第31話 懇願
はっと目が覚めた。
朝の目覚めとは明らかに違う覚醒だった。戻ってきた、というような感覚があった。
体を起こす。全身に鈍い痛みを感じる。
おれは頭を抱え、直前の記憶を探った。
ヴェルナリスを放り投げた。
その後、鉄橋を蹴るようにしておれも同じく飛んだ。どうにか空中でヴェルナリスを抱え込んで、葉の生い茂った木へ背中から落下した。
枝の折れる音と葉の音が体中を覆って――、そこから先の記憶はない。
――そうだ。ヴェルナリスは。
辺りを見まわすと、ヴェルナリスが横たわっているのが見えた。
這うようにして彼女に近づいて、ヴェルナリスの顔を覗き込んだ。
「ヴェルナリス」
名前を呼びながら彼女の頬を叩く。
するとヴェルナリスは小さく声を出しながら眉を寄せた。
彼女の瞼がゆっくりと開く。虚ろな青い瞳がおれを見上げていた。
彼女は上半身を起こすと、親指と中指でこめかみを抑えた。
「大丈夫か?」
ヴェルナリスは小さく頷いた。
しばらく見守っていると、彼女は何かに気がついたようにおれの顔を見た。
「……どうして追ってきたんだ」
「おまえが走っていったからだろ」
彼女の様子を見て、意識ははっきりしていそうだと分かった。ひとまず助かったと思っていいだろう。
「なんでわたしなんかを助けたりしたんだ」
彼女はおれを睨んでいた。
「なんでって言われてもな……」
「助けてほしいなんて言ってない」
ヴェルナリスはおれをじっと見続けていた。
「馬鹿か君は。死んでたかもしれないのに」
「そうだな――」
おれは右手の指輪を見た。
術の所有権があるおれが死ねば、レビアも死ぬ。おれには絶対に死ねない理由がある。
だが。
「気がついた時、おれは鉄橋を走っていた。自分が死ぬことなんて全く考えてなかった」
ヴェルナリスは眉間に皺を寄せてきつくおれを睨んだ。
「迷惑だ」
彼女は膝を抱え顔を埋めた。
その直前、彼女の目が潤んでいるように見えたのは気のせいだろうか。
一旦、彼女のことはそっとしておこうと思った。
空を見上げる。
曇天が上空を覆っている。
そのせいで辺りは薄暗い。が、まだ日が沈んでいるわけではないようだ。
気を失っていたのはごく僅かな時間だったように思う。
周囲を見る。
鉄橋の残骸が散らばっている。折れ曲がった太い鉄筋が、落ちた衝撃を物語っていた。
おれはその場に立ち上がり、体に痛む場所がないか確認する。
背中と肩に鈍い痛みがあるが問題はなさそうだ。よくあの高さから落ちて無事だったものだと思った。
ルナやレビアが心配だ。
魔人の額に突き刺さっていた短剣は、レビアが投げたものだろう。
レビアの武器があの短剣一本だけだとしたら、彼女は今丸腰ということになる。
一通り考えをまとめてから、ヴェルナリスの様子を再度見た。
ヴェルナリスはまだ膝を抱えて顔をうずめていた。一体何を想っているのだろう。
「そろそろ行かないと日が沈んでしまう。立てるか?」
彼女は顔を上げた。
力がなく弱々しい表情をしていた。
彼女は何も言わずに立ち上がった。
「歩けるか?」
彼女は頷いた。
「戻れる道を探そう」
「あぁ……でも少し待ってほしい。わたしの刀がどこかに落ちているはずだ」
一度鉄橋の残骸がある場所を探ることにした。
刀はすぐに見つかったが、刃の部分が折れていた。
しかも鉄筋に潰されている。
「ヴェルナリス、行こう。諦めるしかない」
彼女は不安そうに刀を見つめて「そうだな……」と言った。
おれのすぐ後ろにヴェルナリスが続いた。
左右に崖があり奥まで狭い岩場が続いている。
ごろごろと大小様々な石が転がっている。起伏はあまりない。
どこかから上へ登れる道がないかを探しつつ、魔人の気配を慎重に探った。
歩いているうちに、徐々に辺りが暗くなっていることに気がついた。
日が沈み初めている。夜になれば何も見えなくなるだろう。あまり時間はないかもしれない。
こつん、と後ろから音がした。
ぎょっとして振り返る。が、何もない。
冷たい汗が背中を流れた。たぶん崖の上から石でも落ちたのだろう。
安堵のため息を吐きながら前へ向き直る。
その時、何かが――。
黒い何かが崖から飛び降りてきたのが見えた。
黒い何かは着地をすると、こちらを見つめた。不気味な声で笑い声を出した。
――魔人。
魔人がこちらへ駆けてくる。
「逃げろ!」
ヴェルナリスが叫んだ。
彼女に後ろから引っ張られ、気付けばおれは宙を舞っていた。
地面に落下すると同時に、這ったまま顔を上げた。
それは一瞬の出来事だった。
「フォーガ・ヴァーレ!(赤き焔よ、爆ぜろ)」
ヴェルナリスが鞘を手に持って、刀のように振った。
轟音とともに赤黒い炎が巻き起こる。炎が魔人へ向かって飛翔した。
魔人へ着弾すると爆風とともに炎が爆ぜた。
その炎の中から魔人が姿を現した。
炎が体を焼いている。だが魔人は止まらない。あの不気味な笑い声をあげながらヴェルナリスに斬りかかった。
ヴェルナリスは鞘で刀を受けた。
魔人はさらに上下左右から彼女を斬りつけた。
ヴェルナリスはどうかに受けていたが、やがて――真っ二つになった鞘が地面に落ちる。
受ける手段をなくしたヴェルナリスを魔人が斬った。
赤い鮮血が岩肌へ飛び散った。
「ヴェルナリス!」
――殺される。おれは走り出していた。
「……いやだ、死にたくない」
彼女は尻もちをつき後退りをした。
肩から胸にかけて傷がつき血が流れているのが見えた。
「死にたくない! いや! 死にたくない!」
ヴェルナリスはそのまま壁際まで後退する。
魔人は愉しむようにゆっくりと距離を詰めた。
「やめて……殺さないで! お願い! 助けて!」
ヴェルナリスが涙を流しながら懇願している。
魔人はヴェルナリスに顔を近づけ、まるで観察するように頭を左右に動かした。
「こっちだ! 化け物!」
おれは起き上がる転がっていた石を魔人へ投げつけた。
魔人の背中に当たる。
魔人がゆっくりとこちらを見た。
「うぅ……こいつ!」
その表情におぞましさを覚えた。
目や口の形が変化している。それはたった今ヴェルナリスが見せた顔のものだった。
黒い液体を五つの目玉から流している。
もう一度石を拾って投げつけた。
今度は刀で払いのけられた。
魔人がこちらへ一歩近づいた。
ゆっくりとした動きだった。
――そうだ。こっちへ来い。化け物。
全身が凍り付いたように冷たい。それに息もあがっている。眩暈すら感じる。この期に及んでおれはまだ恐ろしさを感じている。
だがここでこの魔人を始末しなければ、ヴェルナリスを救うことはできない。
おれは深呼吸を一つし、構えを取った。
――戦うしかない。
魔人が刀を構えた。
自分の鼓動がうるさい。だがそれ以外に音はしなかった。
集中が極限まで高まるのを自身の中に感じた。
――恐怖を堪えろ。よく観察するんだ。遠山を望むが如く――。シドさんの言葉を強く想い浮かべた。
魔人が動いた――。
おれは刀を上段受けで防御する。
受けた腕に凄まじい衝撃を感じた。ものすごい力だ。骨が折られたと瞬時に理解する。
腕で刀を払いのけ、同時に息を強く吐きながら右拳を突く。
魔人は体を逸らし、なんなく拳を躱した。
おれは前蹴りを放った。
だが魔人の動きはやはり速かった。
左へ躱されると同時に、赤い血しぶきが舞った。どこかを斬られたようだ。
――ぶしゅ、と音がした。
目線を落とす。
魔人がおれの腹へ刀を突き刺している。たぶん、背中まで貫通している。
口の中で血の味がした。
――構うものか。
おれは魔人の腕を掴み、ぐっと体を近づけた。
ぶしゅりと血が噴き出る音が聞こえた。
腹と背中に激痛が走る。呼吸ももうできそうにない。だがこれで近づくことができた。
魔人の顔を見て、あることに気がついた。
額にあるレビアの短剣の傷痕。
おれはそこを目掛け、貫手突きを繰り出した。
傷跡に指がめり込んだ。抉るようにして指を深く突き刺していく。
魔人が不気味な声で叫んだ。
効いている。
そのまま指をねじ込もうとした時、
「………あ」
とおれは声を漏らした。
腹にあった異物感が突然消えた。
横腹を裂かれている。
おれは自分の血だまりの上に倒れた。
痛みはもうない。熱も感じない。体の感覚がない。
これが、命が抜けていく感触なのか。眠る前に、よく似ている。
魔人がおれから離れヴェルナリスに近づいていく。
彼女の顔は涙と鼻水でひどく濡れていた。片腕で顔を半分隠し、焦点の合わない目で魔人を見ていた。
普段の彼女からは想像もつかないほど哀れな姿だった。
ヴェルナリスが何か言っている。なんだろう。よく分からない。
消えゆく意識を奮い立たせ、彼女の口元をよく見た。
ヴェルナリスが助けてと言っている。
――そうだ。寝ている場合じゃない。
おれはヴェルナリスを救わなくてはならなかった。
彼女を助けたいと強く想った時、突然、体の内側に熱いものを感じた。
熱が膨張する。まるで体を内側から燃やしているように、その熱は全身を駆け巡った。
――力が湧いてくる。
それはまさに活力と呼ぶにふさわしいものだった。
おれはその場に立ち上がることができた。体の傷が全快している。
おれは石を投げた。
魔人の頭にこつんと当たる。魔人が振り返った。
「来い」
魔人が何かを呟いた。
頭をごきごきと左右へ倒し首を鳴らす。
靴が血でべったりと汚れている。このままではすべってしまう。
おれは靴を脱ぎ捨てた。
足場は悪くない。問題ない。動けそうだ。
魔人がこちらへひたひたと歩いてくる。
おれは構えを取る。
ある所まで魔人は近づくとぴたりと止まった。
時が流れる。
魔人がこちらへ飛んだ。刀を下から振りあげる。
だが。その動きは先ほどよりも明らかに遅かった。刀を中段で受けながらそのまま魔人の懐へ潜り込んだ。
拳をねじ込むようにして胸部を叩く。
魔人の動きが一瞬止まった。そのまま顎を蹴りあげる。
魔人の頭がのけ反った。
魔人は不安定な体勢のまま刀を振った。
その袈裟斬りを右へ飛んで躱すし、上段回し蹴りを放った。
衝撃が足に走る。魔人の体ががくりと揺れた。
刀が振り下ろされる。後ろへ引く。
すぐに距離を詰め、刀を持った手を蹴り上げた。
刀が吹き飛ぶ。
身を低くして魔人との距離を一気に詰める。魔人の腹部を連続で強打した。魔人の体がくの字に折れる。
おれは雄叫びを上げた。
傷跡のある額に向かって、渾身の正拳突きを放った。
衝撃が拳から肘を通って、肩まで伝わった。
魔人は仰向けになって地面に倒れた――。
おれは肩で息をしながら仰向けに倒れた魔人を見下ろした。
額が裂け、その中から黒い液体がどくどくと噴水のように噴き出ていた。
ぴくりとも動いていない。
よく見ると、額の傷口から赤い煙のようなものが立ち上っているのが見えた。
その赤い煙を見ると、不思議と魔人はもう死んでいるような気がした。
――勝った、と思った。
だが安心した気持ちはちっとも湧いてこなかった。まだやることがある。おれは息を整えてからすぐにヴェルナリスの元へ向かった。
彼女はおれの顔を見てひどく怯えていた。
歯がぶつかる音が聞こえる。彼女の様子が気になったが、まずは体を観察した。
ヴェルナリスの傷は浅いようだ。もう血も止まっている。
「いや、やめて……。助けて」
涙を流しながらそう言った。
血に混じって妙な臭いがした。
彼女は失禁していた。
「おれだよ、ヴェルナリス。魔人は倒した。もう大丈夫だ」
彼女は正気を失っているのか、まだうわ言のように懇願を続けていた。
異常だ。魔人に何か特殊な魔法でもかけられたのではないかと、そう思えるほどの怯え方だった。
おれはヴェルナリスをそっと抱きしめた。
彼女がひどく震えているのが分かった。耳元で「死にたくない」と声が聞こえた。
おれは抱きしめながら何度も大丈夫だと声を掛け続けた。
どれだけそうしていただろうか。
やがてヴェルナリスの震えが治まっていくのを感じた。
「ヴェルナリス、大丈夫か?」
「……うん」
その言葉を聞いてから、おれは体をゆっくりと離した。
彼女の顔や服が真っ赤に汚れている。たぶんほとんどおれの血だろう。
「立てるか?」
彼女はふるふると首を横へ振った。
「背負ってく。乗ってくれ」
彼女を素直におれの背中へつかまった。
ヴェルナリスを背負い立ち上がる。
彼女に魔人を見せないように注意しながら、道を進んだ。
しばらく行くと何か冷たいものが顔に当たった。
見上げると雨がぽつぽつと降り始めていた。




