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第三章(2)

 先に着替えを済ませてくる、と糸司が奥に行ってしまったので、紅緒は台所を借りて味噌汁を作った。幸い調味料や野菜などはひとしきり揃っていたので、特に困ったことはなかった。意外と彼の食生活はしっかりしているのかもしれない。

 お椀によそい和室へと戻ると、浅葱色の和装に身を包んだ糸司がちゃぶ台を引っ張り出しているところだった。

「誰かと朝食なんて、久しぶりだな」

 糸司が嬉しそうに言うので、紅緒も思わず微笑んでしまう。

「お口に合うか分かりませんが……」

 とにかく、自分が作れるものを片端から作ってきたのだった。

 舞茸を一緒に巻いた出し巻き卵に、ほうれん草のおひたし。レンコンの煮つけは副菜の中で紅緒が一番得意とするものだ。それから美子に教わりながら作ったお煮しめに、焼き魚、艶やかな光沢に包まれた黒豆などなど。米には三食のそぼろが乗り、食欲をそそる色どりとなっている。

「これは……すごい」

 料理が光って見える。思わずゴクリと唾を飲み込んでしまうほどの、怒涛の和食攻めだ。「櫻井家はこれが普通なのか……?」と驚いたまま固まっている糸司。少なくとも、吉満家の朝食はもっと手抜き感漂うラインナップなのだ。

「本当に、いただいても……?」

 思わず何度も確認してしまうほどだ。

 一方紅緒はそんな糸司の反応を逆にとらえていた。さすがに朝から気張って作りすぎた気もするが、相手はあの、桜花町一の地主・吉満家だ。これくらい普通なのだろうと紅緒は勝手に思い込んでいた。

(じ、地味だったかしら……)

 そんな不安をよそに、糸司は早速箸で出し巻き卵をつまむ。ぱくりと一口。

「い、いかがでしょう……?」

 おずおずと尋ねる紅緒に、黙々と咀嚼する糸司。彼の口に入れた瞬間の、驚いた顔が一層の不安を煽る。

「おいしい」

 だが、糸司の唇からこぼれ落ちた一言は、紅緒の予想をいい意味で裏切った。子供のように目をきらきらさせている。

「どうしよう、全部食べたい」

 あれもこれも、とがっつく糸司が、初めの印象と大分異なるので紅緒は思わずくすりと笑ってしまった。一体誰が彼を「人形のよう」だなんて言ったのか。本当はこんなにも素直な人ではないか。

(やっぱり、作ってきてよかった)

 紅緒もおかずに手をつけ始め、ある意味で穏やかな朝食となった。

「あの、糸司さん」

 紅緒が話しかけた頃には、糸司はおかずの全種類を制覇し、満足げに茶を啜っていた。お願いがあるんです、と持ちかけてみると、彼は不思議そうに首を傾けた。

「お願い? おれにできることなら」

 なんなりと、と答えた糸司を前に、紅緒はいそいそと居住まいを正した。

「私にも、お店を手伝わせてもらえませんか……?」

「どうして?」

「どうしてって……」

「言ったでしょう。あなたが昨日視たものについては、忘れてくれって」

 できればそうしてもらえると非常に助かるのだけれど、と糸司が苦笑した。

 彼の言い分も勿論分かる。それが紅緒に対する優しさだと分かっているから、尚更だ。だが、紅緒はここで引き下がりたくなかった。昨夜、そして今朝弁当を作りながら必死になって考えたことなのだ。

「糸司さん。どうして、私をあの『糸』から遠ざけようとするの?」

「それは……」

 今度は糸司が口ごもる番だ。歯切れの悪い口調で、言葉を慎重に選びながら言う。「……あなたまで、気味悪がられることはないんだ」

「私はそうは思わない」

 はっきりとした口調で言い放った。「言ったでしょう? 私は、あなたのことが知りたい。なにも知らないんだもの。気味悪がられるとかなんとか言っていますけど、……それは、誰も本当のあなたを知らないからだわ」

 そうだ、みんな勘違いしているだけなのだ。

 少なくとも目の前に座っている吉満糸司という人は、決して気味悪くなんかない。自分以外の人の恋路を陰ながら支えてあげられる人だ。それから、紅緒のことを案じ敢えて厳しい言葉をかけることのできる人。子供みたいに笑う人。たった一日ちょっとの間でこれだけのことが分かるのに、どうして皆は理解しないのか。

「私は何も知らないまま判断したくない、ただそれだけなの」

 勿論邪魔はしたくないし、そうするべきでもないと思っている。これも結局は自分の我儘だということも承知の上。それでも、紅緒はあの『糸』を、悪いものだとは思いたくなかったのだ。

 しばらく黙っていると、突然糸司が立ちあがった。奥の引き出しから一通の手紙を取り出すと、それをそっと紅緒に手渡す。

「……この手紙を、書いてある住所まで届けてくれませんか」

「え……」

「今日中に届けたいのですが、郵便じゃあ間に合わない。使い走りみたいになってしまって、申し訳ありませんが」

 糸司が眉を下げながら言うので、紅緒も恐縮してしまった。

「いえ! 嬉しいです」

 それを両手で受け取る。綺麗な薄桃色の和紙で出来た封筒だった。本物の桜の花びらが右下に使われており、指先でなぞると触れると微かに桜の香りが漂う気がした。

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