第40話 幻影
大きい胸におれは顔をうずめている。
息ができない。
逃げなきゃいけないのに、体が麻痺してしまったように動かない。
何というか苦しさよりも気持ちよさの方が勝っている?
後ろから腰の辺りをがしっと掴まれた。
引っこ抜かれる。
振り返るとレビアがむすっとした顔でおれを見ていた。
「ぐすっ。クロノ……ずっと待ってたんだからね……馬鹿」
まだ泣いてるし。
っていうか、この人は一体誰なんだ。何故おれをクロノと呼ぶんだろう。
「君は見境なしか」
ヴェルナリスがきつい口調で言った。
「し、知るか! おれだって驚いているんだ」
「で、誰なんだ。その人は」
「分からん」
びくっと赤い髪の女が震えた。
「クロノ……あたしのこと、忘れちゃったの?」
「貴女はおれのことを知っているのですか?」
「う、嘘……」
短く喘ぐような泣き方をして、彼女はその場に崩れ落ちた。
「あ、あの?」
ざわざわと声がした。
まだ場内に残った人がこっちを見てるのが分かった。
「ねぇ……なんか見られてるっぽいよ?」
「分かってる」
おれは泣き崩れている女性に近づき、傍に座った。
「すみません。おれには記憶がないのです」
そう言うと彼女は顔を上げた。
「記憶が?」
「はい。貴女はおれのことを知っているのですか?」
彼女は頷いた。
それから、ゆっくりと立ち上がった。
「本当に忘れちゃったの?」
「……すみません」
その人の痛ましい表情を見て、罪悪感がわいた。
おれは過去を忘れてしまったのだと、久しぶりにその実感がわいた。
「見て、クロノ」
彼女はマフラーを外した。綺麗な顔が露わになる。
それから両手でおれの頬をつかんで、ぐっとその顔を近づけた。
おれは思わず目を逸らした。
「あたしよ。ドロシーよ。ドロシー=ユンユン」
「え? ド、ドロシー? ユンユン?」
「思い出した?」
ドロシーっておれたちが探していた人だよな。
…………。いかん。色々なことが起きていて頭が追いつかない。
「なあ、クロ。今この人自分のことをドロシーと言ったか」
「あら。そこの髪の毛のピンクの子。今クロノのことクロって言った?」
沈黙が流れた。
その場では話せないことが多すぎるということで、人の耳に入らない場所へ行こうということになった。
おれたちはドロシーさんの家に案内された。
ドロシーさんの家は、他の建物と少し趣が違った。
外観がまず違う。
黒い木材と白壁のその上に三角の瓦屋根がついていた。
中はもっと違う。まず玄関で靴を脱ぐらしい。
「さあ、あがって」
廊下を歩く。見慣れないタイプの白い扉がいくつかあった。
ドアノブがなく、代わりに丸い窪みがある。横にスライドさせて開くもののようだ。
何となくその扉の呼び方が別にある気がしたのだが、考えても分からなかった。
その扉を開いて部屋へ入る。
森林にいるような自然的な香りがふわりとした。それはどこか懐かしくて、心地よいものだった。
――どこか懐かしい?
それは初めて感じる気持ちだった。おれはもう一度よく部屋を見渡した。
緑色の長方形のタイルがパズルのように並べられている床だった。
よく見るとそれはタイルではなく草を編んだようなものだと分かった。
その中央にやたら背の低い丸い机がある。この家は――。
「座って座って」
そう言ってドロシーさんはクローゼットから四角いクッションを取り出しぽいぽいと机の周りに投げた。
直接床に座るということだろうか。
「待っててね」
彼女は鼻歌を歌いながら廊下へ行ってしまった。
足音が聞こえなくなってから、おれは言った。
「あの人がドロシーさんだったのか」
「……うん。なんであの人、クロのことクロノって呼ぶのかな」
「なんでだろうな」
また足音が聞こえてきた。
「お待たせぇ」
扉が開く。
ドロシーさんは丸いトレイを持っていて、土製のコップが五つ載っていた。
テーブルの上にそれらを置く。コップから湯気が立っていた。
ドロシーさんはおれの正面に座る。
「クロノ……フード外してくれないかしら。ここなら大丈夫だから」
おれは言われたとおりにフードを外す。
ドロシーさんは潤んだ瞳でおれを見ていた。
「あの……何故おれをクロノと呼ぶのですか?」
「だってそれは……。見た目がそうだから」
「そんなに似てるんですか?」
「似てるなんてものじゃない。同じだわ」
「同じ……」
希少な先導士のうちの二人が、瓜二つの見た目をしている。
偶然とは思えない。
「クロノは十年前に亡くなったのではないのですか?」
彼女は目線を落とした。
「クロノの遺体は見つからなかった。誰がなんて言ったって、わたしはどこかで生きてくれているとずっと信じてた。そして貴方が現れた」
そういえばあの劇だと、クロノは旅に出たことになっていた。
そうか。クロノの遺体は見つかっていなかったのか。
「でも。十年前だったら、おれはまだ子供だったはずです」
「そうね。今の貴方はあの頃と同じ歳に見える。歳が変わってない理由は分からないけど、でもわたしがクロノを間違えるわけがない」
強い口調だった。
「きっと記憶が戻れば、その理由も分かるはずよ」
「おれは自分がクロノだなんて……」
信じられません、と言おうして気がついた。
そういえば例の件があった。
「新矢戸流空手道はクロノが編み出したものだと聞きました」
「……うん。懐かしいわ。その名前」
やはりそうなのか。
「ドロシーさん。クロノは異世界の小説を好きでしたか?」
「そうね。だってあの話を最初に書いたの、クロノだもの」
「え?」
「貴方はその異世界から来たって言ってたのよ。最初は冗談だって思ってたけど、でも本当だったのかもと今は思ってる」
どくりと心臓が脈を打った。
「この家もね。その異世界の家を再現したのよ。クロノが喜ぶと思って……」
おれはやっぱり――。
「クロノは古代文字を読めましたか?」
「古代文字?」
頷いてから答えを待っていると、ドロシーさんは首を横へ振った。
「古代文字どころか、普通の文字も読めなかったわ」
「読めない?」
これは違うのか。
「おれは読み書きはできますよ」
「そう。……じゃあ覚えたのね。この十年で」
ドロシーさんはおれがクロノだと信じて疑わないようだ。
「彼の異能はなんだったのですか?」
「常識を超える莫大なマナ。そしてそのマナを使った究極的な肉体強化魔法」
これもおれと違う。
「おれはマナを扱うことができません」
ドロシーさんが瞬きをした。
「マナを扱えない?」
「はい」
ドロシーさんは真剣な顔でおれをじっと見つめた。
しばらく待っていると、すっと彼女の表情が戻った。
「本当だわ……。体内にマナがほとんどない」
「それに瀕死の傷でも一瞬で治る力があります」
「瀕死の傷……」
この力もクロノにはないようだ。
「そしておれにはもう一つ不思議な力があります。魔法のロックを触れただけで解除することができるのです」
「……。そこに手を置いて」
とテーブルの上を指さした。
おれはその上に手を置く。
すると彼女は眉を僅かに動かした。
「あら……この指輪って」
「これは今は話せません」
「……分かったわ」
ドロシーさんがおれの手の上に掌をかざすと、
「ラズビ・ラギス(固めて封じよ)」
そう呟いた。
一瞬だけ彼女の手が青白く輝いたように見えた。
「どう? 動かせる?」
手を動かそうとする。
すると張り付いたような感触があった。
だがすぐにその違和感が消える。
おれは手を動かして見せた。
「本当ね。熟練のウィザードでも十日は外せないはずなのに」
彼女はおれの手を握った。
「……この感じ。似ているわ」
「似ている?」
「うん。昔、ある魔法の研究をしたことがあってね。危険だったから、すぐに禁じたけど。……その感じに似ている」
彼女は手を離した。
「そういえば、エーデルランドで魔人を倒したって聞いたけど」
「はい」
「マナも使わずに?」
「……はい」
彼女は何か考えているように見えた。
今は話を戻そう。おれの異能の話はあとでもできる。
「クロノと違う部分もたくさんあるみたいです」
「そうね。でもそんなのは些細なことだわ。人に計れないからこそ異能なの。だから何が起きたって不思議じゃない」
彼女はテーブルに乗り出すようにした。
「おかえり、クロノ」
おれは彼女から目を逸らした。
彼女の真っ直ぐな瞳を見返すことができなかった。
正直に言うと、おれは居心地の悪さのようなものを感じていた。
おかえりと言われた時、はっきりとそのことに気がついた。
きっとウイリアムさんに言われたのなら、おれは泣くほど嬉しい気持ちになったと思うから。
状況が物語っている。
おれはおそらくクロノなのだろう。だが。
「おれは自分のことをクロノだと思うことはできません」
そう結論を出した。
「そんな……せっかく会えたのに」
ドロシーさんの瞳が潤んでいる。
「お願い。クロノ。ただいまって言って。嘘でもいいから」
ルナたちがいることを忘れたかのように、彼女はおれだけを見ていた。
――いや。違うのか。彼女はおれさえも見ていない。
ドロシーさんが見ているのは、ここにいない過去の幻影だ。
おれの姿に過去のクロノを見ている。
「お願いよ……ずっと待ってたの」
おれは自分を奮い立たせた。
ここで間違えた行動を取れば、彼女を深く傷つけてしまう気がした。
どう答えるのが最善だろうか。考えろ。
考えて、最善の言葉を紡ぎ出せ。
「――ドロシーさん」
「うん……」
おれは一呼吸置いた。
「例えおれの過去がクロノであったとしても、記憶がない限り、今のおれはクロなのです」
ドロシーさんは絶句した。
「おれは貴女に嘘をつくことができない。自分自身を偽ってしまったら、希薄なおれは消えてしまう気がするから」
彼女の顔を見た。ひどく怯えた顔をしている。
だがおれは目を離さない。
「記憶が蘇るまで、おれをクロノと呼ばないでください」
「…………っ」
ドロシーさんは目元を拭いながら立ち上がり、走って部屋を出ていった。
足音が離れていく。
痛みに似た何かが胸に押し寄せた。彼女を傷つけてしまったんだな、とおれは思った。




