いち
顔に掛けられた冷たい水の感覚に深い眠りから目を覚ます。
そんな感覚で視線を上げると視線の端に淡い桃色の布が見えた。少しテラテラとした布を洋服の裾だと理解して視線と共に顔を上げた。
「あー汚い。さっさと片付けなさいよ!」
綺麗だろうに歪めた顔で言ってくる若い女。
誰だ?
「この能無しが!」
身体が激しく揺れて床に広がる水が頬に当たった。蹴られたのだと理解したのは、男の声がしたからだ。
こっそりと前髪の間からみてみると、女と同じように顔を歪めた若い男がいた。
「こんなのが、我が由緒あるクズス伯爵家の家にいると思ったら寒気がするわ!」
「あぁ、本当だ。父上も入婿の分際で何処の馬の骨かも分からぬ女に手を出すとは!」
二人の言葉に記憶を掘り返してみることにした。
私は、所謂私生児として生まれた。この男女は異母兄妹と言うことだ。
父親の愛人であった母は楽団の踊り子だったらしい。
父親には妊娠も出産も知らせておらず、生まれた私は、孤児院に送られた。この国の王公貴族は魔力の質(因子)なるものが登録されていて、家の外で出来た子供の出生を調べるために数年に一度、孤児院などで魔力測定が行われている。一昨年、五歳になっていた私は、その魔力測定で、この家の当主の子だと判明し国のお節介な政策で引き取られたんだった。
母は、黒髪の美しい踊り子だったらしい。
自由を愛する風の民と呼ばれる芸術楽団の花形だった。
もう死んでしまったが。
楽団は、国中を回る。そんな団員の中、母を失った私は困った存在だったのだろう。
赤子は母が居なくては育たない。なので、育つまで孤児院に捨てられたのだと聞かされた。
其なりに幸せに過ごしていたあの日の魔力測定で未来が変わってしまった。
“生ませた責任もなく放置するような貴族はいらん。”
国王様の余計な一言で私は、引き取られることになった。
魔族特有の変成期真っ只中の私は、人型をした全身紺色の蛇皮に包まれた体をしていた。
「蛇の因子などおぞましい。」
私を見た夫人は言った。
夫人の子供達は美しい羽毛に包まれた体をしていた。
親の因子を継ぐ確率は四割を切るらしい。それなのに伯爵家の子供は見事に夫人の因子を引いた子として生まれた。
父親とか言う生き物の姿はない。
国の政策で出来た家族。家族は私生児を保護、教育する義務があり、子供には権利が生じる。
保護をしても子供が拒否すれば一緒に住む必要もない。
ある程度の資金を与えれば元の孤児院に戻してよしとされている。ほら、やっぱさ、引き取られてもさ、肩身も狭いし、正妻の視線とかイヤだし。
子供が辛い目に合わされないように色々なことが盛り込まれている法律。
私は、孤児院に戻るつもりだった。伯爵家の財産とかいらんし、独り立ちしたかった。
「ラーネポリアの民として使い魔もまだ得ていない子など、孤児院に返してしまいたいけれど、蛇の因子はいずれ龍を生むかもしれません。世間体もあります。お前は今日からこの屋敷の下女として生かして上げましょう。」
イヤだと本音が漏れたら扇で叩かれた。
孤児院でもこんなに強く叩かれたことなどなかった。
頭が揺れた。
けど、怯まずに孤児院に帰りたいと言うと夫人は、側使えに声を掛けて私の首に輪っかを着けさせた。
「今日から私があなたの主人です。逆らうことは許しません。」
私は、もう一度、孤児院に返してと言った。
夫人は顔を引き吊らせて言った。
「物言えぬよう、舌を切り落とします。舌をお出し。」
身体が逆らえなかった。
思えばあの時、舌を切り落とされた時に私の心はポッキリ折れたんだな。
年端もいかない子供を押さえつけて物理的に喋られないようにしてさ、本当に最悪なオバサンだった。
それからの日々は、異母兄妹達の玩具で下女だった。
伯爵家の当主である父親は滅多に帰って来ず、私の存在は無視されていた。入婿って言ってたから仕方ないか。
国の重要なポストにいるそうで、入婿だけど、それはあのオバサンの家がゴリ押しして、頼み込んで結ばれたものだったらしい。二人の仲は覚冷めきっており会話らしい会話はないとも聞いた。
何でも、この伯爵家も由緒だけはあるそうで国としても途絶えさせるのは忍びないと先代の王様が王命を出したらしい。父親は魔物討伐で活躍して子爵の地位を得た元公爵家の三男だったらしい。結構引く手あまたな有望株だった父は、王命に素直に従った。騎士としては尊敬出来る人みたいだけど、父親としては微妙だった。
異母兄妹の誕生日などには贈り物をして帰れる日には晩餐を共にしていたらしい。
子供は好きみたいだけど、オバサンとは話をしているようには見えなかった。オバサンは、滅茶苦茶、父のことを意識してるみたいだったけど。
実母は、少々御股の弛い美人で自由奔放な人だった。
妊娠が発覚した時は候補者が三人はいたみたいで、結局は父親が誰かなんて言わずに死んでしまった。候補者と呼ばれた伯爵以外の男達は私が魔族の血の濃い子供だと知るや否や手を引いた。母は猫科の獣人と妖精族、ホワイトエルフのハーフだったからさぞかし美しい子供が生まれるのだろうと思われていたらしい。ごめんよ。
実父は父親候補者の中では一番高位な男で魔物討伐の祝賀会で出会い結ばれのだと言う。ビジネスライクな関係ではあったが実父は優しくて良い男だったとも聞いた。父親のことになると惚気が始まるので何とも言えないがビジネス?結構愛してたんじゃないのかなって思う。
彼女の言葉の端々に感じるからね。
そんな彼女は今日も吠えている。
そう、亡くなった母親は、側にいるんだよ、今も。