ひえた毒/前
ろくろを廻す。
灰色の粘土が指の間で、くるくると回転する。
理想的な円を思い浮かべて、指先に神経を集中する。
水分を充分に含んだ粘土は柔らかく、うえへ向かってみょおおんと伸びていく。
毎度思うことなのだが、生き物のようである。ながく伸びた口はまるく空き、そこにぽっかりとうすい闇がある。闇を広げるべく力加減に気をつけて、両の指を這わせる。
途端。
うす闇の向こうから聞こえぬはずの声が聞こえてくる。
声はおんなのものだ。間違いない。
俺は声の正体を知っている。
やわらかな。
それでいて意志の強さを奥底に秘めた声は、先週別れた八田 みやこの声である。
※ ※ ※
八田みやことは馴染みの飲み屋で出会った。
腰のまがった婆さんがひとりで切り盛りしている店で、「たけ田」という。
カウンター席しかなく、一見の客は滅多に来ない。
お高いからではない。
店がぼろいからだ。
換気扇をまわしても、魚を炭火で焼くと、煙は店内にもうもうと充満する。すると常連客は心得たもので、さっと窓と共に入り口の引き戸を開ける。
冬など寒くてやりきれない。
その日は常連客の源さんが、ほっけを頼んで窓を開けた。入り口近くに陣取っていた俺は、催促される前に戸を開けた。
そこにいたのが八田みやこであった。
初めて見る顔で、俺を含めた客3人は、皆彼女に注目した。
なんでかって?
若くて美人だったからだ。
初対面で女の性格なんて分かりはしない。
けれど若くて奇麗であれば、それだけで眺める価値は充分ある。
二十代の俺と。七十をこえている源さんと。三十代で自称心は少年のけいちゃん。
男たちの厚かましい視線など歯牙にもかけず、八田みやこはハイヒールの音も軽やかに入って来た。
男に見られる事なんて慣れっこですから。全身から漂う美人オーラが無言で俺らに告げてくる。
この時の俺は 彼女の名はまだ知らぬ。
だが、ただの女と言うのはいかにも味気ない。
八田みやこは、どこまでいっても八田みやこなのだ。
狭い店の、狭いカウンター。それでも席は空いている。
それなのに八田みやこが迷わず腰かけたのは俺の隣だった。ちょっと躯を動かしたら、肩と肩がくっつきそうになる距離だ。
源さんとけいちゃんが、無言で(連れ?)と聞いてくる。
言葉に出さないで目で語るというやつだ。
俺は急いで頭を振った。あんまり勢いよく振ったもんだから、八田みやこがくすりと笑った。
笑うと美人が可愛くなった。
俺は至近距離で見た彼女の笑顔に顔を赤らめた。
その日から、八田みやこは時折「たけ田」へと現れた。
それがまた確実に俺が来ている日だ。まるで狙い定めて来るようだ。
常連さん達は面白可笑しく騒ぎ立てた。
「きっとどこかで惚れらたんだよ」
けいちゃんが、したり顔でそう言う。
けいちゃんは店の近くで酒屋を営んでいる。「たけ田」に配達しちゃあ、そのまま飲んで帰るもんだから奥さんに毎度怒られる始末だ。
「お得意さんのお嬢さんとか。そんなんじゃねえの」
源さんが推測する。
しかし源さんの言葉に、俺は頭を捻る一方だ。
俺はしがない職人だ。
ぱっとしない美大の工芸課程を卒業して、今は師匠の窯で修行をしている。
下っ端のした。
工房には兄弟子しかいない。
給料は大学時代のバイト代より安いくらいだ。奇麗な女に惚れられる要素はひとつもない。
「けどよ。六角窯は、喫茶店とか料亭とかに出入りしているじゃあねえか」
源さんはあくまで持論を押し通すつもりらしい。
確かに師匠の六角窯は地元では、そこそこ有名だ。
濃い藍色に、とろりとした釉薬のかけられた大皿などは、ことの他人気で老舗の料亭なんかにも収めている。ご贔屓さんも多い。
けど俺はもっぱら雑用をこなすだけで、いわゆる大店の女将さんだのお嬢さんだのと顔を合わせる機会はない。そういうのは師匠か、さもなければ弟子のなかでもいっとう上の宮地さんの役目だ。
だからいくら周りで騒がれたって、俺は八田みやこと恋仲になるなんて、だいそれた事は考えやしなかった。
※ ※ ※
それがどうだ。
初めて顔を合わせてから一月後。
俺は八田みやこから告白された。
俺は「たけ田」でビールを飲んで、八田みやこは冷えた日本酒を飲んでいた。八田みやこはいつも日本酒だ。決まって二合飲むと席をたつ。
ところがその夜は違った。
八田みやこは追加を頼んだ。
店には俺達以外は「たけ田」の婆さんがいるだけだ。
八田みやこは酒に口をつけると、くいっとあおった。
白い喉元を見せつけるような飲み方だった。
俺は知らず生唾を飲み込んだ。
黄色い電球のひかりの下でも、八田みやこの喉は白く艶かしい。あの膚に触れてみたいと刹那に思った。
するとそんな俺の考えが伝わったかのように、八田みやこがカウンターのうえの俺の掌にそっと触れてきた。
そんなこと初めてだ。
心底驚いていると、つつっと躯をよせてくる。
「どうしたんすか?」
思わず阿呆みたいなことを聞いてしまった。
八田みやこはふふっと笑うと俺の耳元で、「でませんか?」と囁やく。
「でも酒が……まだ」
八田みやこのガラスの徳利には、たっぷり酒が残っている。もっとマシなこと言えよ、俺。これじゃあ貧乏性丸出しだと、内心焦る。あせりながら、「いや、そのう……」
俺が言い淀むと、「ええそうね」
そう言って八田みやこはすいすい盃を重ねていく。
驚くほど見事な飲みっぷりであった。源さんがいたら拍手喝采であったろう。飲んでいる間、俺の掌に重ねられた、ほっそりとした手はそのままだった。
俺は八田みやこに手を握られたまま店を出た。
手が熱い。
ついでに顔も熱い。今の俺はきっと茹でタコみたいな顔をしている。
どこもかしこも、あっちくてたまらない。そんな俺の隣で、八田みやこは優雅に微笑んでいる。
「ど、どこ行くんすか?」
残暑の残る夏の夜。
俺の半袖からでた腕に、八田みやこのこれまた素肌の腕が時折触れる。そのたんびに心臓が跳ね上がる。
柔らけえ。やわらけえ。頭がそれだけでもう一杯いっぱいだ。
「静かで、いっぱいお話しできるところ」
八田みやこはいたって冷静だ。俺ばかりが焦っているみたいだ。
「はあ……」
「いやなの?」
「いえ、全然! ちっともイヤじゃないっす」
「じゃあ、よかった」
空にはぽっかりお月さんが浮かんでいる。まんまるで、やたらまっ黄色いお月さんが照らす夜道を、俺たちは手を繋いだまま歩いた。心臓の音がうざい。頭のなかがカッカしてくる。葉をざくざく茂らせた桜の下で、八田みやこが立ち止まった。気がつくと夜の公園だ。あたりは真っ暗。誰もいない。
八田みやこが俺の胸にそっともたれかかってくる。なんだどうした。目眩か。動悸息切れか。いや、酔っぱらって吐きたいとか? あたふたしていると、「ぎゅっと抱きしめて」不満げに八田みやこがそう言った。
自慢じゃないが、そんな注文だされたのは生まれて初めてだ。
「はいっ!!」
俺の馬鹿でっけえ声が公園のなかに響き渡った。腕のなかで、八田みやこが「ふふっ」と笑う。生あたたかな風がざあっと吹いてきて、頭上の桜の葉を揺らす。俺は阿呆みてえにそいつをキッと睨んでいた。そうでもしていないと、理性も平常心もどこぞに吹っ飛んでいきそうだったからだ。
だが心配などナニひとつなかった。
その夜。俺らは、抜き差しならぬ関係となった。
それからの俺は有頂天であった。
恋人など当分できないものだと思っていたからだ。
それがどうだ。人生って結構いいこともあるもんだ。
そんなふわっふわな考えでろくろを廻していると、師匠から背なかを蹴られる。
俺の顔は脂下がり、実にみっともないというのだ。しかもそれが器にでる。こんな品のないもんをどうするんだと怒られる。
怒られてもどうにもできない。
なにせ我が世の春である。
それでも師匠に説教されるのは勘弁願いたい。
昼休み。
兄弟子の宮地さんに相談する事にした。
宮地さんは、焼きそばパンを食べながら牛乳を飲んでいた。
マズイのか、眉間の皺が深い。そんな顔で食べられたら焼きそばパンも肩身がせまいだろう。だのに「マズイんすか?」と聞くと、「いんや。うめえ」と言う。
わけが分からない。
この頃宮地さんは、ちっとばかり情緒不安定だった。情緒不安定ってのは、俺が言ったわけじゃあねえ。師匠が言ってたのを、小耳にはさんだのだ。
宮地さんは背が高い。190センチの長身で背中をぐっと丸めて、ろくろを廻す後ろ姿は迫力がある。甘い感じのハンサムじゃあないけれど、渋くて、おまけに腕っぷしが強い。言う事やる事に一本筋が通っている。男の俺から見ても「かっけえ」と思える。師匠にも一目おかれている。俺の憧れの兄弟子だ。
「あにいに、相談があるんすよ」
俺は仏頂面の宮地さんの隣に腰をかけた。
「相談?」
「これっす」
俺は小指をたててみせた。へへ、いっぺんやってみたかったんだ。
「へえ? 女か」
宮地さんが面白そうに口の端をまげる。
「そうっす」
俺は懐から八田みやこの写真を取り出すと、宮地さんへ渡した。
「恋人ができたんす」
「……美人だな」
俺が渡した写真を見ながら、宮地さんは二個目の焼きそばパンを、もしゃりもしゃりと食べていく。
「黒髪ってのはいい」
「そうでしょう」
俺は大いに同意する。脱色している髪と違って、八田みやこの長い黒髪に指先を這わせると、つるりとした感触を楽しめる。
「おまけに胸がでけえ」
「そうなんす」
痩せている割に、確かに胸は立派である。
これもまたいい。
「しかし怖い面あ、してるな」
顔をしかめてそう言うと、宮地さんは一気にパンを口に押し込んだ。
俺はちょっとびっくりして、「え? そうっすか?」
宮地さんの指先で、ぴんと摘まれている写真を覗き込んだ。そこでは八田みやこが、うっすらと微笑んでいる。
迫力のある美人ってことだろうか。
俺が聞くと、宮地さんはむむうと唸った。唸りながら俺の弁当箱の出し巻たまごを勝手に摘む。弁当は八田みやこの手作りだ。
ガスの配管事務所で経理をしているという八田みやこは毎朝俺のアパートに、「ついでだから」と弁当を届けてくれる。これには感謝感激であった。
美人で胸がでかくて、おまけに優しい。そりゃあ脂下がるなって方が無理ってもんだ。しかし怖いとはどういうわけか。
食い下がる俺に宮地さんは、「切れ長の」そう言って写真の顔を、指先で叩いた。
「この目が怖え」
宮地さんは俺より一回り以上年上で、俺くらいの頃は、そりゃあもう遊んでいたそうだ。そんな宮地さんの忠告を、俺はもっとよく聞くべきだったのだ。おまけに肝心要の相談の方もコロっと忘れちまった。それからも師匠には連日しぼられる。
だが俺にとっては初めての恋人。浮かれたバラ色の日々。
頭に血が上っている俺は、宮地さんの意見を聞き流した。師匠の説教もどこ吹く風だ。
俺が八田みやこの本当の怖さに気がついたのは、しばらくしてからの事だった。