第207話 忘却
そこは無機質な一室だった。
全面ガラス張りの、言うなれば檻のような部屋。
その上から様々な効果が付与された結界が幾重にも包みこみ、ガラスの部屋の中にある〝それ〟を極めて厳重に管理している様子であった。
「……」
〝それ〟はガラスの部屋の中心で、何もせず佇んでいた。
全身を包む黒い拘束衣の上から幾重ものベルトに縛られ、口には猿轡をはめられている。
更にこの拘束衣には【脱力】等の弱体化の術式が付与されていた。
すなわち〝それ〟が、極めて危険な存在であることの左証である。
――思考も何もかも封じられ、〝それ〟はただ生命活動を続けるだけの肉塊でしかなかった。
愛する人の顔も、目の当たりにした悲劇も、〝カナン〟という自分の名前さえも。
何もかも。何もかも忘れてしまい、感情さえ思い出せない。
愛していた〝誰か〟の姿が残滓のようにちらついても、記憶が戻るほどのきっかけにはなり得ない。
そして、拘束衣の下の胸部には手術痕があった。
その胸の中……心臓の裏に位置する臓器――魔石は、既に摘出された後であった。
「お目覚めのようですな、姫君」
研究者数人と共に現れた黒コートの男――フルムが、カナンに声をかけた。
「……」
しかしカナンの反応はない。
『目覚めた』というのは計測しているバイタリティの情報を見ての事である。
生理的な反応はある。しかしそこに、意思や感情は存在しない。
カナンはほとんど廃人に成り果てていた。
「フルム様、近すぎです。危険です」
「問題ありません。彼女は今、私の支配下にありますから」
「……了解です。お気をつけを」
カナンのすぐ側まで近寄ると、フルムはまじまじと濁った瞳の中を見据える。
「あぁ、私の可愛い娘よ……貴女はこの私に従うべくして造られたのです。この私に、全てを捧げると誓いなさい」
「……」
無言で頷くカナンの身体。
――何故フルムはカナンを生かしたのか。
それは、カナンが死んだ時魔石に何が起こるか未知数であるからでもある。
カナンの体内から摘出された魔石は、ハート型をしたソフィアのものの中に、十字型のカナン本来のものが融合した形となっていたのだ。
最低でもこの二つの魔石を分離するまでは、カナンを殺める事は憚れるのである。
「さて……。完全にカナンの意識を掌握しましたよ、ティマイオス?」
フルムの背後から現れたのは、紫の髪の幼い少女――
コルダータの肉体を乗っ取ったティマイオスであった。
『感謝します。わたしの姿を見て暴れられては困りますからね』
「ははは、礼には及びませんな。私との仲ではありませんか?」
フルムとティマイオスは、人魔大戦からの古い付き合いである。
ティマイオスが『奈落の魔王』の加護を剥奪されてからも、無二の友人として互いに助け合ってきた。
時にフルムは狂信国の〝騎士団〟の一員としての立場も持っている。
今後ティマイオスが世界の覇権を獲った時、フルムはティマイオスの下につくことを良しとしているからだ。
ティマイオスがやがて神性を得るのであれば、一介の魔王であるフルムでは逆立ちしても及ばないであろう。
故に、ティマイオスを神として己は王として世界に君臨するのだ。
それが、フルムの果てない夢である。
「おっと、ついつい話し込んでしまいました。それで……本当によいのですかな? カナンを傀儡にしても?」
『えぇ。彼女の力を得られれば、普人絶滅への大きな一助となりましょう』
「そうですか。まあ私にとっては、邪魔にならないのならカナンは生きていても死んでいてもどちらでも構いませんが」
ティマイオスは見た。
カナンという怪物が、狂信国を滅ぼした災厄のごとき光景を。
あの天災のごとき力を我が物にできるなら、これほどに心強いことはない。
故に、カナンを殺戮兵器として扱うと決めたのだ。
『しかし、本当にカナンを掌握してしまうとは。さすがですね、フルム』
「いやなに、如何に強靭な肉体を持つ怪物でも、精神の核を捕らえてしまえばあとは簡単なものなのですよ」
フルムがカナンに行った事。
それは『すべての記憶の封印』『思考能力の剥奪』そして『全能力を休眠状態とすること』である。
他者の脳や精神に干渉する能力でカナンの心を弄ったのだ。
『願望』
『記憶』
それらを全て消し去ったことで、影魔を召喚する余地すら残されていない。
おーちゃんとの宝玉のような思い出を穢されたならば、カナンは怒り狂い国をひとつふたつ更地に変えるほどに荒ぶるだろう。
だがしかし、怒る感情さえ抑え込まれ、もはや木偶人形に等しい肉の塊となってしまっていた。
「――とはいえ、経過観察は必要でしょうな」
『……ですね』
フルムは用心深い。
彼の精神支配は完璧だが、それでも油断しない。
『今のカナンはあの馬鹿げた膂力も無い年相応の少女です。万が一、暴れるなどすれば即座に撃ち殺しても構いません』
そう研究員たちに告げるティマイオス。
カナンを利用するつもりではあるが、制御できないのであれば即切り捨てるつもりでもあるのだ。
「更なる万が一にも備えて、9番も配置しておきましょう。カナンは友達を傷つけられないですからなぁ?」
『名案ですね』
もしもカナンの記憶が戻る――あるいは、狂暴化するなどしても、〝シオノネ〟ほどの実験体ならばカナンをある程度抑え込む事が可能であろう。
「あとは細かな調整さえすれば、この個体のように従順な人形となりましょう」
かつて『失敗作』として扱われたカナンは、今や産みの親たちをも凌駕する最強の人造複合魔人である。
故に……彼らは知らない。
カナンを御する事は、最愛の少女を除いて不可能であることを。
一見して感情も思考も失せたように見えるが、その心の最奥では未だにどす黒い感情が沸きだしていることを。
そして、カナンの意思という枷と影魔という栓が無くなった事。
それは、この世界を滅ぼさんとする、カナンの中の神の破片が、大きく、歪に、冒涜的に、蠢き始めようとしているのであった。
やがて世界へ災禍を招き、そして誰もいなくなるまで。
カナンというバケモノは、何者にも支配される事はない。




