大きな変化と旅支度
どうやら私は若返ったらしい。
まじまじと鏡を見つめながら、ぼんやりとそんな事を考えた。
若返り。
それは不老不死という、魔法使いにおける最大の難問に対する一つの解といえるだろう。私は期せずしてそれに辿り着いたのだ。
しかし、実感が全くわかない。本来であれば小躍りの一つでも披露してしまうところなのだが、なにせ、何がどうなって、何をどうして、どれが何して、この状況が生まれたのか、さっぱり覚えていないのだから。
私は頭を抱え、腐った床の上を、悔恨の念に駆られるがまま、転がれるだけ転がり尽くし、そうしてようやく、髪の毛一本程の冷静さを取り戻した。
「ま……まあ。作れたという事実があるのだから、そのうち思い出すこともあるはずだ……!」
後ろ髪を鷲掴みにされながらも、一旦、製法については保留する事にした。
この状態が永続的なものなのか、一時的なものなのか。それは今後時間をかけて観察していく必要はあるが、とにもかくにも、私には<時間>という財貨が舞い込んだわけだ。
まずは自分の状態をきちんと把握しなくては。
先程見て気付いてはいたが、手足は細く、まるで小鹿の様に頼りない。背の丈は比較対象がないので判断がつかないが、恐らく十歳前後頃かと思われる。
服はもはやボロ布と化しており、ズボンに至ってはサイズが合わず、ずり落ちたのか、いつの間にか履いていなかった。大きな上着が女性の着るドレスの様に膝辺りまで届き、辛うじて体を隠していた。
男である以上確認しなければならない事がある。私は上着の裾を軽く摘み、ゆっくり持ち上げた。そこにかつて存在していた大自然は消失し、後には陶器のようにすべらかな大地があるのみだった。
さて。
私は今見たものを忘れ、一度深呼吸をする。
身体の事は分かった。では魔力はどうだろうか。今度は目を閉じ、体に蓄積する魔力に意識を集中する。
纏う魔力は以前と同様に、いや、以前よりも大きくなっている様で、寝所から溢れ出さんばかりだ。
「ほう。これは本格的に可能性が高まったか」
私はある一つの仮説を立てたが、今はそこまで重要ではないので考えるのは後にしよう。
とりあえず、状態の把握は一通り完了した。
次に考えるべきは今後の事だ。
再び手にした時間。それをどう使うのか――。
もし、また魔導の探求に費やすのならば、歴史に名を残す程の魔法使いになれるだろう。もしくは、新たな学問を学び、新たな名声を得て、更なる高みを目指すことも可能だ。十歳から鍛えれば、優れた騎士になることも出来るかもしれない。可能性は無限に広がっている。
私はベッドに目をやった。
変わらず眠り続けるエリーザ。
今なら、諦めていた願いを叶えることが出来るかもしれない。しかし、彼女をまた、私のわがままに付き合わせていいのだろうか……。
彼女はこのまま安らかに眠っていた方が、幸せなのではないか?
“……主様。幾久しくあなたのお傍に…………”
彼女の言葉が頭の中で反芻される。
エリーザはその人生のほとんどを私のために尽くしてくれた。
「私としたことが、何を弱気になっていたのか。エリーザがこのままの方が幸せ? それを決めるのは彼女自身だ。最初から答えなんて決まっていただろうに……」
この体がいつまでもつのかは分からない。だが、その時までは彼女のこれまでの献身に報いよう。
私は枕もとの緋色の石をつかむと、エリーザの胸元にあてがった。
以前の様に魔力を注ぎ込む。以前よりもゆっくりと慎重に。
ピクッ
彼女の体がわずかに動く。
「――主様? ……おはようございます。ここが死後の世界ですか? ひどい有様ですね……」
「おはよう。エリーザ」
私は彼女の目にかかった髪を優しく撫でた。
エリーザはくすぐったそうに目をつむる。
「調子はどうだい?」
「いいと思います。……初めて会った時もこんな会話をしましたね」
彼女はフフッと笑った。
それは初めて見る笑顔だった。
「エリーザ……。今笑ったかい?」
「…………ええ。そうですね。確かに私、今笑いました」
彼女自身心底意外そうな顔をしている。
それもそのはずだ。エリーザは今の体になってから、感情を表現するという事がほとんど出来なかった。
感情が動かないわけではない。しかし、その感情を表現しよう、伝えよう、という思考が全く機能しない。と、以前彼女は言っていた。
一体何がエリーザを変えたのか。考えても全く答えは分からないが、私は心に刺さった棘が一つ抜けたような心地だった。
エリーザは自分の頬を引っ張ったり、表情をいくつも変化させたりしている。恐らく初めての感覚に戸惑っているのだろう。
しかし、その仕草が妙に可笑しくて、私はつい笑ってしまった。
そんな私を見て彼女は、何事かと首を傾げたが、あまりに私が笑うので、つられて笑い出すのだった。
*
ひとしきり笑うとエリーザは起き上がり言った。
「主様、小さくなられましたね。これも死による影響なのでしょうか」
根本的な勘違いを正すのを忘れていた。
「いや、我々は死んではいないさ。ここは私たちの暮らしていた家だ。今は廃屋同然だけども」
何を言っているのか分からないと言いたげな彼女に続けて説明する。
「あの最後の日から、恐らく数十年が経過していると考えられる」
そう考えられる理由はいくつかあった。建物の老朽化の具合や服や紙などの劣化度合はもちろんの事。私の魔力の増量という現象が大きい。
魔力とは生き物が生まれてから、年月を経て徐々に増加していく。その増加量は個々によって差異はあるが、どんな生き物も原理原則は同じである。
私の魔力は以前より増加していた。つまり、私は死を経て生まれ変わったのではなく、年老いた状態から、地続きに今の状態に至り、その間も魔力が増加し続けていたという事だ。
増加の具合からみるに、おおよそ7、80年といった所だろうか。
「私が子供になった原因は未だに不明だが、どうやらその副作用で、これまで眠り続けてしまったのだろう」
「状況は把握致しました。でしたら、今後はお屋敷を修繕し、また以前の様に研究に専念出来るように致しましょう」
「それには及ばないよ」
またしても言っている事が分からない、というように私を見るエリーザ。
「研究はしない」
「……御冗談でしょう?」彼女は心底信じられないという表情を浮かべた。
「冗談ではない。まあ私の事はいい。エリーザは何かやりたい事はないか?」
「私はまた主様に仕えられるのでしたら、他には何もございません」
あまりにも真っすぐにそう言うので、こちらが気恥ずかしい。
「なら私と世界を見て回らないか?」
エリーザは私に仕えていたせいで、この家以外の場所をほとんど見たことがない。私は彼女に広い世界を見せてあげたい。
そして、いつか彼女自身が本当にやりたいと思えることを、見つけて欲しかった。
「世界、ですか?」
「そうだ。世界中を回り、知らないものや、美しいもの、恐ろしいもの。そういったものを一緒に見に行こう」
エリーザは沈黙した。
もしかしたら私と旅をするのは面倒だと思っているのかもしれない。それならば何か別の案を考えなければ。
「……いいのでしょうか?」
彼女は小さな声で確かにそう言った。
「いいとは?」
「主様の旅路に、私なんかが同行してもよろしいのでしょうか」
「いいもなにも、私はエリーザと旅がしたいのだ」
エリーザの瞳から雫が流れた。雪のような肌を流れるそれは、まるで彼女の心の氷が溶けだしているかのように、ゆっくりと絶え間なく流れ続ける。
「私の涙も主様と同じで暖かかったのですね」そういうと彼女は笑った。
丁度雨が上がったのか、寝所の窓から光が差し込む。それがエリーザを背後から優しく照らし、とても神聖なものに思えた。
私はしばらくの間、彼女から目を離すことが出来なかった。
*
旅支度として、私たちはまず、クローゼットを漁り、その中から比較的、服の用途を果たせそうなものを見繕って、着替えることにした。
エリーザはいつもと変わらず、丈の長い紺色の服を身にまとい、腰には色褪せてしまった、黄色の細い帯を巻いた。
着替え終わると彼女は、くるっと体を回転させる。足首まである服の裾がフワッとなびき、とても優雅だ。
問題は私の服だ。当然子供の頃の服はこの家にはない。仕方がないので、シャツの袖、ズボンの裾をそれぞれ短く切り、その口を紐で括ってなんとか着ることが出来た。もちろんぶかぶかで、様になどなるはずがない。
それでもエリーザは「お可愛いです」と何故か、ご満悦の様子だ。
「これから旅をするにあたって、私は正体を隠そうと思う」
私がミハイル・マルキスだと知られると、若返った事について、根掘り葉掘り聞かれ、大変面倒なことになりかねない。出来ることなら穏やかに旅がしたい。
「かしこまりました。それでは主様の事はなんとお呼び致しましょう」
「ふむ……。では、マルスと名乗ることにしよう」
「マルス様ですね。とても凛々しくて、よいお名前かと思います」
「それと表向きは姉弟という事にしようと思うが、嫌ではないか?」
「主様と私が姉弟……。大変よろしいかと思います」
妙な間はあったが、本人が良いと言うのだから、いいだろう。
「そういうことでしたら、主様の口調は少々子供らしくございませんので、年相応の言葉遣いにするのがよろしいかと思います」
彼女の言う事には一理あった。
「僕はマルス。よろしくね!」
私は精一杯の無邪気さを演出してみせた。
彼女は私の頭を撫でながら「大変よろしいかと思います」と言った。
その後もしばらくの間、撫でる手が止まらないので、流石に恥ずかしくなってきた。
「エリーザ。なぜ頭を撫でる」
「姉が弟の頭を撫でるのは当然だからです」
あまりにもきっぱりと言い切るので、私も確かにそうかもしれないと思えてきた。いや。そうだろうか?
「……もういいだろう」
「主様は、何かをなさる時、練習はなさらないのですか?」
「いや……もちろん新しい魔法の修練はするが」
「でしたら姉弟の練習も必要かと思われます」
姉弟の練習という聞きなれない言葉に気を取られ、私は反論する事を忘れてしまった。
「はい。それでは、お姉ちゃんと呼んでみましょうか」
「……お姉ちゃん」
彼女が楽しそうなので、仕方なく、しばらく付き合うことにした。
「マルス? そんな調子だと演技だと見破られてしまいますよ?」
「おねえちゃん」
今度は先程より少し甘えた声で呼ぶ。
「大変結構です。他のパターンも試してみましょう。次は、エリーザ姉さん」
「エリーザ姉さん」
「はい。とても良いです」
彼女の姉弟練習はそれから一時間続いた。
私はかつてここまで消耗した事があっただろうかという程の疲労を感じ、ベッドに倒れこんだ。
しかし、隣に腰かけたエリーザの肌艶が、一時間前より良く見えるのは気のせいだろうか……。