第05話 仮面の女
ルナを落とさないよう慎重に歩いた。
頑張れ、と何度も声をかけた。ルナはうわ言を返していたが、だんだん反応が薄れていった。
それでもおれは声をかけ続けた。
やがて森を抜け、道に出た。
舗装もされていない細い道だったが、自然が作り出したものではないのは一目瞭然だった。
どちらに行くべきか。
おれ右を選んだ。そちら側の空が明るんでいたからだ。
さらに進んでいくと、周りの風景が変わってきた。
木々が少なくなり、生い茂っていた草もまばらになってきている。日はまだ見えないが、朝がもう間もなく来ることは、その明るさの変化からすぐに分かった。
そうして歩いているうちに、ついに建物がいくつか見えた。
小さな木造の建物がいくつか並んでいる。街――いや、村だろうか。
気配を探りながら村へ入る。
早朝だからだろうか、人の姿は見当たらない。
とりあえずどこかの建物の戸を叩いてみようか。恐らく民家だろう。突然訪ねて怪しまれないだろうか。
そんなことを考えている時だった。
ひゅっ、と風を切るような音が後ろから聞こえた。
――なんだ?
振り返る。何もない。
瞬間、背後からトッと軽いものが落ちる音がした。そして――。
「動くな。動けば殺す」
女の声が後ろから聞こえた。
ゾッとするような冷たい声だった。その感情の感じられない小さな声には異様な迫力があった。殺すという言葉は脅しではない、と直感した。
「膝をつけ」
一体どこから現れた? こいつは誰だ。
おれは言われたとおりに膝をつく。
「女を置いてそこに伏せろ」
背負っていたルナをそっと地面に寝かせて、その場へ伏せた。
すると、顔の前に片手で握れるくらいの小さな石が落ちてきた。
「それにマナを込めろ」
マナ?
なんのことだ。
分からない。
「おまえが何を言っているのか理解ができない」
何秒か間があった。
グシュ、と何かが潰れるような音がした。
熱い。肩のあたりが異様に熱を持っている。
「あ……、ああ……がああああぁぁぁぁああ!」
次に激痛が訪れた。目の前がチカチカと点滅する。
おれは、おれの体は何をされた――?
「マナを込めろ。やらなければ殺す」
痛い、熱い、怖い。
頭がグルグルと掻き回されている気分だ。
どうすればいい。どうすれば……。考えろ。おれにはそれしかない。
おれは目の前の石を握る。
石。
マナ。
込める。
女はこの何の変哲もない石に何かを込めろと言っている。
マナ。なんのことだろうか。
言葉を不自然ではない他のものに置き換えてみる。
力。愛。念。憎しみ。
「……分かった。だがおれがマナを込めるには、この体勢じゃ無理だ。事情があって、いろいろ条件がある」
おれは勝負に出た。
よく分からないが、マナとはたぶん、目に見えない何かなのだろう。
「……言え」
「まず立たなければ駄目だ。この体勢だといろいろまずい」
「…………立つことを許可する。振り返るな」
女の声から距離を測る。二歩分といったところだろうか。
おれは石を握ったまま、ゆっくりと立った。左の肩が痛む。血が背中をつたっている。
「そこに倒れてる女が邪魔だ。どこか別の場所へ移動したい」
「……駄目だ。この場で出来ないのであれば、この女を殺す」
冷汗が額に浮き出たのを感じた。この女はルナをいつでも殺すことができる。
ルナがまだ殺されていないのは、まだ利用できると考えられているからだろう。
一つ間違えればルナは――。
おれは「分かった」と返答すると、意を決し石を強く握った。
次が最後だ。もう駆け引きを続ける気はない。
「………おい、なんだこの石……」
――緊張している。声が少し震えた。だがむしろ好都合だ――。
「この石……! 何かおかしい! 何か奇妙だ!」
おれは体を反転させ女を見た。
不気味な仮面をつけている。マントが体を覆っていて体格は分からない。
右手には血のついた短剣がある。
おれは振り向きざま石を上へ放り投げた。
仮面が上へ向くのを確認する。
と同時に距離を一気に詰める。右拳を握る。仮面の女の腹をめがけ拳を繰りだした。
拳が女の腹にめり込んだ。
鈍い音とともに、仮面の女がくの字に折れる。
今度は仮面を目掛けて拳を突き出した。
女の動きは素早かった。俊敏な動きでそれを躱して飛び退いた。
女は短剣を持っていない方の手の人指し指と中指をぴんと立てる。そして中空を裂くように、斜め、左、右、縦へ素早く振った。
「呪術――緊、伍鳴帯牢」
なっ――!
おれの周囲の地面から、黒い帯のようなものが一斉に生え出した。それはうねりながらおれの足に絡みつき、体に絡みつき、腕に絡みついた。
ありえない。おれの知識にこのような現象は存在しない。
仮面の女が動く。
咄嗟に体を動かそうとする。
が、絡みついた黒いものはおれの体を縛りつけた。冷たく黒いそれは、まるで生物のように意志を持っているようだった。
女が眼前に迫る。
動け! 動け! 動け! 動け!
全身に力をこめる。
すると、体に巻きついていた黒い帯がばきんと割れた。
「――はぁぁぁあああ!」
拳を仮面に向かって振りぬく。
首を捻じり飛ばしてやるつもりで全力を込めた。
女は後方へ吹き飛んで背中から落ちた。
体の力が急に抜けて、おれはそこに跪いた。
視線を体へ落とす。
――嘘だろ。
大量の血がドクドクと噴き出している。
いつの間にか短剣で斬られていたようだ。
痛みはない。代わりに血液が体内から消えていくことへの恐怖があった。
女が仮面に手を当て立ちあがる。
ふらふらとした足取りだった。仮面が割れ一部が剥がれ落ちる。
女の左目が露わになった。
女の碧色の瞳と、視線がぶつかった。
何秒そうしていたのか、いや、一瞬だったのかもしれない。
奇妙な瞬間を経たあと、女は踵を返し、ばさりとマントをはためかせながら去っていった。
「…………」
助かった、と。
そう言おうとしたのに、声が出なかった。
――寒い。手足の感覚がない。
おれはその場に崩れ落ちた。
今頃になって腹が痛み出した。
ルナが見える。
ルナ。ルナを助けたい。
…………。
視界が白くなってきた。眩しい。
…………。
仮面の女。何故、あんな目を……。
……。