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 その日、浅子が病室のベッド脇に置かれた折り畳み椅子へ腰を下ろすと、末松敬一は乾いた笑みを見せたと言う。


「もうね、こンだけ踏んだり蹴ったりの人生じゃ、笑うしかね~って思いません?」


「己を笑えるのは強い人の特権ですよ」


「ははっ、俺が強い?」


 ベッドの電動機能でどうにか動く上半身だけ起こし、敬一は浅子へ向き直った。


 もう二度と使い物にならない自分の両足を撫で、雨上がりの晴天が広がる窓の外へ視線を移して、


「俺さぁ、自分の花屋を持つのが夢だったんだよね」


 と独り言のように呟く。


「だから大学じゃ経営学を専攻したし、就職先も全国チェーンの花屋に拘った」


「いずれ、起業する時の為にノウハウを学びたかったんですね」


「ああ」


「就職浪人を経たとは言え、あなたが正社員になった緑善社は大企業や公共団体のイベント向けに観葉植物などをレンタルし、アレンジまで手掛ける業界の大手です」


「最初は嬉しかったっすよ、俺も」


「最初だけ、ですか?」


「入ってみたら、所謂ブラック……就業時間は一応、午前10時から午後6時になってるけど、俺、イベント会場で花を飾る係へ回されたっしょ。クライアントの都合次第で、実質は不定期。時間外労働なんて、月80時間を軽~く超えてた」


「それ、法律違反ですよね」


「だから当然、サービス残業っす。いやならクビって遠回しな圧力、掛けられて」


 浅子は小さく頷いた。






 奨学金に携わっていると、近頃、実に良く聞く類の話である。


 今や日本の平均年齢は六十才に至る寸前。


 若年層は極めて貴重な存在だし、何処の会社も若手求人を増やしている筈なのに、何故か労働条件が大して改善されない。


 様々な分野でAIが導入され、『人間』の職場が奪われた結果、雇う側にリクルートを急ぐ必要が無くなってきたのも、その一因なのだろう。


 所謂、エリート層以外の『人間』は使い捨ての労働力と見なす傾向が、大企業の間で年々高まっている。






「おまけにね、俺が事故を起こした9月の中頃は、やたら忙しかったんスよ」


「花の需要が増える時期なんですか?」


「カジノの跡地へ進出してくる海外企業の事務所開きとか、変に続いちゃってね」


「ほぉ」


「そこそこ規模がでかいオープニング・セレモニーに対応する時もスタッフは一切増やさず、そのまんまの人手で回す。俺、ろくに家へ帰れなかった」


「会場へ泊まり込み?」


「体がもたないんでね。終電の後でも帰れるよう、原付バイクの中古を買い、それで通い始めたんすけど」


 敬一は肩をすくめた。その判断が事故へ結びついてしまった事、後悔してもしきれない心境なのだろう。


「電柱へぶつかる前後の記憶、すっかり飛んじゃってます。多分、過労で夢遊病みたいになってたんだ、俺」


「そうなる前に、上司へ相談すれば」


「……だからさぁ、聞く耳なんかテンデ持っちゃいないんだよ、あいつら!」


 乾いた笑みが崩れさり、敬一は怒号を上げた。


 四人部屋の他の住人から一斉に冷たい眼差しを浴び、二人は慌てて頭を下げる。


「結局、俺にも問題あるんかな?」


 敬一の顔から一切の表情が消えていた。放心状態と言うより、疲れ果て、若さをすっかり喪失した世捨て人の如き虚無感が漂う。


「子供の頃、俺、いじめられっ子でさぁ。親父が近所と揉め出したのがきっかけだけど、段々といじめ慣れって言うか、さ」


「……わかります」


 隣の浅子の顔からも、何時の間にか表情が消えている。


 お得意の心理テクニック、相手とのシンクロで心の距離を詰める手かと思えば、そうでもなさそうだ。


「ボク自身、昔、いじめられた記憶がありますから」


「浅子さんも?」


「小学校三年生の時、東京から引っ越してきて大阪弁になじめなかったんです。無理して真似たらニセモノって言われ、却ってツマハジキになりまして」


 その冷めた口調は濃い苦味を含んでおり、目を伏せた沈痛な面持ちも人を食ったポーカーフェイスに程遠い。普段の浅子と明らかに雰囲気を異にしている。


 敬一は大きく頷いた。


「一度、いじめっ子にマークされると、もう何処へも逃げられないもんね」


「ええ、大人になっても、心の傷が焼き印みたいに残ってて、何時の間にか酷い奴らを引き寄せてしまう」


「よく言われたよ、人の弱さは自己責任って偉そうな説教口調で」


「まぁ、ボクに関する限り、いじめられっ子の記憶にプラスの面もあります。世の残酷さとその対処法につき、ボクなりに学ぶ契機となりましたので」


「強いんすね、浅子さん」


「は?」


「さっき言ったじゃないすか。己を笑えるのが強い者の特権ってんなら、あんた、とっくにソコ、飛び越えてる」


 風変りな奨学金の取り立て屋は頬を赤らめ、ハンカチで額の汗を拭った。褒められる経験に、およそ慣れていないようだ。


「でも、俺は……こんな体で行き場も無い負け犬の未来なんて、もう……」


 敬一の眼差しが、再び二度と動かない自分の足へ戻ってくる。


「笑うしかね~のに、笑えねぇ」


 怒りとも悲しみともつかない感情が若い瞳の奥底で暗色の炎を点し、すぐ諦めの溜息と共に虚空へ吐き出されて、消える。


読んで頂き、ありがとうございます。


気温へ急に落ちてきましたね。

皆様、くれぐれもご自愛ください。

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