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第三章(1)

 昨日の物言いはあんまりだったかもしれない。

 翌朝、糸司はのろのろと寝巻代わりにしている麻の浴衣姿のまま店の戸を開け放っていた。戸を水拭きして、『商い中』の札を下げる。これが彼の日課なのだ。

 いつもなら淡々と作業をこなし、ものの数分でひとしきり終えてしまう彼だったが、何故か今日は作業がはかどらない。しつこく頭を過るのは、昨日の紅緒の表情だ。

 ――実のところ、糸司は紅緒と初めて会った訳ではなかった。

 あの様子からすると彼女はすっかり忘れているようなので、敢えて「初めて」のふりをしていたのだったが、糸司はちゃんと覚えていた。

 初めて会ったのは、二人が共に幼かった頃。確か操が彼女を連れて泰埼に会いに来た時だったと思うが、そのあたりは大人の事情と言うやつで、詳しい事情は全く聞かされていない。

 ただ、糸司の目に映る彼女は、桜吹雪の中嬉しそうに微笑んでいて。かみさま、という覚えたての言葉が頭に浮かぶほどきれいだったと記憶している。

 そんな記憶が今も残っていたからこそ、父から縁談の話を持ち出されたときは大層驚いた。あの子と、自分が? それはいつも感情を思うように表現できない糸司にしては珍しく、積極的になった瞬間だった。自ら対面する日取りも決めて。店を一時的に閉めるために猛烈な勢いで依頼を処理し。

 それでどうなった?

 ……結果、「自分のせいで嫌な思いをさせるかもしれない」という一時のためらいで彼女を傷つけてしまった。

 正直な話、あんなに辛そうな表情をするとは思っていなかったのだ。ただ、彼女がこの縁談に乗り気じゃないことを知っていたから、敢えて自由にさせてやろうと思っただけ。

 ひたりとした独特の冷たさに我に返った。足に握りしめていたはずの雑巾が落ちたのだ。薄汚れ湿ったそれは、醜い形で砂を被っている。呆けたままそれを見つめ、思わず糸司は自嘲した。

「おれは莫迦か」

 自分で突き離しておいて、何を考えているんだ。あのひとはもう、自ら進んでこの場所には来ない。いくら己が好いても、手の届かないところに行ってしまった。

 ああそうだ、己は莫迦だ。大莫迦者だ。

「糸司さん!」

 その時だった。彼の耳に、聞き覚えのある声が飛び込んできたのは。

 つい己の耳を疑ってしまった。なんだ、まだ寝ぼけているのかと自分で自分を嗤いながら、彼はゆっくりと振り返った。

 今度は己の目を疑う番だった。

 そこにいたのは、何やら大きな風呂敷包みを携えた紅緒だった。藤色の羽織に、淡い桜色の着物。喘鳴を洩らす彼女は、糸司の顔を見てホッとした表情を浮かべた。

「紅緒さん」

 どうしたんですか、と糸司が首を傾げると、紅緒はずい、と唐草模様の風呂敷包みを糸司に突き付けた。

「朝ごはん、一緒に食べましょう!」

「……はぁ」

 朝ごはん、だと?

 頭が上手い具合に回転していない糸司は、一体どうして彼女の口からその単語が出てくるのかがいまいち理解できずにいる。

 とりあえず彼女を立たせておくのは悪いと判断し、店舗内に紅緒を招き入れることとした。

「一体どういう風の吹きまわしですか」

 尋ねると、紅緒は気まずそうに目線を逸らし、じっと口を閉ざしている。ようやく口を開いたかと思えば、

「糸司さんはここにおひとりで住まわれていますから……きっと、朝ごはんを作るのも大変じゃないかと思って」

 第一声がまさかの言い訳だ。「それに!」

 きょとんとしたままの糸司が、徐々に怪訝そうな表情を浮かべはじめた。

(どう言えばいいのか分からないけれど)

 とにかく、正直に話そう。紅緒は一息つくと、おもむろに口を開いた。

「……昨日、あなたのお父様のことを聞いたんです。私の両親を結びつけたのが泰埼様だって。私、誤解していたの。確かに私は恋愛結婚がいいと思ってる。今もそう。だけど、お見合いがそれに劣る訳じゃないって……思ったの。でも、私はあなたのことを知らない。昨日初めて会ったんだもの、あなたもきっと私のことを知らないでしょう? だから私、」

 紅緒は一瞬ためらったが、後に勇気を出してはっきりと言った。

「……あなたのことが知りたい」

 恥ずかしくて、糸司の顔を見ていられなかった。自分で何を言っているんだかよく分からなくて、だけど糸司のことを拒絶したくなくて。誤解があるのならそれを解いておきたいし、互いのことを知る機会が欲しかったのだ。

「だから、手始めに朝ごはんを一緒に食べましょう!」

 料理の腕には自信がある紅緒は、これしか良案が浮かばなかったのだ。食べ物の嗜好で大体の性格は分かる。そう思い、今日は早く起きて重箱で弁当を作ってきた。

 さて、当の糸司はと言うと、ぽかんとしたまま紅緒の話を聞いていたが、後にぷっと小さく噴き出した。腹を抱え、肩を震わせている。昨日見た仏頂面の彼とは大分イメージがかけはなれた、まるで子供のような表情。それを見て内心ホッとしつつも、

「わっ、笑わないでよ!」

 思わず地が出て言い返してしまった。

「ご、ごめんごめん。紅緒さんがあまりに真剣なものだから、つい……」

 しかし笑いは収まらない。そんなにおかしかっただろうか。不満そうに紅緒が眉を吊り上げると、糸司は突然ふっと息をつき、ぎこちない笑みを浮かべる。

「喜んでいただきましょう。こんなにたくさん、食べ切れないかもしれませんが」

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