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3 希う


僕の探した少女はもうどこにもいない。

そう、分かっていたのかもしれない。それでも、追いかけざるをえなかった。


幼少期に一緒に暮らした優しい妹にもう一度出会うこと。

ただそれだけが、置き去りにされた僕を支える唯一の原動力だったからだ。




思い出されるのは、金糸の混ざるごく薄い紅茶色の髪。

いつだって妹は新緑の瞳を、甘く煮詰めた林檎のようにとろとろに蕩けさせて僕を覗き込んだ。僕は優しく話をする妹が、僕を心のそこから愛しているといってくれる瞳がとりわけ好きだった。


甘い言葉をかけてくれた少女。退屈だろうに部屋からめったに出ない僕のそばを離れなかった少女。僕にとっては、ただ一人の大切な家族だった。



鬱屈した暗い部屋で、本ばかり読む僕に外のことを色々教えてくれたのも彼女だった。脆弱な体しか持たない自分のふがいなさに、弱音をこぼしたこともあった。


それだって、彼女は慈愛のこもった目で僕を見つめ、手を握って言ってくれた。大丈夫だと。いつかきっと報われる日が来ると。ただそれだけで、僕は、何の根拠もない言葉に縋ることができた。大丈夫、この少女は自分のそばにいてくれる。見捨てないでいてくれる。


覗き込んだ目からは絶対の信頼を自分に傾けてくれていることが分かっていた。妹がいるから大丈夫。甘くとろけた新緑の瞳が僕をいつだって支えてくれていたのだ。僕のたった一人の絶対の味方。



それだけで、僕はあの鬱屈した家で、ひたすら本を読んでいられたのだ。



僕はきっとあの目に魔法をかけられた。


僕を見ながら、過去の自分に向かって叱咤する父。そして出て行ってしまった小さい背中の母。いつも僕を素通りして、己のことばかりを考える親の視線の中にいた。


妹と出会い、人を慈しむということを知った。

妹と出会い、人に大切にされることを知った。思いやることの、かけがいのない思いの美しさに胸が詰まるということを初めて感じた。

妹との生活は、すべてが美しいものだった。

心が、軽くなり、生きることの尊さに初めて触れたような気さえした。



だから、もう一度、あの美しい日々を取り戻したかったのだ。




いや、そうではない。ただもう一度、その目を覗き込んでみたいと、そう思った。

妹と会えなくなって15年が過ぎていた。


手掛けていた仕事も軌道にのって、今なら時間の都合も付く。

人を雇って、探して回って、そして……




*********************************



私は息を乱して走りました。


スカートは翻り、はしたなく足が出てしまいますが、そんなことを気にしている場合ではありません。私が逃げ出した過去の、そう、過去の亡霊が、今まさに追ってきたのです。


あのころの非力な少年の面影はなく、立派な体躯の男性になって。




私は、道具屋の角を曲がり、路地に一歩入り込みました。


貧民街にごく近い場所の路地です。意味もなく道が袋小路になっているような、迷路のような場所。そこには、日々飢えた人々が座り込み、あるいは寝転びながら明日も知れない自分の身を遊ばせるだけの場所でした。


でも、そういった街の暗い部分こそ、私に親しい場所だったのです。


今でこそ、継ぎのないワンピースを着込み、小さな宿屋で住み込みで働いています。小さな店ですが、お上さんにも気に入られ、将来旦那になってくれるであろう人も見つかりました。

でも、小さいころ、母の手に引かれて小さな兄に出会うまでは、このような路地裏こそが私の生きる場所でした。


ものごころつく頃には、物乞いをしていました。乳飲み子にお恵みを。そんな言葉を時折口にして私を抱えて路上で座ることが母の仕事でした。家に帰って小さく暗い部屋の中で、私は母と眠りました。


体が大きくなった頃には、生きるために盗み、他の子供を蹴落として、食べていく術を私は学びました。置き引きはもちろん、バザールで買い物客に交じって平然と食べ物を盗みました。


少し大きくなると、子供でもできるお使いをすることで小金を儲けることを覚えました。なるべく綺麗な服を着て、見様見真似で丁寧に言葉を話すようになりました。大人に媚を売ることも覚えました。教会の喜捨の日に小さなパンをもらうことを覚えました。春をひさぐ女達のところに出入りして、小さなお遣いごとで小金をもらいました。


手が不自由になって働けなくなった母と二人で、小さな部屋でたくさんのことを話しました。母から教わった簡単な計算や文字のおかげで私は人としての少しの尊厳と食い扶持に困らない稼ぎ方を身に付けていきました。


それでも、虫けらでも見るような侮蔑の視線にさらされることにも、理不尽に対して、怒りとあきらめと悔しさを溜め込んで口をつぐむことにも慣れました。


私は知っています。


今日生きていた人間が、次の日には道の端で冷たくなっていることなど、何回も見て知っています。金や地位や能力で命に貴賤が生まれることを知っています。私の生きた半分が作られた場所は、どうしようもないものが吹き溜まった、この場所なのです。




息を整えました。もう、縁を切ったはずの裏路地ですが、こここそが、私の故郷でもあるのです。

しかし、周りはそうは思わなかったようです。


清潔なワンピース。革のブーツを履く足。垢にまみれない肌と、手入れされた長い髪。そして健康そうな若い女の体。


路地裏の数人は、私を見るとどこかへ行ってしまいました。

私が、間違って迷い込んだ街娘にしか見えなかったからでしょう。日向の匂いを嫌うのも路地裏に住む人間の特徴です。つい、こんな場所まで走ってしまいましたが、危険なことも分かっています。暴力的な人間がいなかっただけ、今日はましなのです。


でもいつまでもここにいるわけにはいきません。

夕方にはまた忙しくなります。まだ、買出しの途中です。


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