第07話 傷跡
メイド服を着た女が、扉の前にひっそりと立っていた。
ルナと同じ銀色の髪だと一瞬思ったけれど、よくみるとそれは薄い水色のようだった。
彼女は静かにベッドの傍に近づいた。
「お目覚めになられたのですね。お体はいかがでしょうか」
そう抑揚のない声で言った。
何があった。ここはどこだ。この子は一体……。
……そうだ。……だんだん思い出してきた。……おれは……。
おれは仮面の女に腹を切られて倒れたはずだ。
――と、そこまで思い出し、不自然なことに気がついた。
痛みがない。なんの違和感もない。掌で腹をさすってみたが、全く問題がなさそうだ。思えば肩にも激しい痛みがあったが、今はそれも治っている。
「――ルナ」
それからルナのことを思い出した。
体がじっと熱くなる。脳が覚醒してゆくのを感じる。
ともかく状況を確認しなくては。
「あなたは?」
「当家使用人のレビア・エイルフォンと申します」
彼女のその無表情は雪のように白い肌とあいまって、ひどく生気のないように見えた。
「あの、ここはどこなんでしょうか。どうしておれはここに?」
「ここはオルハルト家の屋敷の一室でございます。本日の早朝、人が倒れていると領民から知らせを受け、領主ナレード・オルハルト様のご判断により保護されました」
オルハルト? 領主? 保護?
次々と疑問が湧いたが、今は捨ておく。
「おれと一緒に女の子が倒れていませんでしたか」
「はい。貴方とともに保護され、今は別室で眠っております」
「ルナは……、あの子は大丈夫なんでしょうか」
「数日間安静にする必要がありますが、心配するようなものではないと聞いております」
良かった――と大きく息を吐いた。力がすっと抜けていく。
何が何やら分からないが、とりあえず危機は去った。そう思えた。
メイド服の少女が部屋のすみにあったテーブルに近づいた。
その上に置いてあったガラス瓶を両手に持った。
「お水です。お飲みになりますか」
おれはすぐに「はい」と答えた。
安心したせいか、喉が乾いていたことにようやく気がついた。
とくとくと小気味良い音を立てながら、グラスに水を注いだ。
グラスを受け取り、ゆっくりと水を口に含んだ。乾いていた体が潤っていく。
力が蘇ってくる感じがした。
「まだ飲まれますか?」
彼女が表情を変えずにじっとおれを見ている。
ふいに緑色の瞳と目線が合った。
――あれ、なんだろう。
ふと奇妙な感覚がしたが、すぐに違和感は消えてしまった。
「いえ、大丈夫です」
彼女はおれからグラスを受け取ってテーブルの上へそっと置いた。
「それではナレード様を呼んでまいります。この部屋の中でお待ちください」
彼女はそう言うとくるりと振り返り、そのまま部屋を出ていった。
「ナレードって、おれとルナを助けてくれた人だよな」
領主と言っていただろうか。領主。何となくピンと来ない。
なんだか普段耳にする言葉じゃない気がするというか……。
まあ考えても仕方がないか。
おれはベッドから降りカーテンを開いた。
夕陽色に染まりはじめた空が見える。
緑の芝が敷き詰められた庭があって、遠くに塀が見えた。ずいぶん広い庭だ。
にしても、夕方か。
さっきの子は今日の朝おれを保護したと言っていた。
あの場所に何日も放置されるわけがないから、保護されたのは倒れた直後のことだと思う。つまりおれは半日ほど眠り続けていたらしい。
カーテンを元に戻し、次に体を見た。
いまさらだが、黒い革服から薄いベージュの服へ着替えさせられている。
服をめくって腹の部分を確認した。
傷の跡がある。赤みを帯びていて少しえぐれている。
触ってみる。痛くはない。ただ指先に傷跡の感触がしただけだ。
たった半日で治った?
そんな傷じゃなかった。それこそ死んでもおかしくないような――。
トントンとノックの音がした。
おれは服を直し、扉へ向く。
返事をすると、音を立てて扉が開いた。
歳を取った男が入ってきて、おれを見るなり、
「おお、これはよくぞご無事で」
と言った。
灰色のうねりの強い髪。眉間と目元に深いしわがある。面長で、鼻の大きさに比べ口と目が小さいのが印象的だった。
模様の入った高級感のある服を着ているのを見て、多分この人がナレードという人なんだろうと思った。
その後ろには、さっきの子が静かに佇んでいる。
「ナレード・オルハルトです。レビアから事情は聞きましたかな」
「えぇ。助けていただきありがとうございました」
「いえ、我々は何もしておりません。ただ貴方をここへ搬送しただけです。さあどうぞ頭をお上げください。――さて、体の具合がよろしければお話を聞かせていただけますかな。病み上がりで立ち話も大変でしょう。そこへお掛けください」
言われるまま壁際にあった木製の椅子を手前に動かし、そこへ座った。
ナレードさんも椅子へ腰を落とす。座って話すにしては互いの距離が妙にあり、少し変な形だった。
ナレードさんの顔を見る。
彼はおれが話し始めるのを待っているように見えた。
まずは例の問題を話さなければ。
追い出されたりしないだろうか、とちょっと不安になる。
だが言わないわけにはいかないだろう。
「前もってお伝えしておきます。おれには、記憶がありません」
「記憶が……?」
「はい。昨日の夜、見知らぬ森で目が覚めました。それ以前の記憶がありません。ですので自分が誰なのかも分からない状態です」
「まさかそんなことが……」
一瞬、ナレードさんの左の眉がびくびくと痙攣したように見えた。
眉間の皺を深くして、ねっとりとおれの体を見ている。
「ご自分の名前や住んでいた場所も分からないのですか?」
はい、と返す。
「まさかご自分がセンドウシであることもお忘れに?」
「センドウシ?」
小さな目を見開き顔をびくりと跳ねた。
「……ああ、なんということだ」
そう呟いた。