賢者、死す。
「私は恐らく三日ともたないだろう」
いつものようにエリーザと朝食をとっている時の事だった。
突然の言葉に彼女は、なだらかにウェーブした長い髪を揺らしながら顔を上げる。
「自分の事は良くわかる。今日まで本当に迷惑をかけた」
「迷惑だなんておっしゃらないで下さい。私の命をつないでくれたのは主様なのですから、お仕えするのは当然のことです」
彼女と出会ったのはもう20年は前の事だったか――。
私はかつて宮廷魔術師団の長として数十年に渡り国のため尽くしてきた。<賢者>や<深淵に最も近きもの>などと呼ばれていたこともあった。それなりに才能もあったと自負しているし、魔導への探求は欠かしたことがなかった。部下からの信頼もまあ、厚かったと思いたい。
しかし、齢60を過ぎ、老いを感じ始めた頃から、いつまでも自分が師団長という立場に居座っていては、後進の邪魔にしかならないと考えるようになった。
その事を国王へ直訴したが、幾度となく断られた。それでもめげずに事の重要性を滔々と説き続け、ようやく国王が折れたのは、説得を始めて半年は経った頃だった。
というのは表向きの理由である。
宮廷魔術師団はもちろん、国の管理下にある組織であり、好き勝手に魔法や薬品、魔道具などの研究が出来るわけではない。一定以上の危険性を含むものや、人道に反した研究はご法度である。
そんな環境にいては、魔導の探求などとても出来たものではない。
そういった思惑もありはしたが、何はともあれ、私は無事、魔法師団長の任を辞することが出来た。
魔法師団を抜けてからというもの、私は人の住まないような、森の奥地に居を構え、ひっそりと、禁じられていた研究にぼっとする日々を謳歌していた。
幾年が経過しただろうか、その日は滅多にない大雨で、屋根を叩きつける雨音が、まるで石でも投げつけられているのではないかと思う程だった。あまりの音の煩さに辟易しつつも、いつもの様に研究の続きに取り掛かることにした。が、その日に限って、蓄えてあった薬草が戸棚に無いのである。薬草は家の庭で育てているので、取りには行ける。取りには行けるのだが、この雨だ。
わずかに逡巡したが、知識欲の勝ちとなった。
庭までは走れば一分とかからない。外套を着ることも面倒で、そのまま扉を押し開けた。しかし、扉が開かない。外は風も強いのだろうかと考えたが、どうにも何かが扉の外につっかえている。強引に押し開けると、そこには人が倒れているではないか。急いでその人を屋内へ運び込む。書物やらで散らかった床を足で蹴散らしスペースを確保し寝かせた。
既に息は無かった。
死因は、魔獣か何かに襲われたことによる、出血死。体中に咬み傷や刺し傷、切り傷が無数にあるのが確認できた。
森で運悪く魔獣に遭遇し、必死に逃げて逃げて、ようやくたどり着いたこの場所で息絶えてしまったのだろう。
もし今日が大雨でなかったら。あるいは、もう少し早く薬草が無いことに気が付いていたら……。
もちろんこの女性が亡くなったのは私の責任ではない。そんなことは分かりきっていた。が、どうにも胸につかえるものがある。
私はある一つの決断をした。そしてこの決断が正しかったのか、未だに答えは出ていない。
死者の蘇生。
それは未だ叶わぬ未知の事象である。そのことについて専門に研究している魔法使いも少なくはないが、成功したという話は聞いたことがない。
それでも、私は彼女の蘇生を試みることにした。決して感傷の為ではなかった。むしろ逆と言ってもいい。これはまだ見ぬ魔導への探求心と、罪悪感の払拭という限りなく私利のための行為なのだから。
*
分かってはいたが、蘇生は一筋縄ではいかなかった。目覚めては彼女に処置を施し、気が付いたら寝ており、そしてまた目覚めては彼女に処置を施す。そんな生活が数年続いた。
いい加減諦めてしまおうかとも思い始めた頃だった。部屋の隅に転がる緋色の石が目に留まった。それは、以前研究により自作した魔道具に近いもので、この石には魔力を溜めるという性質がある。
突然、私は霹靂に打たれたような強い衝撃を感じた。
そのまま、何かに取り憑かれたかのように石を彼女の心臓のあたりに押し当て、魔力を注ぎ込んだ。
ピクッ。
わずかだが、彼女の指先が動いたように見えた。そのまま魔力を注ぎ込む。
ガタンッ!
彼女の体が跳ねた。私は驚きのあまり手を放してしまった。しばらくは放心してしまい、ただ茫然と彼女を眺めるだけで、数分が経過した。その時だ。彼女の目が開いたのは。
彼女はあたりを見渡すように眼球を左右へ動かし、「……ここは」とかすかな声で言った。
あまりの事態に私は上手く言葉を紡ぐことが出来なかった。
「あっ……。ここ……ここは、ここは家だ」
彼女は体の調子を確かめるかのようにゆっくりとした動きで、まず腕をそして足を動かしている。
「わたし……生きてる?」
この質問に何と答えていいのか私には分からなかった。たしかに死という状態からは脱したようだが、果たして今の彼女は元の人間と同一なのかと問われると、やはり違うものなのだろう。そう、しいて言うなら<アンデット>。
しかし、魔物であるアンデットと彼女はあまりにも性質が違う。恐らく彼女を動かしているのは胸にはめ込まれた緋色の石。それが人間でいうところの心臓。そして石に蓄えられた私の魔力が全身へ送られ、血液の役割を果たしている。そうして彼女は蘇生するに至ったのだと推察する。
「君は生きているよ。普通の人間とは少し違いはあるがね」
私は正直に答えることにした。それがせめてもの贖罪だろう。
「そう……。……あなたが助けてくれたの?」
「そういうことになるだろうな」
彼女はまた「……そう」とだけ呟いて目を閉じた。
再び彼女が目を開けたのは翌日の事だった。
「おはよう。調子はどうだい?」
「おはようございます。いいと思います」
「おなかは減ったりしているかな」
「いいえ」
はたして彼女は食事を必要とするのか。非常に興味をそそられるが、一旦は彼女の回復が先だ。
「起き上がることは出来るかな?」
「できると思います」
そういうと彼女は胴体から折り曲がるように上体を起こした。その起き方はあまりにも歪だった。
「痛いところはないかい?」
「はい。ありません」
「それは良かった。いくつか質問をしてもいいかな?」
「構いません」
「自分の名前は憶えているかい?」
「……エ……エリーザです」絞り出すように記憶を探る彼女。
「エリーザか。いい名前だ。私はミハイル・マルキスという。よろしく」
「よろしくお願いします。マルキスさん」
「辛かったら思い出さなくても構わないのだけど、ここに来るまでの事を覚えているかな」
「………………」
「いいえ、覚えていません」
その後、いくつかの問答を交わしたが、どうやら記憶は不鮮明のようだ。名前や言葉は憶えているが、過去経験したことなどはあまり覚えていないらしい。
このまま街に帰すわけにはいかないため、しばらくは私の家に居てもらうことにした。
意外といっては何だが、彼女は家事の類は完璧にこなしてくれた。私は元来研究以外のことには興味がないため、部屋は常に荒れ放題で、王宮に居た頃には「部屋を片付けるように」と勅令が出たほどである。それが今はどうだろう。エリーザが片付けてくれるおかげで、うっかり薬草を踏んづけて薬品をばら撒く事が無くなったのだ。
何年経っても、彼女の口調は相変わらず堅苦しいものだが、それでもこの家が落ち着ける場所であるという認識はしてくれていそうだ。
最初のころは、研究に没頭するため、1、2年で街にいる知人にでも預けようかと思っていたのだが、気が付けば数十年が経っていたのだから驚きだ。
*
「――主様」
彼女の声で我に返る。
「すまない。ちょっと昔の事を思い出していてな」
「昔ですか。……主様が、半狂乱で森に駆けて行った時は大変驚きました」
「その事を考えていたわけではないが、その事はもう忘れてくれ。後生だ」
ここ数年、年のせいか意識がハッキリしない事が増えてきた。意識を失うのではない。所謂ボケているという状態になるということだ。彼女が話した事件も去年の事で、私の意識がハッキリした時には、森の中、泥と血で汚れた足。そして糞尿に塗れたズボンと真っ裸の上半身という、とてつもない状況だった。後から追ってきたエリーザは何も言わず、薄汚い私を背負うと家へと連れて帰り、文句の一つも言わず、足を洗ってから包帯を巻き、糞尿の処理をし、全身を綺麗に拭いてくれた。
死期が迫ってきて思うことがある。エリーザの事だ。
私は自身の好奇心のため彼女を勝手に蘇生し、人ならざるものにしてしまった。その彼女を一人残して逝くことが怖くてたまらないのだ。
彼女は私のために尽くしてくれた。それなのに私は彼女に何一つ返せていないのだから。
「私はずっと君に謝りたかったんだ。エリーザ。君の意思とは無関係に蘇生してしまったこと、そして、不自由な体にしてしまった事もだ。体の傷だって私にもっと魔法の才と時間さえあれば綺麗にしてあげることが出来たかもしれない。何十年も君を縛っておいて今更と思うかもしれないが、ほんとうにすまなかった」
こんなものは謝罪でも何でもない。ただ許されたいだけの自分勝手な許しの脅迫だ。
表情をかえず私のカップに紅茶のお代わりを注ぐエリーザ。
「主様。私は本当に感謝しているのです。命を救ってくれたことだけではありません。記憶を失った事は確かに悲劇だったのでしょう。それでもこの家で過ごした時間は本当に穏やかで、暖かくて、それも立派な私の記憶なのです。主様は私に新しい記憶をくれました。私の人生は幸せです。こんなにも愛されていたのですから」
「……それに」というと彼女は自分の顔の傷に触れた。
「この傷は主様に助けてもらったという大切な証なのです。消そうだなどとは思わないで下さい」
謝罪したはずが、彼女の言葉で私が救われてしまった。年を取ってからというもの涙脆くていけない。拭っても拭っても涙があふれてくる。
子供の様に泣きじゃくる私を、エリーザは何も言わず抱きしめた。その肌は薄氷のように冷たかったが、それとは逆に、心が温まるのを感じた。
*
「エリーザの胸の石が心臓の代わりを果たしているという話はしたね」
ひとしきり泣いた私は、改めて話し始めた。
「はい。伺っております」
「私が死んでから、恐らく1年間は今のままの生活が続けられるだろう。君は街に行ってもいいし、ここに居たっていい。どうか自分のために時間を使ってほしい。そのための蓄えは十分に用意してある」
テーブルにドスンッと音のする位、中身の詰まった革袋を置いた。
「主様。私の願いを聞いてはもらえないでしょうか」
彼女にお願いをされるのは初めての事で、私は気分が高揚するのを感じた。
「もちろんだとも! 何でも言ってごらん」
「私も、主様の隣で眠りたいのです」
「眠りたいというのは同衾したいということか? それとも……」
その質問の答えなど、たとえ賢者でなくとも察することが出来た。
普段無口で無表情な彼女の顔が、わずかに笑ったように見えたのは、私の心情からくる錯覚なのだろう。
「この身は生まれた時よりずっと。あなたの為にあるのです。たとえ行く先がどこであったとしても私は付いていきますよ。主様」
エリーザの決心は固いようだった。
「分かった。君が望むのならそうしよう」
*
その晩、エリーザを私の寝所へ連れていき、ベッドに横たわらせる。
「本当にいいんだね?」
「もちろんでございます」
私は彼女の胸にある緋色の石に手をかけた。石は彼女の体のように冷たく、彼女とは違い無慈悲な程、無機物。心臓の様に脈を打つこともない。
魔導の探求のためにと、あらゆる犠牲を払い、時には他の生物の命さえもその糧としてきた。神にすがることなどしたこともない。むしろその存在を蔑ろにしていたとさえ思う。
私はきっと地獄に落ちるだろう。それはいい。
……だが、もし神という存在がいるというのなら、どうか聞いてほしい。エリーザは、彼女だけはこちらに連れてこないでくれ。たとえ彼女の願いに反することになろうとも、彼女に慈悲を与えてほしいのだ。
そのためならこの身が永久の業火に焼かれても構わない。
どうか彼女に幸多からんことを。
手に力を込め、ゆっくりと彼女から石を引き抜いてゆく。
「……主様。幾久しくあなたのお傍に…………」
その言葉を最後に彼女は動かぬ躯となった。手にはただの石があるのみ。
私もそのまま、横になった。瞼が強い力で引っ張られているようで、開いていることが出来ない。こんな気持ちで逝けるのであれば、死も悪いものではないのかもしれない。ゆっくりと意識が遠のいていく。
「――あれ? ご飯食べたかの?」
「エリーザ。エリーザ。私はまだご飯食べてないかもしれない! エリーザ。エリーザ」
何度呼んでも彼女は目を覚まさない。寝ているようだ。
「はて。ご飯はどこにあったか」
私はベッドからむくりと起き上がると、部屋中を探した。寝所にはあった蝋燭をかじったが、美味しくない。これはご飯ではないのかもしれない。
寝所を飛び出し、リビングをひっくり返すように探し回ったが、食べ物らしきものは無かった。私は思い出したかのように隣の工房へ向かった。
あるではないか。色とりどりの飲み物と、動物の漬物や野菜の数々が。
「エリーザ! エリーザ! 先に食べているからな!」
声はかけたので、後で怒られることはないだろう。いつもは勝手に食べると叱られてしまうので、寝ている今日は絶好の機会である。
まずは野菜。部屋中にある緑やら紫、赤いものまで、ありとあらゆる草っぽいものを集め食す。中には苦みや刺激の強いものもあるが、年を取ってから癖のある食べ物も好きになっていたので問題ない。それらを、近くにあったドロリとした七色に鈍く光る液体で流し込む。これはなかなか旨い。
メインディッシュは透明な液体の中にある、ネズミの尾から蛇が生えたような謎の生き物の漬物だ。齧り付くと、口の周りには赤黒い液体がべっとりとつき、歯には毛が絡まり食べずらい事この上ない。しかし、蛇の部分だけはプリッとした触感で美味しかった。そしてそれをまた、近くにある青色の液体で流し込む。
数十分食べ続け、部屋は空き巣でもここまでは荒らさないという程に荒れ果てていた。
食べ過ぎたのか気分が悪い。少し横になろう。机の上に散乱したよく分からない紙やらガラスやらを押し退けて、そこに寝転んだ。
「あっ……。エリーザの分、取っておくの忘れとった」
私の意識はそこで途切れた。
*
顔に当たる水滴が鬱陶しく目が覚める。
眼前にはあちらこちらから雨漏りしている屋根が見えた。
だんだんと意識がハッキリしてくる。ああ。まだ死ぬには時間があったのか、安らかに眠ったエリーザを起こすのは忍びないので、あと数日は一人で過ごそう。
それにしても部屋がすごい有様だ。寝ている間に強盗でも入ったのか、床には割れたガラスやら劣化し、変色した紙やらが散らばっている。それに床の板は腐り、所々割れて穴が開いている。
辺りを見渡すと床だけではなく家全体が以前より明らかに老朽化しており、いつ崩れてもおかしくないほどだ。
一旦体を起こし、家を見て回ることにした。ひょいっと体が起き上がる。こんな感覚は数十年ぶりかもしれない。今日はどうやら調子がいいようだ。
歩くたびに抜けそうになる床に注意を払いながら、ゆっくりとリビングへと移動する。そこも工房と同じく壁にはひびが入り、屋根からは雨漏り、蜘蛛の巣のおまけ付きときた。
一体この家に何があったのか、まだ状況が呑み込めていないが、とりあえずエリーザの事が気がかりだ。急いで寝所へ向かおう。駆けだそうと力んだ結果、床が抜け足がはまる。
だんだんと頭にきたが、そこは冷静になるよう努めた。これでも私は賢者なのだから。
足を引き抜くと、違和感に気が付いた。以前より足が小さいのだ。それに皺一つない。まるで子供の足の様に見える。非常に興味はそそられたが、彼女の方が重要だ。今度はゆっくりと忍び足で寝所へ向かう。
色褪せたベッドの上に彼女はいた。以前と変わらない、新雪のような白い肌とゆるくウェーブした白銀の髪。昨日から何も変わらない姿に安堵する。
しかし、寝所もまた老朽化がひどくこのまま彼女を置いておくのは危険かもしれない。一旦別の場所に移そうと、彼女を持ち上げようとするが、うんともすんともいかない。確かに出会ったころに比べれば筋力は低下しているのだし、持ち上がらないのも仕方がない。申し訳ないが引きずることにした。
彼女の脇に手を差し込もうとした時、またも違和感に気が付く。やはり小さいのだ。年を取って縮んだのだろうか、一晩で? そんなはずはないだろう。
私はついに気になって仕方が無くなってしまい、寝所の棚に置いてある手鏡を手にした。鏡は所々錆や腐食で見えずらくなっていたが、自分の顔を確認する位は出来た。
――これが、私?
そこには確かに私の顔が映っていた。ただし、その姿は十代の頃のものだった。