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作者: 遠慮

 集合住宅に囲まれた小さな隙間にその公園はあった。遊具は錆びつき、雑草は誰の邪魔もされずに伸び放題。「あおぞら公園」という名前がついていたけど、そんなことを気にすることもなく、雨は降り注いだ。


「なんで、こうちゃんは雨の日にしか遊べないの?」


 ぎーぎーと鳴るブランコから飛び降りた拍子に、長靴が水を跳ねた。思ったよりも水たまりが深くて少し焦る。


「わかんない。父さんが外に出ちゃいけないって言うんだ」

「そうなんだ。かわいそー」

「かわいそうじゃないよ。もう一人じゃないから」


 透き通るような白い手を惜しげもなく泥で汚しながら、こうちゃんは笑っている。私たちは雨を吸った砂場で、夢中になって泥のダムやお城を作った。服が汚れることも、泥だらけになることも、気にしなかった。


「こうちゃんは、ずっと一人だったの?」


 私の質問にこうちゃんは答えなかった。その代わりに、「また僕と遊んでくれる?」と訊いた。はにかんだような、何かにすがるような表情だった。


「もちろん! わたし次の雨の日が楽しみなんだ」


 青とピンクの小さなレインコートが二つ。雨の中に咲く紫陽花のように寄り添って揺れていた。





 暗い空から落ちる雨粒が、街灯のスポットライトの中で舞っている。私は小走りでバス停へと急いでいる。普段はどんなに降水確率が低くても必ず傘を持って出かけるのに、今日は忘れてしまった。定時退社なら雨には遭わなかったはずだった。残業はいつものことだけど、悔しかった。じわじわと体に染みてくる水が、何か大きな敗北を突きつけてくるような気がした。


 バス停に辿り着く。屋根があったことを忘れていた。雨でも降らない限り気にも留めないような粗末な造りなのだ。私はベンチに腰を下ろし、濡れた腕や肩を払った。火の粉を払うみたいに必死になっている自分に気がつく。


 ……いつからこんなに、雨が嫌いになったんだろう


 私のほかにバスを待つ人はいない。無感情な雨音に乗って、暗闇が心の隙間に滑り込んでくる。


 歳を重ねるにつれて、少しずつ、全てが怖くなった。


 現実にぶつかるたび、いびつに形を変えてきた夢をガラゴロと転がして。社会と繋がるためにうわべだけを繕って。がさつに積み重ねてきた経験をプライドにして。がむしゃらにやってきたはずなのに。胸の奥にぽっかりと穴が空いている気がする。私が思い描いていた未来ってこんな姿だっただろうか。


 不幸なのかと問われたら、すぐに「違う」と言える。だけど、幸せなのかと問われたら、即答できる自信はなかった……。


「お客さん、乗るの? 乗らないの?」


 はっとして顔を上げる。バスの運転手がこちらを見ずに返答を待っている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


「……の、乗ります」


 車内には数人の乗客がまばらに座っていた。皆、それぞれの沈黙に閉じこもり、うつむいていた。まるで自分の顔を見られるのを避けているように思えた。


 迷惑そうにプシューと溜め息をついて、最終バスが発車する。窓の外はどこまでも闇だ、車内の薄明かりのせいで更に暗く見える。





<次停まります。ご乗車ありがとうございました>


 一斉に停車ボタンが赤紫色に灯り、機械的な女声のアナウンスが流れた。どうやら、通路を挟んで隣の席の老婆がボタンを押したらしい。傘を持っていないようだけど大丈夫なのかな。そんなことを思いながら覗き込んだ老婆の顔に、私は思わず息を呑んだ。


 笑っていたのだ。皺だらけの顔を歪ませて、声を出さずに笑っていた。私は見てはいけないものを見てしまったような気持ちになって、目を逸らした。


「里山女学校前、里山女学校前です」


 運転手がそう告げて、バスが停まった。里山女学校前。そんなバス停は私の帰路にはなかった。


 ……しまった。バスを間違えたんだ


 その時、ふいに窓の外が明るくなった。ついさっきまでの暗闇は消え去り、車内は白く柔らかな光に包まれた。慌てて外を見ると、雲一つない青空が広がり、標識のすぐ後ろには学校らしき建物が見える。校庭では小学生くらいの子供たちが遊んでいるではないか。


 唖然として窓に張り付いていた私の目の前を、さっきの老婆が歩いていく。震える足を懸命に動かして、まっすぐに学校の校庭に向かっていく。それに気がついた子供たちが走り寄って来て、老婆はうれしそうに両手を上げてその輪に加わった。一瞬だけ、老婆が周りの小学生と同じくらいの子供に見えた気がした。


 その直後、けたたましいサイレンの音が私の耳をつんざいた。


「な、なんなの!」思わず叫ぶ。


 轟音の中、戸惑う私を無視してバスは再び動き出した。外の光は徐々に薄れ、また夜が戻ってきた。音と共に、後ろへ遠ざかる里山女学校だけが、ぼんやりと明かりを留めていた。


 私はしばらく動けずにその場に立ちすくんでしまった。今見た光景を理解しようとするのを、なんとか諦めて声を絞り出す。


「あのう、すみません。このバスは……」

「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」


 運転手はこちらを見もせず冷たく言った。言い返そうと思ったけど、悪いのは乗り間違えた私だ。次の停留所で降りればいい。そう思い直して一番前の席に腰を下ろし、停車ボタンに手を伸ばす。……が、反応がない。何度押しても何も起こらない。


「あれ、おかしいな」


 試しに後ろの席のボタンを押してみたが、これも反応しない。


「あのう、これ点かないんですけど」

「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」

「だから、点かないのよ。もういいから次のバス停で──」

「お降りの際はお手元の停車ボタンを押してください」


 運転手は私の言葉を遮った。どうあっても、停車ボタンが点かない限り停まる気はないらしい。仕方なく席に戻る。誰かが降りるとき、一緒に降りればいい。


 私がため息をつくと、隣に座っていた男が話しかけてきた。


「お姉さん、どこに行きたいんですか?」


 よれたスーツに眼鏡、三十代後半くらいの、くたびれたビジネスマンだった。


「どこって……家に帰りたいんです。バスを間違えたのに、あの運転手が聞いてくれないんですよ」

「ここにいる人たちは皆そうです。帰りたい場所があるから、このバスに乗る。決心がついたらボタンを押せばいい」


 そう言うと、男は静かに停車ボタンを押した。


<次停まります。ご乗車ありがとうございました>


 今度は反応したようだ。どうやら次の停留所で降りられる。

 




 ──たしか、九歳の誕生日だった。


 プレゼントの包みを破く前、私は絵本とかぬいぐるみのような、「子ども扱い」の贈り物を予想していた。でも、出てきたのは、チェック柄のスカートとお揃いの靴だった。予想は嬉しいほうに裏切られた。幾重にも枝分かれしていた未来が一つに決まったのは、このときだったのかもしれない。


「わたしね、ファッションデザイナーになるの!」


 新品の服と靴を履いて、そう宣言した日から、私の画用紙はカラフルな洋服の絵で埋まることになる。


 「ファッションデザイナー」という言葉の意味をきちんと理解したのは、ずっと後のことだった。好きなことを仕事にしよう。いつの間にかそれが夢になった。専門学校を卒業後、現実を知ることになる。


 私は大勢の中の一人でしかなかった。「好き」であることだけでは夢に届くはずもなかった。たくさんの挫折を経験して、ある時、やれることは全てやってやろうと思った。無力ならば、力を手に入れてやろうと思った。ただひたすらに、人に言えないようなことだってやってきた。なのに、信じていたはずの道が、大好きだったことが、もう正しかったのかどうかもわからない。もし間違えたとしたら、どこで、なにを? 何度問い直しても、答えは出なかった……。


 その時、バスがアナウンスもせずに急停車した。慣性の法則は、ぼんやりとしていた私を現実に引き戻した。


「……着いたか」


 スーツの男はそう呟くとこちらを向いた。ずっと無表情だったその顔に、微かに感情の影が差した。笑っているようにも、泣きそうにも見えた。


「俺は、ここで恋人と別れたんです」


 男は立ち上がり、胸ポケットから何かを取り出す。それは丁寧に折りたたまれた便箋だった。決意したようにそれを見つめる。微かに指が震えていた。


「俺は彼女に嘘をついたんです。けして言ってはいけない言葉を言ったんです」


 私は怖くなって男を無視して立ち上がった。窓の外を見ると、そこには浜辺が広がっていた。波打ち際に女性らしき後ろ姿がぽつんと立っている。薄暗い霧のなか、長い髪が風に揺れているのが見えた。私の住む街に浜辺なんてなかったはずだ。


「俺はずっと、演じていたんです。いや、本当は、ただ怖かっただけなんです。嫌われるのも、頼るのも……」


 男は深く息をつくと、便箋をポケットにしまって前扉へと歩き出した。


「あなたも戻りたい場所があるから、このバスに乗ったはずですよ」


 男が下りるとドアが閉まった。バスは滑るように海の上を走り出す。景色は再び暗闇へと沈んでいく、 窓に当たる雨のせいで二人の姿はすぐに見えなくなった。




 一人、また一人と乗客たちはそれぞれの場所へと降りていった。こんなことが現実のはずがないとわかっているのに、心のどこかでそれを疑い始めていた。乗客はもう私一人だけだ。スーツの男は「戻りたい場所があるはずだ」と言ったけど……私は、どこに戻りたいんだろう。


 窓の外に視線を向ける。相変わらずの暗闇に、雨は降り続ける。窓にぶつかった雨粒は不規則に形を変えながら、半透明の私の顔を歪めて後ろへ飛ばされていく。


 その刹那、暗闇に何かが横切った。


 一瞬だけどはっきりと浮かび上がったそれは……


 空色の──


「あ!」


 私はそれに見覚えがあった。


 胸の奥底で冷たい感覚がざわめく。堰を切ったように封じ込めていた記憶が溢れ出す。


 子供の頃、雨の日にだけ会える友達がいたこと。


 その子は「こうた」と名乗ったこと。


 空色の──レインコート。


〝また僕と遊んでくれる?〟


〝もちろん! わたし次の雨の日が楽しみなんだ〟


 子供の頃の約束。


「……こうちゃん、私……」


 私はその約束を破った。


 次の雨の日も、その次の雨の日も、公園には行かなかった。新しい服が汚れるのが嫌だった。ただそれだけの理由で。私は約束を破ったことが後ろめたくて、彼のことを忘れようとした。そして本当に忘れてしまったんだ。


 ──その代わりに、雨が嫌いになったんだ。


 彼は雨の中から出ることができなかった。今の私だって同じだ。大切に守ってきた人や思い出が、信じて身につけてきた経験が、いつの間にか自分を縛る鎖になった。そうやって増やしてきた宝物は重い足枷になった。自分を守るために、雨さえ牢獄に変わった。


 ここから出なきゃいけない。

 こうちゃんはまだ、雨の中にいる。

 私は願いを込めて停車ボタンを押した。


<次停まります。ご乗車ありがとうございました>





 バスが静かに停まって、運転手の声が車内に響いた。


「──あおぞら公園、あおぞら公園に到着です。雨で足元が滑りやすくなっております。どうぞお気をつけてご降車ください」


 私はおそるおそるバスを降りた。街灯のオレンジが水たまりに滲んでいた。そこは、まぎれもなくあの頃の「あおぞら公園」だった。心臓が高鳴っていた。そんなことはあるはずがないという想いが、確信の鼓動に少しずつ押し退けられていく。


 そして私の目は、確かにそれを捉えた。


「そんな、まさか……」


 木漏れ日のような街灯の灯りを浴びて、砂の小さなお城の隣に、ちょこんと、こうちゃんは立っていた。あの頃と同じ子供の姿のまま、お気に入りの空色のレインコートを着て。


 私はハイヒールを脱ぎ捨てて、濡れることも泥に汚れることも気にせず、駆け出していた。


「……こう、ちゃん?」


 こうちゃんは雨に濡れた顔を上げた。


「おそいよ、もう」

「こうちゃん……。ごめんね、ごめんね。ずっと待ってたんだよね」

「うん。だって、約束したから」

「ごめんね、私、洋服が汚れるのが嫌で……ごめんね」


 私は、こうちゃんの小さな体を抱きしめた。

 優しく舞い落ちる雨の中、涙も、言えなかった気持ちも、胸の奥のトゲのような後悔も、全部溶けて流れていった。


 久しぶりに全身を濡らす雨が、心地よかった。


 ──思い出した。私は、本当は、ずっと雨が好きだったんだ。





「お客さん、乗るの?乗らないの?」


 気がつくと、そこはいつものバス停だった。運転手がこちらを見ずに返答を待っている。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。


「……の、乗ります」


 私を乗せて、最終バスは出発する。乗客にはあのお婆さんも、スーツの男もいなかった。


 ……夢、だったのかな


 窓の外では見慣れた街並みが静かに雨に濡れている。


「ごめんね、こうちゃん」


 小さく呟いた時に妙な感覚に気がついた。

 私は靴を履いていなかったのだ。


 全てを脱ぎ捨てるのはもう無理かもしれない。だけど、少しずつなら変わっていける気がする。汚れることなんて少しも気にしなかった、あの頃のように。





「また僕と遊んでくれる?」

「もちろん! わたし次の雨の日が楽しみなんだ」

「えへへ、そっか。ありがと」


 私の答えを聞くと、こうちゃんは泥のついた手で顔をぬぐった。だから鼻の頭に泥がついた。完成したばかりの泥水のダムに、二人の顔がくっきりと映っている。


 いつの間にか雨が上がっていた。


「こうちゃん、雨やんだよ」

「ほんとだ」

「わー、見て。空がすごくきれい」


 ねずみ色の雲の切れ間から、夕日がこぼれていた。フード脱いだこうちゃんの顔が夕日色に染まる。


「ぼく、もう帰らなきゃ」


 泥で汚れた空色のレインコートがキラキラ光る。


「わたし、大人になったら、かっこいいレインコートを作ってこうちゃんにあげるね」


 私の言葉に、こうちゃんはくるりと振り返った。

 逆光でその顔ははっきりとは見えなかったけど──


「ありがと。楽しみにしてるよ」


 そう言ったこうちゃんの声はとても嬉しそうで、私も嬉しくなったんだ。

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― 新着の感想 ―
不思議なバスは、やり直したい過去に連れてってくれるバスだったんですね(*^^*) おばあちゃんや、男の人、他にも色々な乗客の方の物語がありそうですね。楽しく読ませていただきました、ありがとうございます…
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