第01話 忘却の黒
月――。
目を覚ましたとき、柔らかな輝きが夜の中に浮かんでいた。
ぼんやりとそれを眺めていると、どこか遠くから、リイリイリイと虫の声が聞こえていたことに気がついた。
体をゆっくりと起こした。ここはどうやら森のようだ。
長く縦に伸びた影、よろよろと曲がった影、斜めに伸びた影、細い影、太い影。
それらが幾重にも重なり、奥の暗黒まで続いている。
――ここ、どこだ。なんでこんな場所に?
体へ目線を落とす。所々が破れた黒っぽい革の服を着ていた。
この暗闇でも、泥でひどく汚れているのが分かった。
――あれ、変だ。
風が吹いた。木々の葉のこすれる音が一斉に鳴りだした。
肌寒さを感じて、二の腕を抱えるようにした。
――おかしい。
心臓を潰されているような息苦しさを覚えた。
動悸が高まるのを感じる。
声を出そうとして、喉に痛みが走った。かすれた声が喉からこぼれた。
――思い出せない。
記憶をすくおうとしてみても、そこには何もなかった。
何もない。欠片さえも見つからない。この夜の森と同じ、どこまでも深い黒。べったりと黒く塗りたくられたそれは、もう二度と元に戻らないように思えた。
顔をべたべたと両手でまさぐった。
おれはどんな顔をしているのだろう。掌が冷え切っていてよく分からない。
そこにじっとしているのが怖くなって、勢いよく立ち上がった。
とにかくここを移動しよう。歩き出せば、何か思い出すかもしれない。
もう一度周囲を見渡した。鬱蒼とした木々が広がるばかりで、道は見当たらない。
なるべく歩きやすそうな方向を一つ選んで、そちらへ歩くことにした。
月の明かりを頼りに、暗黒の森を進む。
落ちた枯れ葉の下に、太い根っこが無数に走っていて、ひどく歩きづらかった。
暗闇を歩いていると、そこに身体が溶けて混じっていくような錯覚を抱いた。
体が、心が、薄まって、拡散していく――。
頭を振って妄想を振り払う。
気分を変えようと、そこに立ち止まって高い木々の葉の影に切り取られた丸い夜空を見た。
月を見ると、なぜかほっとした気持ちになった。
身体が温まってきたのを感じてから、声を出す練習をした。繰り返しているうちに、徐々にまともな声が出せるようになった。
男の声だ。多分若い。そしておそらく低い方だ。
この知識はどこから来るのだろう。
何も思い出せない。だけど、物事を考えられる。感じることはできる。
きっと自分の思考や感情は、あったはずの過去の延長線上のものに違いないのだ。
そう考えると、少し気が楽になった。
「なんだ……?」
葉擦れの音に混じって、妙な音が小さく聞こえた。
音の聞こえた方に歩いていく。音は小さいが継続している。
音が近づいてくる。
枝の折れる音、枯れ葉が踏まれる音。
そうか――これは足音だ。
足音はどんどんこちらに近づいてきている。獰猛な獣が身を低くして駆けているイメージが頭に浮かんだ。
もしかして、まずい事態じゃないだろうか?
咄嗟に茂みへ身を隠そうとしたその時――。
がさり、と草木をかき分ける音がすぐ近くで鳴った。