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第一章(1)

 桜花町には、『運命の赤い糸』を切断・あるいは結びつけることができる神の僕がいる――


***


 あの方と初めて出会ったのは、庭に咲き誇る八重桜が満開を迎える頃。

 まだ幼かったわたしは、仕事をしている父の邪魔をしないよう、兄と二人で庭先に出て遊んでいた。

風が吹き付けるたびにひらりと舞う桜の花びらが、まるで雪のように辺り一面を輝きに満ちたものへと変えてゆく。

 そんないつもの景色の中――


 わたしは、彼女と出会った。


***


「紅緒。ちょっとお前、嫁に行って来い」

 なんでそんな重要な話を「ちょっと醤油買ってこい」くらいのレベルで言うか!

 櫻井紅緒さくらい・べにおは、己の眼前でしゃんと背筋を伸ばし正座する我が父親のことを思わず張り倒しそうになった。途中で「さすがにそれはよくない」と思い直したため、勢いよく振り上げた左手はなんとか納めることができたが、頬だけは今も文句を言いたげにぷるぷると引きつったままとなっている。

 櫻井家は、この桜花おうか町界隈では非常に名の知れた薬屋である。優秀な薬師である父・みさおが一代で隆盛を極めたおかげで、紅緒は生まれてこのかた何不自由なく過ごすことが出来たし、そこそこの勉強もさせてもらえた。その点にだけは感謝しているが、だがしかし!

 紅緒は腹の中で行き場を失くしている「ふざけるな!」の一言を何とか消化しようと、固く瞳を閉じた。だが、考えれば考えるほど、その無限ループからは脱出できそうになかった。間違いない、完全に消化不良だ。この症状はどんなに腕のいい父でも治す薬を調合することはできないだろう。そもそも、彼が消化不良の原因なのだから。父の自由奔放さはいつものことだが、今度ばかりは愛想が尽きた。

「お父様。私は生まれてこのかた、婚約者がいるなどとは聞いたことがありませんでしたわ」

 この言葉を直訳すると、「何でそんなこと勝手に決めるのよ、莫迦!」だ。

 反論する紅緒に、操は不思議そうに首をひねった。彼は本気で、紅緒がどうして怒っているのか理解できないらしい。

 彼は小さく「ふむ」と呟いたのち、

「普通、女の子は許嫁というものに憧れるのではないのか?」

「それは誰から得た情報ですか」

 まぁ確かに、聖治せいじ三五年現在、多少裕福な家庭で生まれ育った女児というものは通常許嫁なるものが存在するらしい。紅緒も女学校に通っていた頃は、友人の大半が財閥の御令嬢だったということもあり、「卒業したら某の将校様との縁談が云々」という話も数多く耳にしたが、それは自分とは全く縁のない話だと思っていた。

「少なくとも私は憧れておりません!」

 きっぱりと言い放ち、紅緒は操の前から立ち去ろうとする。これ以上彼と話をする理由はない。父に流されるのもいい加減うんざりしているのだ。

 だが、そんな彼女を操は引きとめた。

「まぁ聞け。紅緒、相手の名前くらい知っておいても損はないんじゃないか?」

 ……確かに損はないが、得もないだろう。

 一度立ち止まった紅緒は、数秒考えたのち、やはり操の前から立ち去ることに決めた。さっさと襖を開け部屋から出ようとすると、背中越しに操のやや慌てた声が聞こえてくるではないか。

 何を言おうが関係ない。例え父の言うことであろうとも。どうせ相手は名も聞いたことのない没落貴族なのだ。それも宴会の席で酔った拍子に取りつけたようなお粗末な縁談で――

「相手は吉満糸司よしみつ・いとし君なんだぞ」

 ――お粗末な縁談、で?

 操の言葉が耳に飛び込んできた刹那、紅緒の頭の中は見事に更地と化してしまった。

 いやまさか、聞き違いだろうか。

 この桜花町において吉満といったら、

「吉満って、あの……!」

「そう。その吉満だ」

 振り返るや否や、父親のまんざらでもない顔に直面する羽目となってしまった。どうだ、とでも言わんばかりの満足げな表情。紅緒は思わずくらりと眩暈がしてしまった。一言で表すなら、戦慄。この父の破天荒さに恐怖すら覚えたのはこれが初めてだ。

 吉満家とは、桜花町一体を治める大地主である。現在の当主・泰埼たいき氏には二人の息子がおり、糸司はその次男にあたる。長男の総司そうしは明るく温厚な性格で、人当たりも良い。今は桜花町を離れて勉学に励んでいるが、全ては吉満家の跡取りになるためだろうと町民からはまことしやかに噂されている。

 彼が『陽』ならば、糸司は『陰』だ。

 彼が社交界に姿を現すことはまずない。数少ない糸司と面識のある人物によれば「あれは能面か」と口を揃えて言うし、その無愛想さから、そもそも本当に吉満家の人間なのか疑問に思われているのも確かである。

 だが、不思議なことにこんな噂も存在する。

 この糸司に恋に関する願い事を告げると、必ず叶う。それはあたかも、この町に古くから伝わる『赤い糸伝説』のようだ。だからこの噂を信じている者は、陰で糸司のことをこう呼んでいる。

『神の僕』と。

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