第12話 誘惑
おれは読書を再開したが、どうも集中できなかった。
声を出しているわけでも、動いているわけでもない。なのにおれはレビアの存在を感じていた。
さっきまで何も気にならなかったのに。彼女が発する気配が変わったのだ。
おれは本をぱたん、と閉じ立ち上がった。
「レビア」
おれはレビアの正面に立つ。
彼女の表情は相変わらず氷のように冷めきっている。だが何故だろう。何か思い詰めているように感じる。
「何かあったんだろ。どうしたんだ」
「何でもありません」
そんなわけない。
だったらおれが感じているものはなんだ。おれは自分の心を信じている。過去がない分、少しでも感じたことを大事にしなければいけないのだ。
「言いたくないのか?」
「本当になんでもないのです」
本を読み先導士がどれだけ大きな存在かということについては多少理解が深まった。
その先導士の世話をしているレビアが急に変わったのならば、それは多分、先導士――つまりおれが関係しているのだろう。
「おれにしてほしいことがあるなら言え」
これで何か分かるはずだ。
そう思ったが、考えていなかった言葉が返ってきた。
「逆にクロ様がしてほしいことはないのですか?」
「は? なんでそうなるんだよ」
「わたしは使用人ですから。わたしはあなたの道具なのです」
レビアはおれにそっと近づいた。
胸に顔を押し付けるように体を寄せる。ふと女性の甘い香りが鼻をくすぐった。
「わたしに魅力を感じませんか? わたしにどんなことをさせても構わないのですよ」
レビアの雰囲気が変わる。
細い指が円を描くように動き、おれの胸をなぞった。
「わたしを、わたしの体を、貴方の好きなように、自由に使っていいんですよ」
麻薬のような甘い声だった。
「なんでもしますよ。貴方のしてほしいこと……どんなことでも」
抱きしめられる。腕を背中に回される。柔らかい女の体を胸に感じた。
頭が真っ白になる。
沸々と腹の奥で熱いものがたぎるのを感じた。
「――いい加減にしろよ、おまえ」
おれは自分でも驚くほど、怒っていた。
レビアの肩を掴んで引きはがし、彼女を強く睨みつけた。
「何がしたいんだ、おまえ」
レビアはおれの手を掴み、肩から外した。
「わたしに目的などありません。ただ貴方のお役に立てるよう提案をしたまでのことです。お気に触ったのでしたら、申し訳ございませんでした」
レビアは頭を下げた。
レビアのような生き方もあるのか? そんな生き方もあるのかもしれない。無いなんて言いきれない。おれには知識がないからそれが分からない。
でも。
でも、それは絶対に間違っている。あったとしても間違っているんだ。そんな悲しいことが正しい姿であるはずない。
レビアが頭をあげる。
「夕食の準備をしてまいります」
レビアは何事もなかったように部屋を出ていった。
戻ってきたレビアと会話らしい会話を交わせないまま夕食を終えた。
その後も本を読むふりをしながら、レビアのことを考えていた。
何をすれば彼女の言葉を否定できるのか。
過去のないこのおれに何かできることがあるのか。
考えがまとまらず、少し視点を変えてみることにした。自分ではなくレビアを軸に置いてみると、ある考えが浮かんできた。
おれは実行に移すことにした。
「なあ、外に出たい」
「外、ですか。残念ですがそれはできません。クロ様は先導士様でいらっしゃいます。誰かに姿を見られては混乱が起きてしまいます」
「頭を隠しておけばいいんだろう」
レビアは首を左右へ振った。
「正直に申し上げますと、この部屋を含めこの一画は外側からも内側からもロックが掛かっています。窓を開けることもできなければ、大広間への扉を開くこともできません。記憶がない貴方には理解していただけないかもしれませんが、先導士様を保護するとはそういうことなのです」
窓が開かない?
おれ、さっき開けたよな。
窓へ近づき手をかけた。
ごく自然にカチャリと音を立てて窓が開く。風が吹き込んでレビアの水色の髪をなびかせた。
「……どのようにして開けたのですか?」
「さあな。でも開いたぞ。窓を乗り超えるだけで外へ出られる」
「ナレード様を呼んでまいります。申し訳ありませんが直接お話ください」
部屋を出ていこうとしたレビアの腕を掴んだ。
瞬間的に、この機を逃せば外に出られなくなると思った。
「おまえも一緒に来い。レビア。混乱が起きるというなら、そうならないようおまえがおれを補助するんだ」
「――クロ様はわたしを困らせたいのですか? 貴方が何を望んでいるのか分かりません」
「案内役が必要なんだよ。おれと一緒に来い」
「それは命令ですか? すみませんが聞けません。わたしに判断できることではございません」
「違う。脅迫しているんだ。おまえが協力しないならおれは一人でも外へ出る。混乱が起こるだろうな。なんたって、おれには記憶がない」
おれは声色を意識して変えた。
「どうする? おまえの判断でオルハルト家の将来が変わるかもしれないぞ。先導士を保護するってのは、外に逃がさないようにするってことなんだろ」
「……。見損ないました。こんなにひどい方にわたしは奉仕をしていたのですね」
ふん、と鼻で笑ってから、
「心のない道具なのに嫌悪はするのか?」
と言った。
レビアの顔が一瞬ぴくりと動いたように見えたが、すぐにまた無表情に戻ってしまった。
「どうするんだ? さっさと決めろ」
レビアは考える素振りを見せてから、
「従います」
と、小さな声で言った。
一旦別の部屋へ行き、頭を隠せる服と歩きやすそうな靴を手に入れた。それからおれもレビアも黒いフードのある服を羽織り、窓から外へ出た。
夜の風が頬を撫でた。
かすかに草や土の香りを含んでいる。深呼吸してみると心地よさが全身を巡った。
「それで、どこに行かれたいのですか?」
「そうだな。近くにあるなら街が見てみたい」
「街ですか。かしこまりました」
広い敷地を歩く。徐々に屋敷が遠ざかっていく。
見張りがいないか注意深く辺りを見たが、どうやらいないようだ。
少し歩くと、石で造られた高い塀が見えてきた。道具なしでは乗り越えられそうにない。
塀の淵をなぞるようにして視線を右へ送っていくと、明るくなっている場所があった。あそこが出入り口なのだろう。
「あそこが出口か」
「ついてきてください」
出口へ向かい歩いていく。
鉄柵の門がある。その両端に軽鎧を身につけた門番が二人立っているのが見えた。
腰には刀を挿している。このデザインは見たことがある。森で出会った連中と同じものだ。あの連中はオルハルト家の兵だったのだろうか。
レビアはごく自然に近づいていく。
おれもそのあとに続いた。
自分の頬が強張るの感じた。緊張感が高まっていく。
「レビアです。外出します」
門番は気を付けの姿勢を取り、短く返事をした。
「そちらの方は?」
と、のぞき込まれるようにして顔を見られた。
「見習いの使用人です」
じろじろと顔を見られる。
おれは唾を飲み込んだ。
「見習いの使用人? 聞いていませんが」
訝しげな顔を浮かべた門番が、おれに近づいてくる。
「顔をよく見せなさい」
右腕が伸びてきた。
どくりと心臓が鳴った。
おい、まずいぞ。顔を、頭を見られる。
指が迫る。顔の前に近づき、フードに指をかけら――
「すみませんが急いでいるのです。遅れれば貴方達の責任が問われますよ」
指が止まった。
レビアは鉄柵に近づいて、無言の催促をした。
門番は慌てた様子で開門した。
平然と歩いていくレビアに続き、敷地の外へ出た。
少し歩き門が見えなくなったところで、
「危なかったな」
とおれは言った。
聞いているのかいないのか、レビアはこちらを見ない。
先ほどの一件で随分嫌われてしまったようだ。
「おまえも緊張しただろ?」
レビアはその言葉にいったん足を止めおれの顔を一度見て、また前をツイっと向いた。
それから小さな声で、
「何も感じていません」
と言った。
夜の道を歩く。
小路の脇に生えている草や、遠くで影になっている山の稜線や、月や星を眺めながら、ゆっくりと歩いた。
緩やかな夜の風が吹いていて、ぱたぱたと服をなびかせた。
歩いていくうちに、遠くに明かりが灯っているのが見えてきた。
「あれが街か」
街へ近づいていく。
仮面の女に襲われたあの場所は、村というか集落のような感じだったが、この辺りはもう少し近代的なように感じる。
石畳の道が整備されていて、大小様々な家が立ち並び、窓から零れた明かりが、街路をほんのりと照らしていた。
「人だ……」
道の奥に人影がいくつかあった。
談笑しながらこちらへ歩いてきている。薄暗くてよく分からないが、髪の色は黒ではないように見えた。
「曲がってください」
レビアに腕を引かれ狭い路地へ入る。
「あまり人に見られたくありません」
「分かってるよ」
建物と建物の間の狭い路地を二人で進む。
左右に何回か曲がったとき、何か甘く香ばしい匂いを感じた。
「なんの匂いだ?」
「おそらく屋台が出ているのでしょう」
匂いに釣られるように進むうちに、やがて喧騒が聞こえてきた。
これだけ多くの人の気配を感じるのも初めての経験だ。
路地を進むと大通りに突き当たった。
路地から顔だけ出し左右を見る。夜にも関わらず多くの人が行き交っている。
「屋台ってあれか?」
屋台の前に列ができている。
その誰もが金髪や茶髪、赤毛だったりで、本当に黒い髪の人間はいないんだな、と実感した。
「何を売ってるんだ」
「トウモロコシを焼いて売っているようです」
「へぇ。いい匂いだな」
どんな味で、どんな食感がするのだろう。
知識としてはあるのだが、実際にどういう味なのか想像もできない。
「レビアは食べたことあるか?」
レビアは首を小さく横へ振って「ありません」と答えた。
「食べてみたいと思うか?」
「分かりません。考えたこともありません」
「おれは食べてみたい。どんな味がするのか気になるだろ。こんなにいい匂いがするんだ。きっと美味いに違いない」
「でもお金を持ってきていません」
「それは残念だ」
食べてみたい。次はいつ来れるだろうか。
いや、その前に稼がないといけないな。どうやって金を稼げばいいのか。それすらもよく分からないが、とりあえず目標が一つできた。
「人が来ます。こちらへ来てください」
来た道を引き返す。しばらく進んでから別の路地へ入った。
左右へ何度か曲がる。まるで迷路のような道だ。
「レビアはこの道を知っているのか?」
「はい。もう少し行くと広い道に出ます」
そうなのか。
ってことは、ずっと屋敷の中にいるわけではないということなんだろう。
何度目かの角を折れた時、道の先で何かが輝いているのが見えた。
――なんだろう。
光に導かれるように進んでいき、路地を抜ける。
そして目の前に現れた光景に、はっと目を奪われた。
目の前いっぱいに広がる満天の星。そして、その星空を鏡のように写した湖。
まるで意志があるかのように湖全体が輝き揺らめいている。水面の動きに合わせ星が瞬いているのだ。なんという美しさだろう。
柵に寄りかかって湖を見る。
「綺麗だ」
と、思わず呟いた。
「レビアも綺麗だと思うだろ」
「分かりません」
「じゃあなんでおれを連れてきたんだよ」
「たまたま来ただけです。わたしは星や湖を綺麗だと思ったことはありません」
レビアの横顔を見つめた。
部屋で見た時と同じ無表情だった。でもなぜだか、おれには彼女が泣いているように思えた。
レビアはおれの視線に気がついたのか、
「何故外に出たかったのですか? わたしには貴方の目的が分かりません」
と言った。
「そうだな――」
どうしようかと考えたが、正直に言おうと決める。
「本当はおまえを外に連れていきたかったんだ」
「……え?」
「あの屋敷にいたらレビアは使用人でしかいられないんじゃないかと、なんとなくそう思った。だから外に行きたかった」
レビアはしばらく何も言わず湖の輝きを見つめていた。それから、
「貴方は不思議な人です」
そう呟くように言った。
「今まで色々な方に奉仕をしてきました。でも、貴方のような人は初めてです」
「そりゃそうだろう。記憶がない人間なんて滅多にいないだろうからな」
「――そうではありません。わたしのような使用人に関心される方はこれまで出会ったことがありません。道具だとお伝えすると、最初は小さな要求から始まるのですが、最終的には本当に道具のようにわたしを使います。わたし個人のことを考えてくださる方など、これまでいませんでした」
沈黙が流れた。
「どうしてわたしに関心なさるのか、聞いてもいいですか」
「それは――おまえが自分には心がないと言ったからだ」
レビアがおれを見た。
「レビアが心がないと言った時、絶対に否定してやりたいと思った。そう思ったのはたぶん、おれには記憶がないからかな。記憶がないから、おれは自分の心や思考にすがるしかない。だから心のない人間なんていないと、そう言いたかったのかもしれない」
「――そうだったのですね」
おれは体をくるりと回して、柵にもたれるようにして夜空を仰いだ。
たまたま屋敷の傍にあった街に、こんな景色があったんだ。世界にはもっと色々な感動があるのだと思う。
「明日の夜、また別の場所に行こう」
「明日も、ですか」
「今度はレビアの行きたい場所へ行くんだ」
「わたしは……、行きたい場所などありません」
おれはレビアに体を向け、彼女の目を見つめた。
「頑張れ。考えてみろ。きっとあるはずさ」
レビアが上目遣いでおれを見た。
「それは命令ですか? それとも脅迫ですか?」
おれは「お願いだ」と答えた。