第30話 ヴェルナリスの暴走
悲痛な叫びを上げているような人間の顔を模したものが、木にいくつも掘られていた。
それは極めて精彩に彫られていて、まるで本当に誰かがそこに埋められているような気さえした。
木の表面の具合から見ても、これは最近掘られたものだ。
嫌でも首なし死体の顔ではないかと連想した。例えば人が死ぬ瞬間の顔は、こんな風になるのではないだろうか。苦悩に満ちた顔は何かを強く訴えている。
「何かあったのか?」
「見てみろ」
ヴェルナリスが眉を寄せた。
「何だこれは」
「どうしたのですか?」
遠くからレビアがそう声をかけてきた。
「ああ、気味の悪いものを見つけた」
レビアがこちらへ一歩近づこうとした時、
「待って!」
とルナが突然言った。
ルナの顔を見ると、彼女は青ざめた顔で目を見開いていた。
その様子から何かが起きているのだとすぐに分かった。
「血の臭いが近づいてきてる」
どくりと自分の心臓が高鳴ったのを感じた。
足元の感覚が急に曖昧になった感じがした。これは恐怖だ。おれは恐ろしさを感じている。
「本当ですか?」
「うん。向こうから来てる。足音もする」
「ルナ、魔物かどうか分かるか?」
「多分……人間だと思う」
木を離れルナの元へ向かう。
途中でヴェルナリスの足音が聞こえないことに気がついて振り返った。彼女は木のそばから動いていない。
「ヴェルナリス、一旦ここを離れるぞ」
「君たちだけで行け」
ヴェルナリスはくるりと背中を見せ、同時に背負っていたバックパックを置いた。
ルナが先ほど示した方向を見ているようだった。
「わたしは殺人鬼を倒す」
「……何を言っているんだ」
レビアが続いて「危険です」と言った。
彼女にしては強い口調だった。
「足元も悪く見通しもよくありません。戦うにしても、一度身を引くべきです」
ヴェルナリスが振り返りこちらを再度見た。
「わたしに構うな」
――この顔は。
最初に彼女と戦ったあの時に見た、歪な表情。
怒りに似た別の何か。
「早くして。もう来てる!」
ルナが言い終えたのとほぼ同時だった。
ヴェルナリスが突然駆け出した。
「ヴェルナリス!」
咄嗟におれは追いかけた。
――あいつ。何やってんだ。
彼女は俊敏な動きで駆けていった。
徐々にその背中が小さくなっていく。
木の根や瓦礫に足を取らないよう、遺跡の中を慎重に走った。
このままでは見失ってしまうとそう思った時、ヴェルナリスが突然立ち止まった。
上を見上げている。
なにを見ているのだろう、とおれも同じように見上げてみた。
何者かが石造りの屋根の上に立っている。逆光でよく見えない。
こんな場所に人がいるわけがない。いるとすればそれは――。
その事実に全身が痺れるような緊張を感じた。
人影が飛び、ヴェルナリスの少し前に着地する。
そしておれは絶句した。
――嘘だろ。
黒い布を巻き付けるようにして体を覆い、手には黒く汚れた刀を持っている。
奇妙なのはその顔だった。
浅黒い皮膚。頭は剥げあがり、血管に似た筋が頭を這っている。
左目が一つ、右目が四つ。鼻は二つ、口は一つ。
でたらめに詰め込んだようにちぐはぐに配置されたそれらは、先ほど見た木彫りの表情のそれによく似ていた。何かを訴えかけるような目、大きく開いた口、絶叫の表情は仮面のように動いていない。
それは明らかに人間ではなかった。
絶望に染まった顔で、それは声を発した。何重にも人の声を重ねたような巨大で不気味な音。多数の男の声に混じって、女や子供の声もかすかに聞こえた。
おれは思わず耳を塞いだ。それが人の笑い声を真似たものだと分かると、全身の毛が逆立った。
――恐ろしい。足がすくみ膝が震えた。人間に似たそれは、本能に訴えかけるような強烈な恐怖をもたらした。魔物だ――。
魔物はヴェルナリスを五つの目でじっと見た。そして片手に持っていた黒い刀を振り上げた。
同時にヴェルナリスが腰の刀の柄に触れる。
次の瞬間、ギィンと高い音が鳴った。ヴェルナリスと魔物が刀を触れ合わせていた。
ヴェルナリスが数歩後ろへ引いた。
彼女は凄まじい速度で魔物の周囲を旋回した。
残像が見える。速いなんてものじゃない。これが彼女の本当の実力だったのか。
刀同士がぶつかり合う高い衝撃音が連続して何度も鳴った。
魔物は腕だけを動かしヴェルナリスの斬撃を刀で受け止めているようだった。
魔物は意味不明な何事かを呟くと首を右側へごきんと倒した。
右足を真横へ蹴り上げる。高速で移動していたヴェルナリスの腹にその足がめり込んだ。彼女の動きが止まった。
――まずい!
おれは駆け出した。
魔物が刀を振り上げた。ヴェルナリスは前屈みになり動けない。
――頼む、間に合ってくれ!
ごっ、と短く低い音が鳴り魔物の頭がのけ反った。
魔物の額に短剣が突き刺さっている――。レビアがやったのか。
「うおぉぉおおおお!」
おれは魔物に体当たりをした。
魔物は後方へ吹っ飛び、石壁に激突した。がらがらと音を立てて壁が崩れ、魔物の体を飲み込んだ。
「ヴェルナリス! 大丈夫か?」
彼女の顔を見てはっとした。
ぎりぎりと歯を食いしばり、血走った目で魔物が吹き飛んだ方向を見ている。
瞳孔が開いた瞳は小刻みに震えていた。明らかに正気を失っている。
「クロ、すぐにこちらへ来てください!」
遠くからレビアの声が聞こえた。
振り返る。ルナがしゃがみ込みこちらを見ていた。そのすぐ傍にレビアがいる。
「あれは魔人です! あれぐらいでは死にません! 逃げてください!」
――魔人?
がらがらと音がして、そちらを見た。
魔物――いや、魔人がすくりと立ち上がった。
魔人の額に短剣が深く突き刺さっている。人間なら即死だろうが、苦痛を感じている様子は読み取れなかった。
魔人の目玉がぎょろっと動き、おれを見た。
視線が合う。
全身が硬直した。これが魔人なのか。この生物が何を考えているのか全く分からない。読み取ることができない。それが単純に恐ろしかった。
おれは爪が食い込むほど強く拳を握って、唇を噛んだ。
その痛みで恐怖を和らげる。
突如魔人が背中を向け、奥の方へ駆けていった。
ほぼ同時にヴェルナリスが動いた。
「待て!」
手を伸ばす。
だがわずかに彼女に届かなかった。ヴェルナリスは魔人を追うように走っていった。
「くそ! ……レビア! ルナを守ってくれ!」
ヴェルナリスの後を追う。
太い木がいくつも生えた鬱蒼とした森にでた。森には四角い石材が無数に転がっていて、蔦のある植物が石を覆っている。
彼女は跳躍するように森を駆けている。
少しづつ距離が離されていった。ここから魔人の姿は見えないが、ヴェルナリスには魔人が見えているのだろう。そうじゃなきゃ、あんなに迷いなく走れるわけがない。
少しでも身軽になるようにと、おれは背負っていたバックパックをその場に放り投げた。
走っていくうちに見通しのよい場所へ出た。
崖と崖を繋ぐ古びた鉄橋が見える。
その橋の中央で魔人が立っているのが分かった。魔人は立ち止まり、こちら側を向いている。
――あの場所で迎え撃つつもりなのか。
だが何かおかしい。何故あんな場所で?
「ヴェルナリス! 止まれ! 何か妙だ!」
ヴェルナリスにはおれの言葉は届いているはずだが、躊躇なく鉄橋へ足を踏み入れた。
彼女は魔人へ向かいまっすぐに走ってゆく。
魔人がその場を踏みつけた。ガウン、と凄まじい音がして鉄橋が揺れた。
ヴェルナリスはその場でつんのめるようにして転んだ。
その次にばきん、と大きな音がした。
ぎぎぎと激しい音を立てながら橋の中央が沈んでいく。中央に亀裂が入っている。 橋が折れているのだ。
がくんと鉄橋の中央が落ちた。
鉄橋は今にも断ち切れそうだ。ヴェルナリスが橋を転げ落ちていく。
魔人は橋を脱出し、向こう側へ着地した。
「ヴェルナリス!」
おれは気がついた時、傾斜がついた鉄橋の上を走っていた。
こうしている間にも鉄橋が更に折れ、角度が強くなっている。
おれはヴェルナリスの姿と橋の切れ目を見ながらタイミングを見計らって、
スライディングをした。
足で勢いを調整しながら滑っていく。
ヴェルナリスの腕を右手で掴む。もう片方の手で、橋の手すりを強く握った。
二人分の体重で引っ張られた肘に、痛みが走った。
だが手は離さなかった。
がごん、と鉄が折れる音が鳴った。
突然、浮遊感が襲った。鉄橋が完全に折れたのだ。
崖の下の景色が見える。
手すりに掴まり続けて、どうにか落下を免れた。
ほぼ垂直になった鉄橋を見上げる。
――昇れるか?
いや、駄目だ。この橋は間もなく落ちるだろう。
次に眼下を見下ろした。下は岩場のようだが、木もちらほらと見える。
音が鳴り鉄橋が軋んだ。
まずい、もう壊れる。
――やるしかない。
おれはヴェルナリスを掴んだ腕を大きく振り、彼女を放り投げた。




