最終話 そして、まだ見ぬ明日へ
月――。
目を覚ましたとき、柔らかな輝きが夜の中に浮かんでいた。
ぼんやりとそれを眺めていると、どこか遠くから、リイリイリイと虫の声が聞こえていたことに気がついた。
体をゆっくりと起こした。ここはどうやら森のようだ。
長く縦に伸びた影、よろよろと曲がった影、斜めに伸びた影、細い影、太い影。
それらが幾重にも重なり、奥の暗黒まで続いている。
――夢を見た気がする。だが内容は忘れてしまった。
体へ目線を落とす。所々が破れた黒っぽい革の服を着ていた。
破れたところから、おれの青白い皮膚が見えた。黒い模様のような線がいくつも走っている。
――そうか。そういえば、おれ、魔王だったなぁ。
そう思った時、色々なことを思い出した。
ザリオルで夢を見た時、おれは全てを思い出した。
古代文字が読めたこと、異常な回復力。これは魔人の知識と力。
退魔の力と、人間の肉体。これはクロノの残したものだ。
退魔の力を使い切り、魔人の力を使い過ぎたおれは、ついに魔王の姿になってしまったというわけだ。
あの後、おれはザリオルから北へ向かい、広い森に降り立った。
森を封印し、自分の力が外に漏れないようにした。
そうしないと、次から次へとおれの力に惹かれた魔族が来てしまうからだ。それはつまり魔族の活動を意味する。
おれがこうしてここにいれば、奴らはきっと大人しくなるだろう。
魔王の力か。嫌な力だ。
でも、まあいいか。たぶんこの力が、ルナの中に眠る魔族の血を引き寄せ、ああして出会うことができたわけだし。
――ルナ。
心にひどい痛みがあった。
魔王の体になったおかげなのか、何も考えずに、記憶を凍らせ、心を殺し、何日もずっと同じ体勢でいることができた。
久しぶりにルナのことを思い出したのは、あの満月を見たからだろうか。
月を見上げる。
すると何故だか涙がこぼれた。
おれは声を出しながら子供のように泣いた。
こんな体になっても、その声は人間のままだった。
諦めたわけじゃない。いつか人の姿に戻って、彼女たちにかけた忘却の魔法を解くことを夢見ている。
でも、どうすればいい。
おれが森の外に出れば、それだけで誰かが死んでしまう。
諦められない。
でも、もう嫌だ。
こんなの、いつか心が壊れてしまう。
大切な記憶が壊れてしまう。
「クロ!」
幻聴がした。ルナの声だ。
やめてくれ。おれは耳を塞いだ。
「クロ!」
幻聴がした。レビアの声だ。
やめてくれ。おれは頭を振った。
「クロ!」
幻聴がした。ヴェルナリスの声だ。
やめてくれ。おれはその場に頭を伏せた。
「泣かないで、クロ」
ルナの声が近づいてくる。
そして、右肩に温かい感触がした。
顔を上げる。
ルナがすぐ近くに座っている。おれの肩に触れ、涙を流して微笑んでいた。
ああ、とうとう幻視まで見え始めた。
もう駄目かもしれない。
「探しましたよ」
もう片方の肩を、レビアが触れた。
潤んだ瞳でおれを優しく見ていた。
「クロはひどい人です。勝手にいなくなるなんて」
なんてリアルな幻なんだろう。
まるで本当にそこにいるみたいだ。
ルナとレビアの幻の間に、ヴェルナリスがやってきた。
おれの髪に触れ、子供をあやすようにゆっくりと撫でた。それはとても温かい心地よさがあった。
「クロ、男だろ。泣くんじゃない」
ぽろり、とヴェルナリスの目から涙がこぼれた。
「こ、これは貰い泣きだ! 君のせいだぞ」
と言いながら声を上げて泣き出した。
レビアがヴェルナリスの頭を撫でた。
レビアも涙を流していた。
おれは上半身を起こした。
なんて温かいんだろう。
幻とは思えない。
でも――。
「おまえたちには忘却の魔法をかけた。それに、この森にはどうやっても入れないはず」
「びっくりしました。クロが魔法を使うなんて」
「クロだって何度も入れない場所に入っただろ。例えば、その、シャワー室か! トイレとか!」
「ドロシー様が解いてくれたんだよ。魔法も、ここの封印も」
そうか、あの人が。
きっとおれがクロノじゃないことも分かっているだろうに。
「ってことは、幻じゃない?」
彼女たちは笑って頷いた。
「こ、こら。泣くな。君は全く」
心が締め付けられるような痛みに近い感触。
これは嬉しさだ。どうしようもなく嬉しくて、涙が止まらなかった。
おれはしばらく泣いていた。
三人はおれが落ち着くのを待ってくれた。
おれは涙を拭った。
いつまでも泣いているわけにはいかない。
「ヴェルナリス、おれのことが怖くないのか? 魔人だぞ?」
「大丈夫。そんなことを気にしないでいい」
ヴェルナリスがおれの頭をもう一度撫でた。
おれの顔は今、どうなっているんだろうか。
多分、体と同じで青白い皮膚に黒い線があると思う。でも彼女たちはおれをクロと呼んでくれた。
「クロはクロだよ。優しい匂いがする」
ルナがおれの禍々しい手を握った。
「わたしはクロの姿がどんな風でも、構いません。でもその姿ではデートができませんね」
レビアがおれの手を取った。
「クロ、これをつけてください」
レビアがポケットから何かを取り出した。
それはレビアを縛っていたあの指輪だった。
レビアが一つづつおれの指にはめていく。おれの指は人間のそれより太いはずだが、不思議と指輪は綺麗に収まった。
「これは?」
「退魔の指輪です」
退魔?
「見て、クロ」
ルナが指をこちらに見せた。
指にいくつか銀色のリングが光っている。おれの指輪に似たデザインをしていた。
「ごめんね、クロ。わたし、クロを探すのにまた魔人の姿になっちゃったんだよ」
「そうなのか?」
だがルナの頭に耳はない。
理由を訊こうとしたその時、体から力が抜ける感覚がした。
――この感覚は。
おれのマナが消えていく。
代わりに、別の何かがそこへ満ちていく。
「マナ切れも起こさないから、安心してね」
これは一体。
そして、一瞬だけ目の前が赤く光った。そして赤い煙が月明かりに照らされた。
「あ、あれ?」
手を見る。人間の手だ。
懐かしい、おれの、クロの手だ。顔をぺたぺたと触る。普通だ。おれの顔だ。
魔族の翼も、なくなってる。
「これって――」
「あたしが説明するわ」
木の影からドロシーさんがひょっこりと顔を出した。
彼女はおれの目を真っ直ぐに見つめながら、こちらへ近づいた。
「ドロシーさん……あの、おれ」
「いいのよ、言わなくて」
悲しい瞳を一瞬浮かべたが、すぐに微笑んだ。
無理をしているような感じじゃなく、ごく自然に。
「ありがとう。クロ。あたしもこれで、やっと吹っ切れた。十年の間、クロノのことをずっと待ってた。でも、あたしに必要だったのは待つことじゃなくて、探すことだったのかもね」
「――クロノは最期まで貴女のことを想っていました。本当です」
「うん」
ドロシーさんが目に涙を浮かべた。
レビアが近づき、ドロシーさんに寄り添うようにした。
「ご、ごめん。ちょっと待ってて。説明しなきゃね」
ドロシーさんがすうはあと深呼吸をしていると、また別の声が聞こえた。
「マスター! 早くしてください」
「あ、あぁ」
木の影から、ロキとロキに手を引かれているルークさんが現れた。
「ルークさん」
「うむ」
彼は指でこめかみをかいて、照れくさそうに視線を外した。
「マスター、ちゃんと言ってください」
「……クロ」
ぎっと睨まれる。
おれは思わず背筋を伸ばし「はい」と答えた。
「すまなかった」
ルークさんは頭を下げた。
「マスターを助けてくれて、ありがとうございました」
そしてロキも同じように頭を下げる。
「ふ、二人とも。そんな、やめてください」
ルークさんが頭を上げた。
「おれが頭を下げるのは、多分子供の時以来だ。先導士はむやみに頭を下げたりしないからな」
そして、不敵に笑って見せた。
カッコいい人だなぁ、やっぱり。
「そんなことありません。マスターはわたしにこの間謝りましたよ」
「あ、あぁ。そうだったな」
ルークさんが顔を赤くしてまたそっぽを向いた。
何となく微笑ましい光景だった。
「クロ、ドロシー様がこの指輪を作ってくれたのです」
「そうなのか?」
「あのね、君が解明したガクー遺跡の古代文字あったでしょ。あれを元に、退魔の魔法をエンチャントする技術を開発したの」
ガクー遺跡。
ウイリアムさんに言われて翻訳していたあれか。
「ルーク様も協力してくれたんだよ」
とルナが言う。
「そうなんですか?」
「協力なんていう程のものじゃない、気にするな。それよりおまえたちのその指輪は、先導士のマナを必要とする。これからは定期的に来い」
「ルークさん……、ありがとうございました」
今度はおれが頭を下げた。
「気にするな。別にこれはおまえの為じゃない。将来おれの――」
ぴしっと音がした。顔を上げる。ルークさんが額を抑えていた。
どうもロキがデコピンをしたみたいだ。
それを見て、おれは笑った。
みんなも笑っていた。
人の体に戻り、寒さを感じていたけれど、とても暖かい気分がした。
ヴェルナリスがおれの隣に立ち、右手を握った。
「帰ろう、エーデルランドへ。ウイリアム様もシドも、クロの帰りを待ってる」
レビアがもう左手を握った。
「帰ってから、トウモロコシを食べにいきましょう。わたし、まだ食べないようにしているのですよ」
ルナが正面から抱き付いた。
「帰って少し休んだら、どこかに遊びに行こうよ。みんなで、また」
明るい顔でおれを見上げた。
月明かりを浴びたルナの顔は、いつか見たあの日のそれよりも、ずっと素敵に見えた。
「行こう、クロ!」
ルナもレビアもヴェルナリスも、それはとても綺麗な笑顔をおれに見せてくれた。
――よかったな、魔王。
彼女たちはみな、体を奪われ、心を奪われ、自由を奪われ、長い間苦しんでいた。
それでもこうして笑っている。
人の心というのは、本当に素晴らしいと思う。
辛いことも、苦しいこともある。怒ったり、泣いたりすることもある。
その過去を消すことはできないけれど、それでもいつかは、喜んだり、嬉しかったり、笑ったりできる。色々なことを感じて生きていける。
だから、頑張れる。
魔王は人間が無意味なことをしようとする理由を知りたがっていた。
でも本当に無意味だと思って行動をする人なんかいない。例え自分で気付いていなくても、どこかで明るい未来を期待している。
心というのは、そういうものなのだから。
そういうふうに、できている。
「行こう!」
三人は元気に頷いた。
きっと、輝かしい未来が待っている。
彼女たちと歩いて行こう。
そして、まだ見ぬ明日へ。
(了)
ここまで読んでいただき、誠にありがとうございました。




