第18話 魔物
どうしてこうなった?
隣を見てみる。
おれの体にぴったりと寄り添いルナが眠っている。
「ん……」
耳元で囁かれた。
やばい。なんか頭がくらくらする。
もう一度よく考えてみよう。
おれたちはあれから少し歩き、丘の上の開けた場所にテントを張った。
一人用テントを三つ。おれは相当疲れていたみたいで、すぐに眠ってしまった。
ふと気がついたときルナが隣で眠っていた。
何故? 分からない。眠る前に覗くなと散々言っていた癖に。
「クロ……」
電流が流れたように背中が痺れた。
ルナがわずかに動いて細く柔らかい髪が、おれの頬をくすぐった。
ルナを見る。すやすやと寝息を立てている。
……寝言かよ。
――出よう。ここにいたら駄目だ。いけない気持ちが芽生えてしまいそうだ。
ルナを起こさないようそっと毛布を出た。
テントを開け外へ出る。遠くの空が明るんでいた。もう夜が明け始めている。
ちょうどいい大きさの岩があったので腰をかけて丘の下を見下ろした。
おれたちがいたオルハルト家の屋敷が見える。もうこんなに遠くまで来たのか。
あれだけ広く感じた屋敷もここからだと小さく感じる。
おれは右手を顔の前に上げ指を伸ばした。
レビアを苦しめていた呪縛の指輪を見る。その指輪を触ってみた。
「あれ……?」
動く。
おかしいな。昨日は確かに動かなかった。
皮膚と一体化してしまったみたいに指から全く離れなかったはずだ。
ぐりぐりと回転させながら指輪を動かしていく。
すぽっと指から外れた。
何故だ。
外せないんじゃなかったのか?
背後から物音がして振り返った。
レビアがテントから出てくるところだった。こんな朝でも身だしなみはいつも通りの彼女だった。
おれに気がつくと柔らかい仕草でスカートを持ちちょこんと頭を下げた。
「クロ。おはようございます。早いのですね」
どうしよう。指輪を見せるべきだろうか。
少し考えて見せることに決めた。不安にさせてしまうかもしれないが、おれの分からない問題が起きている可能性がある。
「おはよう、レビア。なあ、見てくれないか?」
「どうしたのですか?」
レビアがおれに近づいた。
おれは指輪をつまむようにして持ち上げた。
「外れた。なんでだか分かるか?」
レビアは目を大きく開き、指輪を見つめた。
「…………すみません、分かりません」
レビアにも分からないか。
「まさか譲渡が上手くいってなかったのか?」
「いえ、指輪を介して術が発動することは間違いありません。ですから確実に所有権はクロにあります。でもどうして……」
今考えたって分かることでもないだろう。
ひとまずナレードに殺される心配はなくなったのだ。とりあえずよしとするか。
「詳しくはエーデルランド領に到着したら調べてみよう。それで他の指も外れそうだけど、どうする? レビアが持ってるか?」
レビアは首を横へ振った。
「いえ、クロに身につけていてほしいです。そのほうが安心します」
「……分かった」
指輪を指へ戻す。サイズはちょうどぴったりだ。
「無くしたりしないから安心しろ」
レビアの信頼に応えなければ。と自分に言い聞かせた。
「隣に座ってもいいですか?」
「うん」
レビアが隣へ座った。
「レビアも起きるのが早かったな」
「わたしはいつもこれくらいですよ」
あれ、今笑ったかな。
「朝の空はこんな色をしていたんですね」
「ん、あぁ。そうだな」
夜と朝が美しいグラデーションを奏でて奥に向かっている。
「そういえば落ち着いて見るのは初めてだ」
「わたしも、初めて朝の空を見た気がします。――次の日が待ち遠しいと思いながら眠りにつくなんて、こんな風に見える朝が来るなんて。夢みたい。でも夢じゃなくて、ちゃんとわたしは起きてるんです」
レビアが微笑んでいた。
朝日を浴びた彼女の瞳は希望に満ちていて、ただそれだけでおれは目を奪われた。
「どうしました?」
「あ、いや」
と動揺を隠しながら答えた。
「昨日はどきどきして眠れませんでした」
彼女のグリーンの瞳から、大粒の涙がつうっとこぼれた。
「ど、どうした?」
「あ。あれ。おかしいです。また涙が」
レビアは手の甲で涙を拭き取った。
「泣き虫になってしまったかもしれません」
「はは。いいんじゃないか? それで」
朝日が徐々に強くなってきている。もう夜は明けた。
がさごそと音がした。
「眠い~」
振り返るとテントからルナが這いずるように出てきた。
す、すごい髪だ。
「……どうしてルナがクロのテントから出てくるのですか?」
あれ、怒ってる? と、レビアの声色を聞いて瞬間的に思った。
レビアをちらりと見る。
いつの間にか泣き止んだようだ。やっぱり怒ってる……。
「あ、二人ともおはよう。早いのね」
「ルナ、どういうことだ? 説明しろ」
「ん~? なによぉ」
なんてだるそうな返事なんだ。
「なんでおれのテントで寝てたんだよ」
「あ……、ああ! あ、あはは。寝相が悪かったみたい。ご、ごめんね」
そんな寝相があるわけないだろう。
まあ話したくないみたいだしいいか。
「少し早いですがテントを片付けて出発しましょう」
レビアのその言葉を合図に、おれたちは片づけを開始した。
途中から山道と呼んで差し支えないであろう場所へ差し掛かった。
体を絶えず動かしているおかげか寒くはないが、風が冷たくなっているのは肌で感じて分かった。かなり高所へ来ているようだ。
後ろに目をやる。ルナが辛そうな顔で歩いている。
ここまで休憩なしで歩いてきているが、大丈夫だろうか。おれでも結構疲れを感じている。女の子の足では大変だろう。レビアはなんでもないようだが。
「レビア、そろそろ休憩にしないか」
「はい。そうですね。そろそろお昼にしましょう」
ルナはふらふらとその場に崩れ落ちた。もう限界だったみたいだ。
ルナが何も言わずに耐えていたのは正直意外だった。
座る場所を探す。段差がついて階段のようになっているところがあったので、そこに三人並んで座った。
「携帯食料がバックパックに入っています」
バックパックを漁る。
これだろうか。小さな缶詰を一つ取り出した。
「クラッカーです。お腹はいっぱいになりませんが、栄養面では問題ありません。あとはガムがありますので、ゆっくり噛んでください」
一食でこれだけしかないのか。
エーデルランドまでもてばいいが。
缶詰を開ける。
クラッカーを一枚持ち上げて口に放りこんだ。味も薄くてあまり感じない。口の中がぱさぱさしている。
ルナがクラッカーを両手に持ちじっと見ていることに気がついた。
「どうした?」
「ううん、何でもない」
ルナはクンクンと匂いを嗅ぐようにしてからぱくりと噛りついた。
「行儀が悪いぞ」
「う、ごめん……つい癖で」
ルナは次の一枚からは普通に食べはじめた。
なんだか小動物を思い出す食べ方だった。
「今のところ順調に来ているのか?」
「そうですね。順調だと思います。このまま明後日にはエーデルランド領に入れると思いますよ」
「そっか。安心した」
言いながらひょいっともう一つクラッカーを口へ入れる。
こんなので栄養があるというから不思議だ。
ルナが突然立ち上がった。
ある方向をじっと見つめている。
「何か聞こえる……」
顔が青ざめていくのが見てわかった。
「どうした? ルナ」
「何よ、これ。やだ……」
ルナは両手で頭を抑えるようにした。
何か聞こえるか? とレビアに目配せをする。
レビアは首を振って否定した。
「怖い……」
その豹変ぶりを見て、おれは立ち上がった。
ルナの正面に立って、彼女の両肩を掴んだ。
「ルナ、落ち着け。何か聞こえるのか?」
「どどどどって。何か変な音が聞こえるの」
「どどどど?」
「何かが近づいて来てる」
おれには聞こえない。だがおれは知っている。あの森で同じような場面があった。ルナには何か聞こえているのだろう。
「どっちから来るんだ?」
「あっち。それとあっちからも」
指を順番に指す。一方向だけではないようだ。目をこらして見てみたが、何かが動いているような気配はなかった。
「とにかくここを移動しよう」
クラッカーがまだ残った缶詰をバックパックに詰め込み立ち上がる。
レビアもすでに準備ができているようだ。ルナも落ち着きを取り戻したのか、同じように準備を整えた。
嫌な胸騒ぎがする。鼓動が早まっているのをおれは感じた。
「ルナ、どっちへ行けばいい? おまえが案内してくれ」
「うん」
道を外れ山へ入り込む。
斜面になっているのに加えて地面がぬかるんでいる。走ると滑ってしまいそうだ。ルナを先頭にして木々の間を縫っていく。
「嘘……。こっちに来てる。どうして?」
得体の知れないものに追われている。そう思うと背筋がぞくりとした。
一体何が来ているというのか。
振り返る。何も見えない。
その時――。何か不気味な音が聞こえた。
地鳴りのような音。音は激しさを伴いながら近づいてきている。
「急いで!」
「なんの音なんだよ! これ」
おれたちは走り出した。
足音だとしたらおかしい。
轟く音からして巨大なのは分かる。だが、速すぎる。小さな鼠が全力で走っているような速さだ。
こんな速度で動ける巨大な生き物は、おれの知識にはない。
「もうそこまで来てる!」
ルナが叫んだ。
走っているはずなのに、体が冷たく感じられる。この不気味な地鳴りに、おれは恐怖を感じているのだ。
ルナが呻き声を上げ、転倒した。
「ルナ!」
ルナを追い越してしまい、慌てて振り返った。
そして気付く。
――嘘だろ。なんだよ、こいつ。
木の影から巨大な生物が飛び出していた。
黒い毛の覆った熊に似た巨躯。その頭部は角の生えた山羊によく似ていた。
口から涎をたらし低く唸っている。
感情のない黒い目玉が、ルナとおれを交互に見た。
化け物が二足で立ちあがる。
人の二倍はあるだろうそれは、凄まじい圧力をもってルナの方へ動いた。
「ルナ!」
おれはルナへ向かって駆ける。
――間に合え。間に合ってくれ!
化け物の腕が伸びる。
ルナは動けない。殺される――。
「呪術――緊、伍鳴帯牢」
瞬間、そう声が聞こえた。
ほぼ同時に、おれはルナに飛びつくようにして、その場に転がった。
ルナを抱いたまま上半身を起こし状況を確認する。
化け物の足元から黒い帯がいくつも伸び、その巨大な体を絡めとっていた。
化け物に向かって人影が飛翔した。
レビアだ。
俊敏な動きで化け物の肩へ飛び乗ると、レビアは腕を大きく振りかぶり、化け物の頭部へ短剣を突き刺した。
化け物の鳴き声が轟く。
耳を塞ぎたくなるような巨大な声だった。
「呪術――解、重門陸過」
レビアがそう言うと、化け物の体が一瞬びくりとのけ反った。
そして。頭部を中から食い破るように、黒い影が爆発した。化け物の眼や耳、口から、黒い帯が蠢いていている。
レビアが跳ぶ。おれの傍に着地する。
すぐあとに化け物が倒れた。地面が揺れるような衝撃があった。
レビアに声をかけようとしたとき、雷鳴のような咆哮が遠くから聞こえた。
他にもいるんだ。似たようなやつが。
それも一体だけじゃない。少なくとも二方向から咆哮は聞こえてきた。
「行きましょう。向こうに坑道の入り口らしきものを見つけました」
おれは返事もできず、ルナを抱いたまま立ち上がる。
レビアの後を追って走る。
またあの不気味な地響きが聞こえてきた。
化け物が近づいてきている。
岩肌を抉りとったような坑道の入り口が見えた。
一直線に走る。
もう何も考えられなかった。
地響きがすぐ近くまでもう来ている。
背中にねっとりと不気味な温度を感じている。
走れ。
すぐ後ろに化け物がいる。
息遣いまでもう聞こえる。
おれは悲鳴を上げ、がむしゃらに足を動かした。