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ひえた毒/中



 その日は妙に蒸し暑い晩だった。

 俺は八田みやこの部屋に居た。

 空気の入れ替えで開けた窓の網戸を通して、初秋の夜気がはいってくる。これがちっとも涼しくない。空気は生ぬるく、俺は「クーラーつけよう」と窓を閉めた。閉める直前。線香の匂いが微かに漂ってきた。

 八田みやこのアパートは寺の真裏に位置している。初めて来た時はぎょっとした。

 俺は寺だの神社だのが得意じゃあない。けれど別に窓から墓が見えるわけでもなし。家賃も安いから住んでいると言う。

 まあ閻魔えんまさまに舌をぬかれるくらい悪いことをしているわけでもなく、俺もすぐに慣れっこになった。

 え? 部屋でなにをしていたかって? そんなん聞くってのは、野暮やぼってもんだ。恋人同士として、まあ、すべき事をしていただけだ。



 俺はベットに横たわる八田みやこにぴたりと寄り添った。八田みやこは体温がひくい。くっついても不快じゃあない。気持ち良いくらいだ。俺は八田みやこのぺっちゃんこの腹に、頭をもたせかけた。

 そんな俺の頭を八田みやこは、すりすりと撫で回す。

 これは彼女の癖だ。いつも暇さえあれば頭を撫でる。そうされると俺は八田みやこに飼われている犬っころにでもなった気持ちになってくる。

 幸せだ。とろけちまう。思わず喉を鳴らしたくなる。

 ってえことは、犬っころではなく、にゃんこだな。

 俺がどうでもいいくだらない事を考えていると、八田みやこが唐突とうとつに言った。


「そろそろ結婚しましょう」

 お願いでも、疑問形でもない。

 きっぱりとした口調であった。

 俺は、「ん? んん?」びっくり仰天して八田みやこの顔を覗き込んだ。そうしてからすぐにも、素知らぬふりで目を背そむけた。

 見なければ良かった。

 甘い睦言むつごとなんかではない。八田みやこはその口調の通りの、真面目くさった目つきをしていた。


 俺は恋人としての八田みやこを好いていた。

 多分もうちっと美人じゃなくて。胸だってちいさくても好きになっていたと思う。

 大人になって優しくされるってのは、なかなかある事じゃあない。優しくされると、好いた気持ちが増してくる。

 俺は決して遊び半分で付き合っていたわけじゃあない。

 だからといってこんなにもすぐ、結婚話しにまでいくとは、正直思ってもいなかったのだ。


 くどいようだが、俺は稼ぎが良くない。

 おまけに修行中だ。

 師匠の窯から独立できる目処めどなんて、どこにもたっていない。

 俺のうえにごろんごろんいる兄弟子たちで、嫁さんもちは一人もいない。下っ端もしたの俺が、いの一番に嫁をもらうなんて、体裁ていさいが悪くって仕方がない。

 だからといってこの時の俺には、すぐさま八田みやこと別れる気もなかった。だから有耶無耶うやむやにした。

 いっそこの時結婚話しをすぱっと断っていたら、後々揉めやしなかったのかもしれない。


 後悔先に立たずである。


 俺は八田みやこの「結婚話し」を徹底的にはぐらかした。

 しかしそのくらいで八田みやこは引き下がりはしなかった。

 その次に無視をした。

 すると事態は悪化した。

 八田みやこが怒ったのだ。怒ったおんなはおっかない。

 それが美人とくれば更に怖い。

 とうとう俺は情けない自分の現状を、八田みやこにぶつけた。結婚したい。したくないではないのだ。

 今の俺に家族を持てる、甲斐性かいしょうはない。そう告げた。

 もしかしてこれで、八田みやこに呆れられて捨てられるかもしれぬ。そう思うと当時の俺は、それだけで泣きたい心持ちだった。

 甘いぞ、俺。大あまだ。

 八田みやこはそんな事、百も承知で結婚を迫っていたんだ。


「あら。そんなこと大丈夫」

 八田みやこはあっさり言うと微笑んだ。

 怒りも呆れもない。

 切れ長のまなじりをきゅっとあげて、菩薩ぼさつさまのように笑うのだ。それがどうにも俺にはおっかなく思えた。

 心んなかで何故なのか、(みやじさん。みやじさん)と二度ばかり兄弟子の名をとなえた。無論それで宮地さんが颯爽さっそうと助けに来てくれたわけではない。


 八田みやこは俺の手を握ると、「そんなこと。浩平くんは気にする必要ない」

 そう言った。

 今更ながら浩平くんは俺の名だ。


「そりゃあ一番いいのは浩平くんが、我が家を継いでくれる事だけど、そこまで無理は言わない。浩平くんが陶芸家を目指していのは知っているから」


 つぐ? つぐって何を?

 俺の疑問をよそに、八田みやこは晴れ晴れとした顔で話しを進める。


「父はまだぴんしゃんしてるし、うちには小僧たちもたくさんいる。だから浩平くんは好きな陶芸の道を進んでくれて構わない。但し私たちの子供には立派なお坊さんになってもらうけど」


「ぼうずう?」


 なんのこっちゃ。

 俺は頓狂とんきょな声を張り上げた。


 ※ ※ ※


「つまり、なんだ」


 工房に出勤した俺は、朝一で宮地さんを捕まえた。

 昼休みまで、とてもじゃないが待てなかった。

 俺はプレハブの粘土置き場で、昨夜の驚きの展開をとつとつと語った。

 誰でもいい。

 聞いて助言を与えて欲しかった。

 但し「たけ田」の常連連中は駄目だ。源さんを筆頭に、すっかり八田みやこ贔屓になっているからだ。


「彼女は結婚して実家の寺を継いで欲しいってわけか」

「へえ、そうなんです……」


 肩を落とした俺に、宮地さんは、「いいじゃあねえか」無責任にもそう言うと、くわえ煙草に火を灯した。

 工房内で喫煙は厳禁だ。

 煙草飲みはここで、師匠の目を盗んでこっそり吸う。


「……本気で言ってるんですか?」

 俺は宮地さんの反応が不満で口を尖らせた。


「陶芸は止めなくってもいい。稼ぎは嫁さんがけ負う。しかもなんだ? そのアパートも寺のものだっていうんだろう? だとしたら家賃だけでも相当な収入だよなあ。しかもお前は女を好いている。それでどこが一体駄目なんだ。俺にはちっとも分からねえ」

「……はあ」


 言い返せない。

 全くもってそうなのだ。

 俺は八田みやこを好いている。問題ねえ。

 陶芸を諦めろと言われない。問題ねえ。

 八田みやこの住むアパートは裏の寺(ここが実家だと、俺は昨夜初めて知った)の持ち物だった。建ってる土地も寺のもの。つまり丸まる八田みやこの実家の持ち物だったわけだ。家賃はただみたいなもん。つまり経済面も問題ねえ。


「そりゃあ、のるっきゃないだろう。お前さんざん俺に、のろけていたじゃあねえか」

 そう語る宮地さんの目が若干じゃっかん怖い。

 そういえば宮地さんはここしばらく恋人がいない。俺は知らず知らずのうちに、兄弟子の地雷を踏みまくっていたのかもしれない。


「のろけてなんかいないですって」

「いや。してた」

 矢張りそうだ。

 宮地さんはきっぱりと言うと、吸いかけの煙草をふところから出した携帯灰皿へ押し付けた。


「しろ。しろ。結婚して婿むこへはいれ」

 それだけ言うときびすを返し、工房へと戻って行く。

 俺は慌ててその後を追った。

 工房では出勤してきた職人たちが、粘土をねたり、器に絵付けを始めている。下っ端の俺は項垂うなだれたまま、皆の茶をれにお勝手にまわった。

 宮地さんは知らんふりを決め込んでいる。

 

 いいことなんざ、ないんです。

 俺は胸のうちでこっそりと呟いた。


 確かに表向きは問題ない。八田みやこ本人に不満だってない。

 だがゆずれないことがある。


 俺は寺だの神社だのが、大の苦手なのだ。


 ※ ※ ※


 子供の頃。

 母方の田舎の爺ちゃん家に、夏になると遊びに行った。

 爺ちゃんの家の近くには、草ぼうぼうの廃寺があった。

 決まってここで従兄弟いとこやら。遠くてつながりも分からない親戚の子らと遊び回った。


 まっ昼間の寺は怖くない。

 墓だって、にょきにょき立っている消火栓しょうかせんみたいなもんだ。大体火でぼおぼおと焼かれて、墓に入っているのは真っ白くなった骨だけだ。骨なんか怖いもんか。だってお前らケンタッキーフライドチキンを喰ってでてくる骨が怖いか? 恐かあないだろ? おんなじだ。


 今考えてみれば全く合点がてんのいかない説明だが、ちびの俺にそう言ったのは従兄弟のみのるくんだった。

 俺は根が単純なもんだから、年上の従兄弟の言葉は絶対だった。母さんのお小言こごとよりも絶対だ。

 神聖な男同士の絆ってやつを、ちびの頃から感じていた。

 寺は俺らの遊び場だった。

 そのままだったら。俺は寺も神社も怖がらなかった。

 八田みやこの寺に、すんなり婿入りだってできただろう。


 あの夏の日。

 俺たちは寺にあるどでかい池で、蛙やらおたまじゃくしを取っていた。

 夢中になった俺は、蛙をたもですくおうとして足を滑らせた。そのまんま。池へとざぶんだ。

 それだけだったら笑い話しだ。

 しかしこの池、手入れはされずに水草だらけで、やたら深いときたもんだ。

 水はぬめぬめしていて気味悪い。

 夏の真っ青の空のしたで、なんでか池の水は黒く見えた。

 半ズボンからにょっきりでた俺の足に、水中で絡みつくもんがあった。

 あれは多分水草なんだと思うのだが、ちびの俺がそんな冷静な判断を下せるわけがない。

 いたずらに腕を振り回しては、ぎゃあぎゃあ騒ぐ俺の姿に、最初は面白がっていた仲間たちも段々と蒼白そうはくになっていった。

 なにせ俺が白目をいて叫んだからだ。


「なんかいる! 俺の足を引っぱっている!」

 それからはもう、蜂の巣を突く騒ぎとなった。

 結局は畑帰りで通りかかったおっちゃんが、騒ぎを聞きつけて助けてくれた。

 しかし話しはこれで終わらない。

 青色吐息あおいろといきで引き上げられた俺の躯には、恐ろしいもんがくっついていた。



 そいつは地縛霊じばくれいでも河童でもない。

 正真正銘。生きていた。

 生きて俺の生血を啜っていた。



 そいつらの姿を見て、悲鳴をあげたのは俺じゃあない。憧れの稔兄ちゃんが一番甲高い叫び声をあげた。

 逆に俺は無言だった。声さえあげられなかったんだ。

 俺の剥き出しの手足に、無数に吸い付いてるそいつら。

 俺はすぐにもそいつらはがしたかった。

 けれど怖くて手がでない。

 震える俺を尻目に、引き上げてくれたおっちゃんは「おお。でっけえ」

 暢気にそう言うと煙草に火をつけた。

 そんでもって煙草の火をそいつらに、じゅっと押し付けたんだ。途端俺からころんと剥がれたそいつらは、俺の血を吸ってまるく盛り上がったヒルだった。



「〜〜〜〜!!」

 声にならない叫びをあげて。

 とうとう俺はばったと倒れちまった。その後の記憶はあまりない。



 ※ ※ ※


 以来俺は寺が嫌いだ。

 池や川辺に近づくと鳥肌がたつ。所謂いわゆるトラウマってやつだ。

 それなのに八田みやこは寺の婿になれと言う。しかも八田みやこの寺には、でっかい蓮池はすいけがあるという。


 無理無理無理ムリ。

 絶対無理だ。

 こうして俺と八田みやこの仲は急速に悪化していった。

 誰にも理解してもらえない。

 恋人の八田みやこは、おっかない顔しかしなくなった。

 結婚してくれ。結婚だと迫ってくる。俺はそんな八田みやこから逃げ回る。

 宮地さんは相談しても「うぜえ」としか言わない。

 心身ともに疲れきった俺のつくる器に、とうとう師匠はきれた。

「しゃきっとできなきゃ、やめちまえ!!」

 夢にはでっかいヒルがでる。もうイヤだ。


 二進にっち三進さっちもいかなくなった俺は、先週一方的に別れ話しをきりだした。

 八田みやこは「うん」とは言わなかった。

 けれど俺はもう駄目だ。寺は絶対駄目だと叫んで、八田みやこの前から逃走した。

 これが事の顛末てんまつだ。


 



こどもの頃。母方の祖父の家に遊びに行くと、池や小川にはヒルがいました。ひょえ〜〜〜となります。ヒルに煙草の火を押し付けてころんと落とすのは、祖父がしていた事です。良い子はゼッタイ真似しちゃいけません。病院へ行きましょう。

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