第13話 変化
目が覚めて瞼を開いた。
おはようございます、と声が聞こえた。
そちらを向くとレビアが立っていた。レビアの様子は昨日の朝と同じように見えた。
おはよう、と言いながらベッドから体を起こし、大きな欠伸をした。
それから昨日と同じようにルナの様子を尋ねた。
「まだルナ様は眠っていらっしゃいます。ですがそろそろ目が覚めてもおかしくないかと思います」
「うん。起きたら教えてくれるか」
「かしこまりました」
立ち上がって屈伸をする。体を動かすと徐々に覚醒していくのを感じた。
この屋敷で迎える二日目の朝だ。――いや、最初に気を失っていた時を含めると三日目か。
「今日も本を読まれるのですか?」
「そうだなー。そうしよう。っていうか他にすることもないし」
「それでは昨日と同じものを持ってまいります。少々お待ちください」
「途中まで一緒に行こう」
一緒に部屋を出て途中で別れた。
トイレに行き、それから洗面台で顔を洗って歯を磨いた。
歯を磨きながら昨夜のことを考える。
帰り道、レビアは何か考え事をしていたようで、話しかけてもすぐに会話が途切れてしまった。
そして何事もなかったかのように部屋戻り、それからすぐシャワーを浴びて眠ってしまった。
だからレビアとはあまり会話をしていない。
熱くなっていたとはいえ、思い切ったことをしたもんだと我ながら思う。
冷静になって考えてみると、もう外に出るのは難しいかもしれない。レビアはナレードさんへ報告するだろう。きっとロックも厳重になる。
部屋へ戻る。
レビアはもう戻っていた。テーブルのそばでピンと背筋を伸ばして立っている。一人で待っている間もこの姿勢だったのだろうか。
テーブルには本が綺麗に並んでいた。
椅子に座り、異世界にようこその本を開く。物語は中盤に差し掛かっている。
「今日もレビアは立っているだけか?」
はい、と答えが返ってくるものと思っていると、
「わたしも本を読んでいいですか?」
と小さな声で返事があった。
驚いている黙っていると、
「駄目ですか?」
とレビアは言った。
「だ、駄目なわけないだろ」
レビアはテーブルの上に置いてあった本の中から一冊を取り上げさっと胸で抱えるようにした。表紙は見えなかった。
「座ってもいいですか?」
座らずにどうやって読むつもりなのか。
「いいよ」と言うと、おれが座っている場所の斜め後ろに椅子を置いて、ちょこんと前の方に座った。
本を大事そうに抱えたまま、じっとおれの胸のあたりを見つめている。
「どうした? 読まないのか?」
「クロ様が読み始めたらわたしも読みます」
「何の本を読むんだ?」
「……言わないと駄目ですか」
「いや、別にいいけど」
なんだろう、気になる。
でも嫌がっているみたいだし、まあいいか。
おれはテーブルへ身体を向けて本を開く。
少しして、後ろからページをめくる静かな音が聞こえてきた。
静かで心地よいものが部屋に満ちる。
ゆっくりと時間が過ぎていった。
昼食を終え少ししてから扉の戸が叩かれた。
女性の声がレビアを呼んだ。
扉を開けて小声で誰かと話をしている。
しばらくしてから扉が閉まり、レビアがこちらを振り向いた。
「ルナ様がお目覚めになられたそうです」
「本当か?」
おれは思わず立ち上がった。
「会えるのか?」
「はい。ですが目が覚めただけで、まだ安静にする必要がございます。少しの時間しか会えないと思います」
「構わない。今から行けるか?」
「はい。それでは参りましょう」
レビアととも部屋を出る。
ルナの眠っていた部屋の前に着くと、レビアが戸を叩いた。
やや間が合ってから「は、はい」と声が聞こえた。
ルナだ。ルナの声だ。
レビアが扉を開き、入るよう促した。
少しばかり緊張を感じながら部屋へ入る。
ベッドへ目をやると、毛布が丸くなっていた。
「ルナ?」
ベッドへ近づく。毛布がびくっと動いた。
しかし毛布に包まったままルナは顔を出さなかった。
「ルナ? 何やってんだ? どうかしたのか?」
「クロ?」
毛布からまず指が出て、そろりそろりと毛布が下がっていく。
まず銀色の髪が見えた。やはり獣の耳がないようだ。
毛布が下がっていき、次にルナの瞳が見えた。赤い瞳と目が合う。――良かった、と瞬間的に思った。
「クロ。こっちに来て」
潤んだ瞳で見つめられる。
「な、なんだ。どうした?」
「お願い」
彼女の切ない顔に何も言えず、おれは言われたとおりに膝をついてルナへ体を寄せた。
どうしたんだろう。混乱して不安になっているのだろうか。
「ぎゅってして」
「……は?」
「ぎゅってして、早く」
こいつ、こんな奴だったか? と狼狽えているうちに、ルナに抱きつかれた。
「お、おい! どうした。変だぞ、おまえ」
「クロ! 会いたかった!」
「や、やめろ! うわ! 耳を噛むな」
不安になってキャラが変わったのか? それとも元々こういう奴だったのか?
ルナの吐息に体が痺れている最中、耳元で、
「耳と尾には触れないで」
と、おれだけに聞こえる小さな声がルナが言った。
どきっとして一瞬体が固まった。ルナがすっと離れる。
ルナは平然としているように見えた。混乱しているわけでも不安になっているわけでもなさそうだ。むしろ強い意志のようなものを彼女の瞳に感じた。
「ここで目が覚めた理由は使用人の女の人に聞いたわ。ありがとう、クロ」
「あ、ああ。もう大丈夫なのか?」
「うん。まだ体が鈍い感じがするけど。大丈夫そうみたい」
そう言いつつも、まだ顔色は優れていないのは見て分かった。
レビアの言う通りまだ安静にする必要があるのだろう。
「クロは、その、自分のことを思い出せた?」
「いや、まだ駄目だ。とりあえずおれが普通の男じゃなさそうだ、ってことは分かったけど」
「そうよ。本当にびっくりしたんだから」
ルナは頬を膨らませ、ぷいっと窓の方を向いた。
その顔を見て笑いそうになる。顔色は悪いけど、これなら大丈夫そうだ。
静かな足音が聞こえて振り返った。
入口付近にいたレビアが近づいてきている。
そろそろ終われということか。まだ全然話足りないが、ルナの体を考えると引き上げた方がよさそうだ。
「そろそろ行くよ。また来るからな」
「……うん。ありがとう」
ルナは再びベッドへ横になった。
もしかして無理をさせてしまっただろうか。ルナはもぞもぞと動きながら何故か頭まで毛布を掛けた。
自分の部屋に戻り、読書を再開する。
本を眺めながら、ぼんやりと考え事をした。
ルナの目は覚めた。
おれも少しづつだが知識をつけている。
背筋を伸ばしながら、のけ反るようにして何気なくレビアを見た。
レビアはこれからどうしていくのか。自分を人形と思いながら、心がないと言いながら、ずっとここで使用人を続けるのだろうか。
レビアはずっと読書に夢中になっている。
おれが見ていることに気がついていないようだ。ふと本の表紙が目に入った。悪いと思いつつもタイトルに目が行ってしまう。
えっと――【恋する夜のすてきなデートスポット100選】
「は?」
と思わず声が出た。
レビアがおれに気づき、ばっと本を背中に隠した。
「……見ましたか?」
「み、見てない!」
「本当ですか」
こくこくとおれは頷いた。
お、怒ってる? いや、恥ずかしがってる?
「見てないからな」
おれはテーブルの方へ体を向け、彼女から目を逸らした。
彼女の怒ったような恥ずかしがっているような顔を見て、おれは妙にどぎまぎしてしまっていた。無表情じゃないというだけで、こんなに動揺してしまうとは。
しかし何故そんな本を――と一瞬考えたが、すぐに昨日のことを思い出した。
ページをめくる音がし始めるのを待ってから、気がつかれないようにもう一度レビアの顔を見た。
レビアは真剣な眼差しを本に向けていた。
自分が行きたいと場所を探していらのだろうな。そうだったらいいなと、おれはそう思った。
夕食を終えたあと、再びノックの音が鳴った。
今日はよく扉が鳴るな、と思った時、扉の向こうから声がした。
「ナレードです。入ってもよいですかな」
おれは本を置いて立ち上がった。
「はい」
レビアが扉を開ける。
ナレードさんが入ってきた。
「今のところの状況をお伝えしようかと思いましてね。どうぞお座りください」
小さな目がおれをじっと見ている。
おれもナレードさんも椅子に座る。レビアはナレードさんの後ろに立った。最初にこの部屋で話したときと同じ構図だ。
「まず他国の状況ですが、目ぼしい情報はやはりないようですな。まああったとしても隠されているでしょうが」
「そうですか」
本で得た知識を思い浮かべる。
先導士は十歳になって初めて認められるものの、幼少期から既に髪や目が薄くならないという特徴が出ている。
つまり子供の時から特別視され、国に、あるいは組織に、何かしらに巻き込まれていく。先導士とはそういうものらしい。
つまりおれのように突然ひょこっと現れる先導士などは稀なケースということになる。例がないわけではないようなのだが、詳しくは記載されていなかったので、今は省こう。
先導士は国や歴史、時代を変える程の大きな存在だ。かつてたった一人の先導士をめぐり国同士の戦争が起きたこともあるらしい。おれもどこかで大きな存在として扱われていた可能性が極めて高い。
もしも先導士が行方不明になっていたとしても、混乱を避ける為にその情報が隠されている。
そう考えるべきだろう。
「記憶の戻し方についても詳しくは分かっていません。そのような魔法もあるにはありますが、先導士様の場合とどうも違うようで……。レビアから聞きましたが、何しろマナの扱いすらもお忘れになったと。――本当ですかな」
「はあ。情けない限りですが、そのようです」
ナレードさんが懐に右手を入れた。何かを持ち、さっと胸の前に差し出す。
掌の上に歪な形の石が乗っている。これは――。
「魔石です。先導士がマナを込めると、魔石は黒く変色すると言われています」
そうだったのか。本になかった知識だ。
ふと仮面の女のことを思い出した。奴はおれが先導士かどうかを見極めようとしていたのか?
「レビア。魔石を先導士様へお渡ししなさい」
ナレードさんの声にいったん思考を打ち切った。
魔石を受け取ったレビアがおれの方へ近づいてくる。右手を差し出すと、その上に魔石が置かれた。
「いかがですかな? やはりマナは扱えないですか?」
石を握ってみる。
人は皆、手や足がそこにあるのと同じように、自身の体内にマナを感じてるらしいが。
おれには何も感じるものがない。
「すみません。駄目なようです」
「はあ、そうですか。マナから何か分かればと思ったのですが」
彼の左の眉がびくびくと震えた。
「本当に――残念ですなあ」
それから天井を見上げ、顎を右手でさする仕草を見せた。
何故だろうか。
おれは彼のその姿を見て、不気味と感じてしまった。
ナレードさんは立ち上がる。おれも合わせて立ち上がった。
「そうそう。先導士様。レビアはいかがですか。何か粗相をしていないでしょうか」
昨夜のことを咎められるかと思ったが違ったようだ。
心の中でほっと安堵した。
「とんでもないです。レビアには感謝の言葉もありません」
「ははは。そうですか。それはよかった。――先導士様に限ってはどんな命令も実行せよときつく言いつけてありますから。どうぞご自由にお使いください」
レビアが扉を開いた。
彼はこちらへ向くと、
「突然申し訳ありませんでしたな。それでは、また」
と朗らかな顔を浮かべて、それから部屋を出ていった。
扉が閉まる。レビアと二人、静かな部屋に残される。
おれは立ったまま呆然と扉を見つめていた。
彼は最後に何を言っただろうか。
思い出そうとすると、腹の底から熱いものが込み上げてきた。たぶんこれは、怒りだ。
レビアの無表情を見ると、今度は胸が締め付けられるように苦しくなった。
ふとノックの音とともに、
「レビア、こちらへ」と女性の声が聞こえた。
レビアが扉を開き、小言で何やら話をしている。
少しすると、
「クロ様。申し訳ございませんが少しの間この部屋を離れます」
と言って、レビアは部屋を出ていった。