第32話 告白
小振りな雨が降りはじめた。
なるべく雨に当たらないよう、崖の近く歩き続けた。注意深く辺りを見ながら歩いたが、崖の上に出られそうな場所は見つからなかった。
もう足元がそろそろ見えなくなる。
今日はこの辺で休むしかないだろう。
上側の岩が突き出して雨が凌げそうな場所があったので、そこで休むことにした。
ヴェルナリスを下ろし隣へ座る。
雨が急に強くなった。ざあざあと音が鳴りはじめた。思えば初めての雨だ。
まったく、嫌なタイミングで降ってくれたものだ。
ヴェルナリスの顔をちらりと見た。
もう怯えてはいないようだったが、腫れた目には力がなく、どこか厭世的なように見えた。そんな彼女に声を掛けることができず、時間だけが過ぎていった。
やがて夜になった。星の明かりも見えない暗い夜だった。
暗闇の中に雨の音だけが聞こえていた。
「わたしのこと、話してもいいか」
ヴェルナリスが言った。ひどく震えた声だった。
その声から彼女にとって重大なことを告白しようとしているのだと直感した。
「話してほしい」
ヴェルナリスの深呼吸が雨の音に混じって聞こえてきた。
「わたしは一度、魔人に殺されかけたことがある。九歳の頃のことだ。わたしは今でもあの日のことを忘れられない」
ヴェルナリスは少し間を開けて続けた。
「いつも通りの朝だったと思う。よく晴れていたのを覚えてる。あの日、わたしたちの街を――魔人が襲った。突然だった。鐘の音が外からずっと鳴り続けていて、そこに色んな人の悲鳴が聞こえていた。とにかく怖くて、わたしはベッドの下に隠れて震えてた」
ヴェルナリスが僅かに動いたのが気配で分かった。
「泣きながら震えている時、わたしが隠れていた部屋に父さんと母さんが入ってきた。歩き回るだけでも危険なのに、わたしのことを探してくれていたんだ。嬉しくて仕方なかった。助かったと思ったんだ。それでベッドから出ていこうとした時……」
彼女の声が止まった。
「……続ける」
と消え入りそうな声で言った。
「ベッドから出ようとした時、扉が開いた。誰かは入ってきたと思った。考える間もなく母さんの悲鳴が聞こえた。びちゃびちゃと血が床に落ちてきて、その血の上に母さんが倒れたのが見えた。そのすぐ後に父さんも悲鳴を上げた。父さんが倒れると、ベッドの下からその顔が見えた。目玉が飛び出すほど大きく目を開いていて、まるで父さんじゃないみたいだった。その顔の近くを誰かが通った。人間の足じゃなかった」
彼女がまた言葉を止めた。呼吸が荒い。
「無理しないでいい」
「……ごめん。話したいんだ」
彼女は大きく息をして呼吸を整えたのが聞こえた。
「わたしは息を殺していた。とにかく死にたくないと、殺されたくないと、それだけを考えていた。父さんと母さんが目の前で殺されたのに、泣くことも怒るもせず、ひたすら自分が助かることだけを考えていた。……最低な子供だろ」
おれは言葉を返せなかった。
何か言えばそれは彼女の告白を無意味なものにしてしまう気がした。今おれにできるのは、彼女の言葉を真剣に聞くことだと思った。
「でもな。魔人はわたしのことに気がついていたんだ。ベッドを乱暴にどかされて姿を暴かれた。その恐ろしい姿を目の前で見て、ますます恐ろしくなった。わたしは両親の死体の傍で、さっきみたいにみっともなく命乞いをしたんだ。魔人がそんな願いを受け入れるはずがなく、わたしはまず腕を奪われた」
ヴェルナリスの怯え方が普通ではない理由が分かった気がした。
あの哀れに懇願する姿は、子供の頃の記憶がフラッシュバックしていたのではないだろうか。
「やがて魔人はわたしを殺すことなく去っていった。その時は本当に言葉が通じたのだと思った。――今思えば自分を正当化してただけなのかもしれないな」
「……どうして、去ったんだ?」
「その日は、ある先導士が別の魔人を討ち取った日でもあったんだ。あの日以来魔物や魔人は活動をしなくなった。わたしを襲った魔人も、たぶんそうだったんだと思う。……そうだ。君も広場で見ただろ。クロノ・リュート様だ。あの先導士様がわたしを救ってくれたんだ」
あの銅像の青年か。
ヴェルナリスが九歳の頃だと、今から十年くらい前だろうか。
「ともかくわたしは助かったわけだ。だけど同時に自分が罪深い生き物だと知らされてしまった。わたしは助かったと思った時、心から、よかったと思ってしまった。父親と母親の死体の前でな」
ヴェルナリスはため息をついた。
「それからは罪を償う為だけの日々だった。強くなればいいと思って、ひたすら努力をしてきた。恐怖をなくすことだけがあの日の罪を償えると思っていたから。でも怖いと思う気持ちはいつまでも消えなかった。敵意を向けられると、足が震えるほど恐ろしい気持ちになった。むしろ強くなればなるほどその恐怖は増えていった。――いつしかわたしは戦う度に我を失うようになった」
ヴェルナリスと最初に戦った日のことを思い出す。
あの顔は――。
恐怖を感じていたのか。狂気に染まり我を失わなければ自分を保てないほどの恐怖。それは一体どれほどのものなのか、おれには想像もできなかった。
「本当は分かってた。無意味な努力だって。でも、もう止まることができなかった。いつか自分は敗北してそのまま惨めに一人で死んでいくんだろうと、どこかでずっとそう思ってた。わたしは今日死ぬべきだったんだ。……でもまた生き延びてしまった」
闇の中で彼女が動いたのが分かった。
鼻をすする音がして、また彼女が泣いているのだと分かった。
「無意味なんかじゃない」
これだけは言わないといけないと思った。
「やめてくれ。そんなの聞きたくない」
「もう一度言う。無意味なんかじゃない」
「無意味だった!」
彼女が頭を振ったのがうっすらと見えた。
「どれだけ強くなっても怖い気持ちは消えないと、そう分かったじゃないか」
「そんなの、詭弁だ」
「詭弁なんかじゃない。怖いと思うことは仕方のないことだと分かった。別の方法を探せばいいだけだ」
「いやだ。もう聞きたくない。――努力することに疑いがなくて、何も考えずに人を助けることができて――そんな強い人間にはわたしの気持ちなんて分からない!」
おれは言葉を失った。
「もう疲れた」
ヴェルナリスの言うとおりだ。
おれには記憶がない。過去のない薄っぺらなおれは、彼女を理解してやれないのかもしれない。
――考えろ。
それなら、かわりに何ができる。過去のないおれにできることは何だ――。
真剣に考えて、おれは言葉を出した。
「ヴェルナリス。それならまた頑張ろうと思える時が来るまで、おれがヴェルナリスを支える。おれがおまえの力になる」
「…………どうして」
「そうしたいと思ったからだ」
それは紛れもないおれの本心だった。
誰にも否定できない、おれだけの想い。おれだけの心。
「もう頑張ろうなんて思えない」
「それでいい」
ヴェルナリスはしばらく何も言わなかった。
「……君はいいのか。わたしなんかに構ってて」
「いい」
「心だけじゃない。体だって醜い女だぞ。君も見ただろ」
――あれのことか。シャワールームでおれは彼女の裸体を見た。
そこには無数の古い傷跡があった。切り傷や火傷の痕だ。
「醜くなんかない」
「気を使わないでいい」
「気なんか使ってない! 綺麗だと思った! 本当だ」
嘘ではないと信じてもらいたくて、強い口調で言った。
「偉そうにしてたくせに、あんなに泣いて怯えた」
「あぁ」
「みっともなく命乞いをした」
「……うん」
「いいのかな、君に甘えて……」
「いい」
彼女は少し間を置いてから「でも」と何か言いかけた。
「ヴェルナリス」
おれは彼女の言葉を遮った
「もうおまえは頑張りたくないんだろ。ならいいじゃないか。どうなったって」
卑怯な言い方だと思った。
しかし彼女を説得する方が今は重要だと思った。
「いいのかな」
「いいって言ってるだろ」
僅かな空白があった。
そして、
「……分かった。君の言うとおりにする」
と言った。
今はこれでいい。
――死ぬべきだったなんて思わせないように、無意味な努力なんかじゃなかったといつか思ってもらえるように、全力を尽くそう。
安心した瞬間、何故か血の気が引いたのを感じた。
何だろう。何か頭がくらくらする。
「なあ、その。き、君のことをわたしはなんて呼んだらいい?」
「……え? 別に普通でいいんじゃないか?」
「だからなんて呼べばいいんだ」
なんで今さら、と思ったがそう言えばヴェルナリスから一度も名前を呼ばれていないことに気がついた。
「クロでいい」
「そ、そうか。じゃあ今から言うぞ」
すうはあと何度も深呼吸をしている。
「い、言う!」
また深呼吸した。
しばらく待っていたが、彼女は何も言わなかった。
「どうした?」
「……やっぱり明日にする」
名前を呼ぶくらいで大げさだな……。
――あ、やばい。
また頭がくらくらした。
「な、なあ」
「どうした?」
「あの二人、君のことをきっと心配してるよな」
「そうだな」
特にレビアは心配どころではないだろう。おれが死んだら、彼女も死ぬのだ。
早く安心させてやりたい。
「わたしのこと、怒るかな……」
「うーん、どうかな。たぶん、謝れば許してくれるかな」
「……。わたしは何て言えばいいんだろう……。どう言えば許してくれるかな」
責任を感じることはないのに。心配しなくたっていいのに。
これが本当の彼女だったのだろうか。どこまでも真面目で、あまりにも不器用な少女だった。彼女のことが少し分かった気がした。
「なあ――」
また彼女に呼ばれた気がした。何かおれに聞いてきている気がする。
だが頭が朦朧として、答えることができない。
重力が曖昧になったのを感じた。
ごつんと頭に衝撃があった。
薄れゆく意識の中で、自分が倒れたのだと分かった。
ヴェルナリスの叫ぶ声が聞こえた気がした。
やがて雨の音が世界を包んでいった。




