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第三章(4)

 それからしばらく、紅緒は『赤糸屋』と藤原邸との往復する毎日を送ることとなった。朝には必ず二人で食べる朝食を持って行き、糸司と共に食卓に着く。あれから色々と作ってみたが、やはり糸司は出し巻き卵がお気に入りらしい。それに気づいてからは、できるだけおかずに毎日入れるように心がけた。食べた後に、事務処理と家事の手伝いをしてから、糸司が書いた手紙を携え藤原邸に行く。日が沈む前には必ず『赤糸屋』に戻り、今度は梓から預かった手紙を糸司に渡す。大体、そんな感じの生活だった。

 この日も例外でなく朝食を二人で食べていると、唐突に糸司が口を開いた。

「紅緒さん。今日も、藤原邸に行きますか?」

「え? ああ、はい」

 食事中は普段あまり話をしない糸司にしては珍しい。それが一体どうしたのだろうか、と紅緒が首を傾げると、糸司はひとつ頷いたのち、

「今日はおれも行く」

 と言い放った。

「それじゃあ私は行かない方が……」

「いや、あなたにいてもらわないと困る。あなたがいないと、梓さんに会えないでしょう」

 そうか、と紅緒はようやく納得した。言われてみれば、糸司は梓と面識がないし、男一人で面会に行ったところで、使用人の谷木に突っぱねられるだけなのだ。

「でもまた、どうして」

「うん、手紙のことで」

 どうしても直接話をつけなくてはいけないことができた。そう言ったきり、糸司は再び黙々と口に米を詰め込み始めた。それ以上、何も言おうとしない。むしろ「聞いてくれるな」という雰囲気が漂っている。

 紅緒の胸がまたちくりと痛み出す。噴き出した不安にも似たどろどろとした気持ちが、紅緒の頭の中を支配し始めた。

(まただ)

 最近梓のことを考えると、どうしてもこんな気持ちが湧き上がる。彼女のことは好きだ。可愛いし、仕草も女の子らしい。素直に感情を表現できるところも、紅緒はとても素敵だと思っている。それなのに、

(私……どうしちゃったんだろう)

 そんなモヤモヤとした気持ちを抱えたまま、二人は藤原邸を訪れた。すると、玄関先にひとりの男性が立っている。

 短い黒髪に、お世辞にもきれいとは言い難い、麻の着物。元々は群青色かなにかだと思うのだが、それを塗り潰すかのようにあちこちが褐色に汚れているのだ。梓の知り合いだろうか、と紅緒は思う。それにしては、珍しい出立ちの人物だと思うが……。

 ふと、糸司がぽつりと呟いた。

「漆塗りの職人か」

「漆?」

 なるほど、それならば合点が行く。あの汚れは、普段工房で作業しているからこそついてしまうものだ。だが、感心する紅緒をよそに糸司は微かに眉間に皺を寄せたままでいる。その目線は、彼の左手に向けられたまま。

「……紅緒さん。先に行っていてもらえますか」

「あ、はい」

 その時、二人の存在に気が付いたのか、男性は唐突に背を向けて走り去ってしまった。それを小走りで追う糸司。紅緒はぽかんとしたまま、その背中を見つめるしかできなかった。

 結局、一人で梓に会いに行くこととなってしまった。いつも通り穏やかな微笑みで迎えてくれた梓に、紅緒はそんな男性がいたことをさりげなく伝えてみる。

「えっ……?」

 すると梓の表情が一変したではないか。「あの、紅緒さん。その方って、額が見えるくらいに短い黒髪で、漆にまみれた服を着た人では……?」

「御存じなんですか?」

 ええ、と梓は頷く。いつもにこにこしている彼女が、今はひどくうろたえている。これはただ事ではないのかもしれない。あのひとが、と梓の声が消え入るように掠れていく。

 しばらく口を閉ざしたまま、開け放たれた障子の向こうを見つめ続けていた梓は、意を決したかのようにおもむろに膝の上で拳を握った。

「紅緒さんには、お伝えしてもいいかもしれませんね。実は私、お慕いしている方がいるのです」

 刹那、どきりと紅緒の心臓が跳ねた。

 同時に紅緒の脳裏によぎったのは、手紙を受け取る糸司の姿だった。次に浮かんだのは、梓が嬉しそうに手紙を受け取る姿。それらがまるで走馬灯のように瞬時に廻り、同時に胸の内から黒い靄がかった思いが湧き上がった。

「……糸司、ですか?」

 押し黙っているつもりが、思わず口をついて出てしまった。

 その言葉に慌てたのは梓の方だ。必死になって首を横に振りながら、泣きそうな声で訴える。身を乗り出し、なんとか紅緒に分かってもらおうと声を上げた。

「ち、違います。糸司様は、私の話を聞いてくださって……ああ、どう説明すればいいのでしょう」

 そう言いながら、梓は布団から身体を伸ばし、文机の上から一枚の銀板写真を持ち出した。

「これをどうぞ」

 梓からそれを受け取ると、そこには品のいい男性が一人写っている。軍服を嫌みなく着こなし、胸に軍帽を携えた凛凛しい表情でこちらを見つめている。これは、どこからどう見ても見合い写真だ。

「私、近々結婚することになっているんです。その写真が相手の方……桐蔭貞文とういん・さだふみ様とおっしゃるそうです」

 その名には聞き覚えがあった。確か桐蔭家は華族の家柄で、その長男である貞文は帝国陸軍少尉という、華々しい経歴の持ち主だ。紅緒も一度、それも数分だけ話したことがあったが、どちらかというと糸司寄りのさっぱりした性格だったと記憶している。

「ちょっと待って。おっしゃるそうです、って……」

 梓はひとつ、真剣な面持ちで首を縦に動かした。

「本人には一度もお会いしたことがございません。父が一方的に取り決めた縁談なのです」

 このパターン、身に覚えがあるぞ。紅緒は密かに思い起こしていた。そう、紛れもないこの自分と似ているのだ。

 肩を落とし、伏し目がちに梓は息を吐き出す。今にも涙がこぼれ落ちそうなその表情は、憂いを帯びてより一層綺麗に見えた。

「でも、私には……」

 そこでようやく紅緒の思考が繋がった。

「もしかして、それが先程の……?」

 ええ、と梓が頷く。

周吉しゅうきちです。昔馴染みなのですが、彼が漆職人を志してからは、家の者がなかなか会わせてくれなくて。私もこんな身体ですから、ひとりで外に出ることは許されておりません」

「もしかして、言っていないの? 縁談を持ちかけられていること」

 梓は口を閉ざしたまま、しゅんと俯いてしまった。頷くこともままならない。それだけ彼女の問題は切迫していたのだ。

「だから、糸司様に相談したのです。『赤糸屋』は、恋を叶えてくれるお店だとか。私ができることはほとんどありません。でも、私は周吉がいい……どうしても周吉と一緒がいいの……!」

 こんな我儘が通用するなんて思っていない。だが、知らない人と一緒になるなんて厭だ。そんな気持ちが、梓の言葉ひとつひとつからはっきりと滲み出していた。ぽろぽろとこぼれ落ちる涙が、まるで真珠のように艶やかだった。

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