順調そのものだった。
高校3年生の夏から交際を始めた二人だったが、コンクールが終わってすぐに音大受験のための勉強やレッスンが始まったため、デートなんて出来なかったし、二人で過ごすことはあっても、そこには必ず勉強かバイオリンがついて回っていた。
それゆえ純平は、大学受験が終わったら、梓と勉強もバイオリンも抜きでデートしたいと考えていたのだが、まさかあんなことになるとは思ってもいなかったし、今でも思い出したくない出来事だ。
それが10年ぶりに梓と再会し、周りの心強いサポートもあってまた付き合うことになり、先日、ほとんど勢いでしたプロポーズを受け入れてくれた。
ひとつ失敗したなと思ったのは、指輪を準備していなかったことだ。
でも、それでもいいと、梓は笑って受け入れてくれた。
そんな二人の一日は、朝一緒に起きるところから始まる。
朝、目が覚めるとすぐ隣には梓がいて、それから二人で朝食を作って食べ、一緒に並んで歯磨きをして、梓の支度が整ったら家を出る。
教室までの15分の道のりも二人で手をつないで歩き、教室に着いたら生徒を迎えるための準備を二人で手分けして行う。
お昼は1階のベーカリーショップで買ったサンドイッチとコーヒーで済ませ、午後のレッスンまで二人はバッハの第三楽章を練習する。
時にはリフォーム業者との打ち合わせが入ったりと、新生活に向けても着々と準備を進めていた。
夜ごはんは、梓が前日に仕込んでいる和食を中心に、あまり重くならないようなメニューで、身体に配慮した優しい料理が並ぶ。
お風呂に入り、また二人で並んで歯磨きをして、一緒にベッドに入る。
二人ともいい大人なので、肌を合わせることもあるけれど、純平は梓のことを何よりも誰よりも一番に考えているため、無理なことは絶対にしない。
ただ梓を腕に抱いて眠る。それだけでも十分に幸せだった。
順風満帆、幸せの絶頂。
ここ最近の純平は、浮かれまくっていた。
だから純平は忘れていた。
あの問題が解決していないことを―――
「こんにちはーっ」
午前中のレッスンが終わり、純平と梓が休憩をしようとしていた時、教室の入り口が開くと一人の男性が入ってきた。
「五十嵐先輩、お疲れさまです」
「よっ、夏見。注文していた教本と楽譜と、いつもの月刊誌持ってきたぞ」
純平に五十嵐先輩と呼ばれたのは、楽器店に勤務する音大時代の2コ上の先輩で、花純からバイオリン教室を任された時から、この教室の担当になってくれた先輩だ。
「ほい、これと、これと・・・」
「・・・うん、全部揃っていますね。いつもありがとうございます」
二人で注文した商品の確認をした後、純平は納品書にサインする。
「いつもありがとな、夏見」
「いえ、こちらこそ」
「ところでさ、来週の土曜日なんだけど、大学オケのメンバーで飲み会があるんだけど、どうだ?」
「土曜日ですか・・・、先輩、有難いんですが土曜日も夜までレッスンが・・・」
「レッスンが終わってからでもいいからさ! みんな、なかなかお前が顔を出さないから、連れてこいってうるさいんだよ」
五十嵐はどうしても純平を飲み会に連れていきたいらしく、顔の前で手を合わせてお願いポーズをしてまで頼み込んできた。
「先輩、それって本当にオケのメンバーだけですか?」
「・・・・・・というと?」
純平は、こんなに頼み込んでくる五十嵐のことを怪しく思い、確認する。
「・・・・・・ピアノ科の人なんて、呼んでないですよね?」
純平に言われた瞬間、五十嵐はほんの一瞬、肩がビクっと震える。純平はそれを見逃さなかった。
「やっぱり・・・・・・」
「いや、違うんだよ、夏見」
「先輩、俺と横澤のことはみんな知ってますよね」
「ちがっ・・・俺もそれは聞いてなかったんだ。それに・・・」
五十嵐が言い訳を口に出そうとした時、休憩室のドアがガチャっと開き、
「純平くん? お昼食べよう?」
と、梓が声を掛けてきた。
その梓の姿を見た五十嵐は、初めて見る梓の姿に瞠目し固まる。
「あ、梓・・・・・・」
「ごめんね、お取込み中だった?」
「夏見・・・この方は?」
五十嵐が尋ねると、純平は梓を自分の元に呼び寄せて、幸せオーラを隠すことなく言い放つ。
「先輩、紹介します。この方は遠山梓さんといって、今月からこの教室の新しい講師になった方です」
純平に紹介された梓は、自分も五十嵐に挨拶をする。
「初めまして、遠山梓と申します」
「あの、こちらこそ初めまして。僕は大和楽器の五十嵐と言います。夏見・・・先生は音大時代の後輩で・・・」
「えっ! そうなんですか? それじゃあ五十嵐さんは、純平くんの先輩なんですね」
「は、はいっ。そうなんです。ちなみに僕はヴィオラで、大学のオケも一緒だったんです」
五十嵐は突然現れた美人の梓を目の前にして、すでにデレデレになっていた。それを見た純平は、決定的なひとことを五十嵐にお見舞いする。
「先輩、梓は俺の婚約者ですから。ヘンな気、起こさないでくださいね」
「あ、ふーん・・・婚約者ね。・・・・・・こ、婚約者!?」
目ん玉が飛び出るとはこういうことをいうんだろうなってくらい、目を大きくさせた五十嵐は、驚き過ぎて口をあんぐりと開けたまま動かなくなってしまった。
「こ、こ、婚約って、夏見! お前、俺が先月ここに来た時には何も言ってなかったじゃないかっ!」
「あー・・・そうですね。でも、そのあといろいろありまして、梓にプロポーズして受け入れてもらったんです」
「いろいろってお前っ、そのいろいろを知りたいんだよっ!」
こうなると五十嵐は全て聞くまで帰ってはくれないだろう。
正直、メンドクサイ・・・・・・。純平がどうにか帰ってもらう理由を探していると、
「純平くん、せっかくだしコーヒーでも飲みながら話したら?」
その梓のひとことで、普段は関係者以外入れない休憩室に初めて五十嵐を入れ、梓とのことを話すことになった。
二人の出会いから、10年間の別れ、そして再会までをかいつまんで話し終わると、五十嵐は頭を俯けて考え込む。
「夏見がどんだけ女に言い寄られても、どんだけこっちが女を紹介しても、全く見向きもしなかったのは、遠山先生がいたからか・・・・・・」
「そうですね。だから、あの頃から言ってたじゃないですか。忘れられない子がいるから、その子が俺の心にいる間は無理なんですって」
「言ってたけどさ・・・・・・そんなの、体のいい断り文句だと思っていたんだよ。たぶん俺だけじゃなく、ほとんどがそう思っていたぞ」
さっきの勢いなどすっかりなくなってしまった五十嵐を見て、梓はなんだか申し訳ない気持ちになってしまった。
「あ・・・あの、五十嵐さん。私が言うのもおかしいんですけど、純平くんには他の人と恋愛しても構わないって言ったんです。なのにこんな・・・」
「梓っ! 梓が気にすることなんか何もない。俺が勝手にずっと待ってて、諦めがつかなかっただけだ」
「純平くん・・・・・・」
梓の少し不安げな目を見た純平は、安心させようと梓の頬を撫でる。
ちょうど二人の正面に座っていた五十嵐は、一体俺は何を見せられているんだ? と言わんばかりの顔で純平を見た。
「おい、夏見。俺がいること忘れてないか?」
「忘れてませんよ、先輩。それどころか、話を聞いたならさっさと帰ったらどうですか」
「お前な・・・」
「純平くん、先輩にそんなこと言ったら失礼だよ」
「ゔっ・・・梓・・・・・・」
梓にめっと叱られた純平は、五十嵐への態度を改めた。
結婚前なのに、もうすでに尻に敷かれている。
「夏見に遠山先生という大切な婚約者がいるのはわかった。でも、せっかくだし、それを報告がてら飲み会に来てくれよ。みんなとも随分会ってないだろ?」
どうやら五十嵐は、純平を誘うことをまだ諦めていなかった。
このままでは埒が明かないし、いつまでも五十嵐の相手をしていられない。
そう思った純平は、五十嵐に参加するにあたっての条件を出すことにした。
「わかりました、先輩。参加してもいいですよ」
「ホントか!?」
「ただし、梓も一緒に連れていきます」
「え・・・・・・? 私も?」
純平の話を聞いて一番驚いたのは梓だ。
「そんなの、全然かまわんよ! それに婚約したことを報告するなら、遠山先生がいた方がいいしな!」
「そんな・・・っ、純平くんっ!」
「あと先輩、ピアノ科の・・・・・・横澤がいたら、すぐ帰ります」
その言葉を聞いた五十嵐は返事に詰まり、絞り出すような声で答えた。
「ん・・・まぁ・・・そうだよな。・・・・・・それは仕方ないしな。あいつのためにも、その方がいいよな」
「はい。すみませんが、この二つだけはお願いします」
「おお、わかった。横澤の件は相談しておく。せっかくの飲み会だし、楽しく飲みたいしな」
「・・・・・・お手数をお掛けします」
純平は五十嵐にペコっと頭を下げる。
五十嵐は純平が参加する返事をもらうと、上機嫌で帰っていった。
「純平くん、本当に私も一緒じゃないと・・・ダメ?」
「なんで?」
「・・・だって、私の知らない人ばっかりだし・・・」
梓は、自分が行くことで場に水を差さないか心配する。そしてなによりも、自分が知らない純平の大学時代を知ることが怖かった。
10年ぶりに再会したあの日、純平は母の真純に迫られて、大学時代に恋人がいたことを明かしていた。
長続きしなかったとはいえ、そういう存在がいたことに梓は少しばかり動揺したし、気にならないといえば嘘になる。
自分はそれも覚悟の上で純平から離れ、目の手術を受けることを決断したのに、いざ、その存在が明らかにされると、過去のこととはいえどうしようもない嫉妬心に包まれる。
純平に愛されている自覚はあるのに、変えられない過去に後悔している自分が、惨めで情けなかった。
「梓、もし不安に思っていることがあるなら、ちゃんと話して。俺は梓にそんな顔をして欲しくないから」
「純平くん・・・」
梓の微妙な感情の変化にも気づくくらい、純平は梓のことをよく見ている。
その純平の言葉に甘え、梓は自分の胸の内をさらけ出すことにした。
「私、自分から純平くんの元を離れたくせに、私が知らない純平くんがいると思うと・・・・・・。それに、付き合っていた人がいるって言っていたのも、本当はずっと気になってて・・・」
「梓・・・・・・」
「ごめんなさい。勝手なことを言ってるのはわかってるの。でも、気にしないようにしてても、どうしても気になって・・・・・・」
梓がそこまで言うと、純平は優しく梓を抱き寄せる。
「ごめんな、梓。不安にさせて」
「ううん、純平くんは何も悪くない。私が一人で勝手に嫉妬して、不安になっただけだから」
「・・・・・・嫉妬、してたの?」
純平が梓の顔を覗き込むと、その目は微かにうるんでおり、顔は真っ赤になっていた。
「・・・・・・するよ、嫉妬。ずっと前から嫉妬してたよ。だって純平くんモテるし・・・」
「梓・・・・・・その顔でそんなこと言うのは反則」
純平はそう言うと、堪らず梓にキスをする。
角度を変えながら舌を絡め、深く、そして甘く、互いの息遣いが荒くなるほど熱く口づけた。
「じゅ・・・純平くんっ・・・、ここ一応職場だから・・・」
梓のその一言で純平もやっと冷静を取り戻した。
そして、梓と離れる前にもう一度軽く口づける。
「梓、もし梓が気になるんだったら、俺は正直に全部話すよ。その上で梓を一番に考えるし、これから先、一生、梓だけだって心に誓う。だからどうして欲しいか、どうしたいのか教えて?」
その言葉を聞いた梓も、この嫉妬心に打ち勝つために覚悟を決めた。
「それなら・・・・・・純平くんの10年間の話、私に聞かせて欲しい」




