二、襲撃
夜の九時過ぎまで研究室に遅く残っていた高木は、重要度も低く〆切が遠い代わりに処理すべき量の半端ではない事務仕事を中途で切り上げてしまうと、くたびれきった身体を引きずるようにして帰路についた。今夜の高木にはひとつ所用があり、大学の最寄り駅から家の方に向かう前に、一旦家の方とは反対方向の電車に乗って、ちょっと行って降りて、用を済ませ、また乗って今度はようやく家の方に向かって走り始めた。
その、都内だがあまり大した事のない地下鉄、乗客疎らな電車内。くたびれた空気がどんよりと漂っている中、周りを見ると、椅子に斜めになってだらんと寝ている女の人や、腕と脚をぐるぐるに組んで固く目を閉じているスーツ姿のおじさんなど、みんなくたびれている。高木も家へ帰る前に、ここで眠り込んでしまいたい気持ちになった。
そんな中に、ふと気がつくと、いつからいたのかわからない二人組のスーツ姿の男が、二人がかりになって大きなゴルフバッグを担いで立っていた。高木はそれを見て、どうしてバッグを下に置かないのだろうと思った。席も空いているのに。彼らはさも重そうに全身でバッグを支え続けている。更に高木は、ゴルフクラブが一杯詰まっているのだとしても、あのバッグがあんなに重くなるものかしらと思った。
他の乗客と同じように彼らはしばらく静かに黙っていたが、次の駅への到着間近を知らせるアナウンスが鳴り出すと、どういうわけかひどい日本語訛りの英語で会話し始めた。高木は彼らの顔をチラッと確認してみたが、どう見てもどちらも日本人である。高木から近い方の男の髪型はかなりキッチリとしたオールバックであった。恐らくこの車内で彼らの会話を聞き取って理解しているのは高木だけである。
「Actually I feel like we are just on the edge, don't you?(しかしまあ緊張感からして違うね、どうよ)」
「ya.(ああ)」
「Though I'll be ok this is last one, I wouldn't be caught dead here with this fuckin' bomb……(これで最後のひとつだからまあ辛抱だけども、こんな所で誤爆でもされたらたまったもんじゃないからな……)」
「So, Don't mind. No problem. It's sure the most dangerous bomb of all them shits, 'cause it's yea, acetone peroxide, but while you keep it carefully, safe to say it never explode, I bet. If not so why I'm being here? So, By the way, you still remember the core of the operation we do this time and what we're gonna do after get it about that?(そう気にするな。大丈夫だよ。こいつは確かに危険性に関しては最悪の爆弾、過酸化アセトンだけども、気をつけていさえすればまあ誤爆の心配はない、きっと。じゃなきゃどうして俺はここにいるよ? まあ、それはさておき、お前は今回の計画の目的とそれを達成した後どうするかって事ちゃんと憶えてるか?)」
この男はやはり日本人らしく、acetone peroxideを英語読みのアセトンペラクサイドではなく、独語読みでアセトンペルオキシドと発音した。
「Yes, we go to there, get the computer, shout hey this ain't a party, kill 'em all, run away and burn them all.(うん、俺たちはそこへ行く、コンピューターを手に入れる、こいつぁパーティじゃねえぞと叫ぶ、奴等を皆殺しにする、そして逃げ出したら大爆発だ)」
「OK. First I'll keep 'em, so you gun it while I'm holding on. Remember?(オーケー。まず俺が奴等を引きつける、その間にお前が撃て。いいな?)」
電車が停まった。彼ら二人はここで、よっこらせ、うんとこしょ、そらもう一丁と言いながら額に汗をにじませて降りていった。そして暗闇の奥の逆光に眩んでどこかへ消えた。
高木は、さっき確かに聞きとった会話の内容を、この相変わらずくたびれた空気の漂う車内で揺られながら、再度思い起こし、ゆっくりと整理し始めた。まず何より物騒な単語が並んでいたが……ファキンボム? アセトンペルオキシド? オペレーション? キル? ガン?
高木はむしろ狐につままれたような気がした。何かの勘違いか? この平和な日本でそんな……それに、自分も英語はしばらく文章の読み書きでしか触れてこなかったから、もしかしたら違う事を言っていたのを聞き間違えたか……。しかし……。
アセトンペルオキシド。過酸化アセトン。これは素人でも合成できるほど作るのが簡単な物質で、しかも非常に威力の高い爆薬である。がしかし非常に不安定でもあり、ほんの僅かな衝撃や、静電気のひとつでも容易に起爆する。もしこんなものを……それも大の男が二人がかりになって担ぐほどの量を、今さっき彼らが実際に運んでいたのだとしたら……。いやそれより、彼らは「これで最後のひとつ」と言っていた。彼らはあれ以上の過酸化アセトンを、どこかへ大量に運んでいる? 何のために? ……。
しかし高木は眠くて疲れていたので、まあ大方自分の気のせいだろうという事に一人で片付けて、この日は家に帰ってすぐ寝た。
翌日、高木はまたいつものように出勤した。こないだようやく梅雨が明けたばかりの東京は、日中こそ暑いものの、まだ朝は比較的涼しく過ごせる気候であった。その朝の爽やかな風を心地よく感じながら、大学の敷地内へ入ると、そこには、犬の散歩をしたり、ランニングをしたり、何か本を読みながら歩いている人がいたりと、まさに平和という言葉を体現したかのような、のどかな時空が存在していた。高木はその人たちの中をぽつぽつ歩いてきて、通りかかった人たちにおはようございます、おはようございますと声をかけつつ、いつもの研究所の玄関前までやってきた。
その入口の扉を押し開けると、ちょうど同時に向こうから出てくる人があった。咄嗟に身をかわしきれなかった高木は、その人と軽くぶつかってしまった。その相手に見憶えはないが、パッと見で高木と同年代くらいの男である。長身で、真っ黒なスーツを着ている。ともかくも高木は謝った。
「すみません」
「いえ。……こちらの人ですかな?」
その男は歩きつつちょっと振り返ると、高木にそう訊いた。研究所の関係者かどうかと訊いているのだろうと高木は解釈した。高木も扉を手で押さえながら、互いに入れ違いつつ答えた。
「ええ、そうですが」
「ではOSCSの……」と言って男は小さく微笑んだ。
「ええ。まあ私は助手ですが……」
すると男は去り際にこんな事を言った。
「この世界は不完全だ。不完全だからこそ我々は動く。よりよい状態へと遷移するために。しかし、よりよい状態とはそもそも何なのか? 真の幸福とはどういうものだろうか? OSCSが真の幸福に繫がるだろうか? ――その扉は地獄への扉だ。求める者は全てを失うぞ、全てをな……」
高木は真顔で扉を閉めた。
それから高木は建物の中に入って、階段を登り、先に研究室に来ていた佐々木教授へ挨拶をすると、自分の机まで行って早速仕事に取りかかった。実は今まさに進行中のOSCSの世界配備計画、これが、もう脳波の外部干渉装置は完成し、世界中で配備され、設置作業も完了しつつある。これもOSCSの有用性を全世界の資本が認めた証である。あとは我々の開発するOSCSメインシステムの完成を待つのみであった。これさえ完成させて、ネットワークに接続してしまえば、もうこの世に苦痛を感じる人間はいなくなる。世界は幸福に包まれる。人類はいよいよ救われる時が来るのである……。と、高木は遠大なる計画の進行者として自身を大いに誇りに思った。鼻が高い。
昼も過ぎて、空の色がやや傾き始めた頃の事である。一人の関西出身の研究員が高木の近くまで来て、窓の方を指差しながら、ちょっと妙な事を言った。
「なんか外に変な人いてはりますね」
「変な人?」
と言って高木は近くの窓から外を覗いた。変な人らしい人は見えなかった。ただ、小太りのハゲ頭が、バーコードの隙間にピカッと光っていた。
「あの人ですか」
「ちゃいますやん。あの人は隣の何とかいう教授です」
「はあ、あんなのが……。初めて見たな。早く席を譲ってくれないかな。あ、あれかな? 何だか自意識をこじらせたような服を着て、キノコみたいな髪型をして、変なやつがいますよ」
「ちゃいますやって。そらうちの学生さんです。ああいう格好は韓国辺りの流行りですわ」
「それじゃあれかな? 何だねあれは、まるで売春婦じゃないか。あれでうちの学生かね。まだ素っ裸で歩いているほうが、変なメッセージ性もなくて、健全なくらいだ」
「あきませんて高木さん。みんなそれぞれ、自分をよりよく見せよう、よりよく見せようとして気張っとる結果なんです。高木さん、そういう自分こそ何や、オタクみたいな格好して」
「僕はオタクじゃないよ。好きな二次元キャラクターは一人だけって決めてあるし……」
「そうですか、そらオタクとちゃうわ」
「で、一体どの人だっていうんです。僕には誰も彼もが変な人に見えてきた」
「あそこいてますやん」
高木はまた彼の指差す方、窓の外を覗いた。しばらくじっくり見ていると、果たして何者かがいた。遠いので細かくはわからないが、どうも黒いスーツを着ているようである。格好からしてみると別に変でも怪しくもない。ただ物陰に隠れるようにして立ったまま動こうとせず、首だけは辺りを気にしてクルクル回しているところがちょっと怪しい。よく見ると髪型はオールバックだった。
と、高木はその人間と一瞬、目が合った。高木はすぐ目を逸らした。
「目が合った」
「えっ! ヤバない?」
「言われてみると何だか不気味ですね。何なんでしょうか」
「怖いわあ。なんか政治絡みの過激派か何かなんですかね? 京都辺りからスパイにでも来とるんちゃう。まあ、せやったらうちらは相手とちゃうはずやから、平気やろ……こんな研究所、主義とか思想とか全然関係あらへんし」
「あっ。そういえば今朝、出勤してきた時に、下の入口のところで変な男を見ましたよ」
「なに、どないやってん」
「ちょっと体がぶつかったんで、すみませんと謝ったら、何だかカルト宗教の勧誘みたいな事を言って去っていった。あんなのが自由に出入りしてるなんて、ここの警備体制も一度考え直した方がいいよ」
「宗教? ははあ、そっち方面か……ほな気ぃつけな」
「ただ、その時の人とあそこにいる人とはどうも別人みたいですね。つまり、変なのが複数いるって事か。物騒だな」
それからまた少し時間が経って、いよいよ外は薄暗くなってきた。研究所内ではぼちぼち、どこからともなく、お疲れ様ですという言葉が聞こえ始めた。しかし高木はちょっとまだ作業が残っていたので、佐々木教授などの中心メンバーと一緒になって居残り作業中である。
と、突如どこからか女性の悲鳴が聞こえてきた。
「キャアアアアアアア!」
高木や佐々木たちは、ハッとして作業の手を止めた。顔を見合わせる。
「な、何でしょう」
「下の階から聞こえてきたようだね」
「虫でも出たかな?」
「高木君、ちょっと行って見てきてくれたまえ」
「はい」
そう佐々木に言われた高木は研究室を飛び出すと、下の階、ここは三階なのでつまり二階に駆け降りていった。
駆け降りていくと……そこには、何だか拳銃のような物を持った男と、地面にうずくまっている女と、奥で立ちすくんでいる眼鏡の男との三人が睨み合っていた。高木は咄嗟にあちらの物陰に隠れた。
チラチラ様子を窺っていると、その拳銃を持っている男は今日の午後、高木が研究室の窓から外を覗いていた時に目の合った、スーツ姿にオールバックの男だった。高木は自分の心拍数が急激に上昇していくのを感じた。
奥の眼鏡の男が、拳銃を持つ男に対して震えながら言った。
「そ、そんな馬鹿な事はやめなさい!」
「馬鹿な事? 馬鹿な事って何ですか? こういう事ですか?」
と言うと男は拳銃の銃口を、足元にいる女に向けてみせた。
「よせ! ぼ、暴力は禁止されている!」
「へえ、何が禁止するんですか」
「法律と、倫理だ」
「はあ。確かに法律は禁止するでしょう。しかし倫理はそうでもないようですよ……」
「何を言ってる? 暴力なんてあっていいはずがないだろう。どうして同じ人間同士が傷つけ合う? 我々は暴力なんて使いたくない。我々は平和な、幸せな世界を望むのだ。それを暴力で脅かすお前は、敵だ!」
「そう、俺は敵だ。よくわかってるじゃないか。敵がどうしてあんたらの言う事を聞くと思ったかね?」
「よせ、法律が禁止する! そんな馬鹿な事はやめろ!」
「禁止か。じゃひとつ、禁止できるもんかどうか試してみましょうウフフフフ」
すると男は、足元に平伏していた女の胸元へ向け、その拳銃から鉛の弾丸を発砲した。パーンという音と共に、女の胸は真っ赤にぱらぱら破裂した。辺りに赤や黒の飛沫が散る。女は手足をバタバタさせて地べたを這いずり回り、胸元から鮮やかな色を噴き出した。辺りはすぐ一面血の海になった。眼鏡の男は、この世のものとは思えぬ形相になって叫んだ。
「うわあああッ!」
「全くあなたの言う通りですね、私は間違っている。あなたが正しい。それでよろしい。さて、それはさておき……」
痙攣しながら、なおも血を噴き出している女の体をひょいと跳び越えて、拳銃の男は眼鏡の男に迫っていった。眼鏡の男は左右にフェイントをかけつつ逃げようとしたが、すぐに男の撃った弾丸がかすめて、その衝撃波で左脇腹を切り裂かれた。けれども、そのままの勢いで、脇腹を血に赤く染めつつ無理矢理走っていこうとした。
「チッ」
そう舌打ちした拳銃の男は、強いて追わずに、手に持つ拳銃の動作をひとつひとつ確かめるように、逃げる男の背中をよく狙って、そこからまた一発撃った。リボルバー特有のガス漏れによるパーンという大きな発砲音と同時に、向こうを逃げる眼鏡の男はズッと前のめりに倒れ込んで、その場でジタバタ暴れ始めた。こちらの陰で様子を窺う高木のところまで、低く唸っているような声が聞こえてくる。高木は両脚が硬直したようになって動けなくなってしまっていた。
オールバックの男は落ち着いた手つきで拳銃を腰のところにしまいつつ、その倒れ込んでいる男の方へと歩いていった。撃たれた男はしばらくブルブル動いていた。こちらには胸元の裂けた女が静かに転がっている。そしてそのオールバックの男はほとんど無感情に、その二つの肉体を交互に眺め回した。じきに撃たれた眼鏡の男も動かなくなった。
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と男は呟いて言った。
男は、倒れて既に動かなくなっている女の方に近づいていった。女の綺麗な、いやさっきまでは綺麗だった、その本来淡い色合いのロングスカートは、彼女の血でその面積の大半を鮮やかに染められていた。女は顔にまで血をベタベタつけて死んでいた。男は女の顔のそばにしゃがみ込むと、ポケットからハンカチを取り出して、その女の顔を拭いてやった。するとどこからか別の男がもう一人走ってきて叫んだ。
「足立! そろそろずらかるぞ! 爆発まで時間がない!」
爆発? と高木は思った。思ったが脚がすくんで動けない。ばかりか、今出ていったら確実に殺されるに違いない。足立と呼ばれたオールバックの男は、女の顔を拭いたハンカチで今度は自分の手についた返り血を拭きつつ、呆れた様子で訊き返した。
「爆発ったって、OSCSはどうすんだ。しっかり潰しておかないと後が面倒だ。どうしてそんなに急ぐ」と言って、額に垂れた数本の前髪を手でかきあげる。
「何だか様子がおかしい。とにかく急げとのリーダー直々の命令だ!」
「そんじゃ、佐々木はどうすんだ、捕まえてかなくていいのか」
「時間がないから、やむをえん。まあどうせ何もかも爆発で吹き飛ぶさ。もう下の奴等は全員殺したし、こッ」
瞬間、向こうから凄まじい銃声がして男の言葉は途切れた。直後男の脳味噌が頭蓋骨の外に飛び出し、辺りへバラバラと飛び散った。耳を劈くような爆音が轟く。先ほどパーンパーンと鳴っていた銃声がまるでおもちゃか何かだったかのような音量の差である。高木には、ドーンと鳴ったように聞こえた。
「チッ!」
足立は咄嗟に横の机下へ身を隠すと、弾の飛んできた、階段の方をチラッと確認した。誰もいない――逃げたか? 或いは隠れているだけか? 一体誰が撃った? 追うか? しかし……時間がない。今はとにかく逃げねば……。こいつはどうする? うわあ凄い有様だ。恐らく撃たれたのも並の弾丸ではない。どうするったってどうしようもない。やむをえん放っておくか……後で弔ってやる――それにしても誰が? と、足立の脳内にこれらの考えが一瞬で巡った。
頭部を失った男の肉体は、しばらくその場をよろよろ回転していたが、やがてバランスを失い、そこへ膝から崩れ落ちた。高木は耳がキーンとした。
足立は近くの椅子を持ち上げると、そこの窓ガラスに向けて思いっきり投げた。椅子はドンと鈍い音を立てて、窓にヒビひとつ入れず跳ね返された。足立は軽く舌打ちをして、拳銃に持ち替えて数発連射した後、もう一度椅子を思いっきり投げた。するとようやく椅子は窓を突き破り、一拍の後に地面にぶつかってガシャンと鳴った。ここは二階である。続いて足立が窓の向こうに飛び出し、低くドサッという音がした。そして遠い駆け足はどこかへ去っていった。
高木は階段の方まで走っていくと、三階へ向かって駆け上がった。汗が首を伝って滝のように流れた。
時間がない……高木は廊下を走った。途中、昼間一緒に話をしていた関西出身の研究員が全身血まみれで倒れていた。見ると、さっき高木の目撃した男と同じように、頭部がグチャグチャになって……高木は先を急いだ。
そうして研究室の前までやってきた高木は、扉を勢いよく開けた。高木は地面に倒れている佐々木教授を見つけた。佐々木教授は額にできた大きな裂傷から血をだらだら垂らしていた。高木は一瞬ハッと思ったが、その傷は撃たれているというわけではなかった。しかし両脚を撃ち抜かれているようで、這うのもやっとという様子である。高木は目を見開いて駆け寄った。
「佐々木教授ッ!」
「た、高木君……」
佐々木教授の手の指先からは血が流れていた。ほぼ全ての爪が剥がされている。
「クソッ、なんてひどい事を……。教授、今すぐ逃げましょう! 爆弾が設置されているようです」
「私はいいから、君は早く逃げなさい」
「何言ってるんですか! さあ僕の背中に」
「いいから、早く逃げろ……」
そう言うと、佐々木教授は一冊の血まみれの手帳と、データ保存用の小さなディスクを高木に手渡した。高木は一目で、このディスクにはOSCSが入っているんだなと直感した。高木はそれらを受け取ると、佐々木を無理矢理にでも背負っていこうとした。
「よせ、高木君……早く逃げてくれ、手遅れになる前に……」
「何を言ってるんですか! 教授を見殺しになんてできるわけないじゃないですか!」
「じゃ、どうしたらできるかね」
「どうしたら? どうしても無理ですよ」
「私が頼んでもかね?」
「ど、どうして……」
「いいから、頼む。そして君は生きてくれ。さあ、早く! 世界を守るためだ!」
高木は佐々木の叱咤に尻を叩かれるようにしてほぼ脊椎反射的にその場を駆け出した。そして階段の手前の、窓のそばまで来たところで、突然視界が回転し始めた。天井が足下に来た。床が天井になった。綺麗な満月が足下で光っている。耳がビリビリした、鼓膜が破れたのかもしれない。地球が遠くに見えた。高木は火達磨になりながら三階の窓から吹き飛ばされて、むちゃくちゃに回転しつつ、研究棟の隣に生えていた背の高い木の枝に捕らえられて、グルグルに全身を打ちながら時間をかけて落下していった。はたからその様を見ていると、十中八九もう命はないように見えた。生きていても全身骨折か、脊椎損傷か、全身大火傷か、或いは……。
しかし高木は、地面に顔から落下してすぐ、むくりと身を起こすと、何ともないように立ち上がった。自分でも驚いた。三階から吹き飛ばされて回転しながら地上に叩きつけられ、よっぽど当たりどころがよかったのか、全くの無傷であった。或いは咄嗟の事で痛覚が麻痺しているだけかとも思ったが、全身を調べてみてやはりどこも何ともない。別にOSCSが効いているわけでもない。ただ全身が焦げたり葉っぱや泥がついたり服が裂けたりしてボロボロである。服が裂けていても肌は無傷であった。とにかくとりあえずよかった。
「なかなか運がいいね」
と、どこからか女の声がした。高木が脚を震わせながら、その声の方を振り向くと、誰かがこちらを向いて立っている。暗くて顔はよくわからない。
「あ、あなたは……」と高木は声を絞り出した。
「まあ飛行機からパラシュートもなしに飛び降りて、森に落下して、木の枝や雪をクッションに助かったって例も実際あるみたいだから……」
女は高木の質問を無視してこちらに近づいてきた。高木は身構えた。あいつらの仲間かもしれない。しかし……。女は高木を爪先から頭の先までジロジロ見ながら問うた。
「あなた名前は?」
「ぼ、僕ですか、僕は高木です」
「高木? へえ……ここの人ね?」
女は質問というより確認という調子で訊いた。ここ、というのを高木は大学関係者かどうかという事と解釈した。
「ええ、僕は研究所の助手です……」
「OSCSの?」
高木はゴクリと唾を飲み込んだ。
「ええ……」
「OSCSのバックアップデータは?」
「……」
女の目つきが急に険しくなった。が、またふっと笑顔に戻った。
「……アハハ、大丈夫大丈夫! 私はあなたの敵じゃないから! 私はOSCSを守りに来たの……」
「守りに? ……あなた何者です?」
「いいから、データはあるの、ないの」
「あ、あります」と高木は正直に言ってしまった。これが男相手なら、まずい事だとわかるはずだが、この女を目の前にしていると、なぜだか高木は警戒心が薄れてしまった。
「今持ってるの?」
「ええ……」
「見せて」
高木は懐から、佐々木に渡されてあったデータを取り出した。幸いにも爆発の衝撃で壊れるような事はなかったようである。もっともディスクは特に堅牢にできているやつだったから、高木が大怪我をしていてもディスクは無事だっただろう。ともかく外見上は綺麗にある。女はそれを見ると、とびきりの笑顔になって小さくガッツポーズをした。
「よし。ありがとう高木さん。あなたのおかげで世界が救われる……。さあ行きましょう」
そう言うと女は高木からOSCSを受け取って、懐にしまった。そしてニコニコと笑った。女はくるりと回って向こうへ歩き出した。
「え、行くってどこへ」
「早く来なさい!」
「は、はい」
高木は、今も燃え盛り、真っ黒な煙をもうもうと吐く研究棟を背にして、女の後ろにくっついて歩き始めた。爆発の衝撃で吹き飛ばされた、椅子や机や、様々な機械、書類の数々が、そこら中に散らばっていて、構内はまるでここだけ空襲でも受けたような有様になっていた。高木は頭がくらくらした。それでも女の後を追って歩き続けた。
すると、どこかで見憶えのあるような長身の黒尽くめの男が、二人の行く道の脇にぽつんと立っていた。高木が横を通る時、男は高木と目を合わせた。というのも高木が男を見ていたからである。
「無数の魂が星に還った……」と背の高い男は呟いた。
「あなたは……」
「ふふ、命拾いしたな」
「えっ?」
「ほら向こうで彼女が待ってるぞ助手君。……我々も助手なんぞに用はないんだ」
ふと見ると、女はもう門のところまで行って、こちらを振り返っている。
高木は視線を門の方から、また男の方へと戻した。しかしそこに男の姿はなかった。真っ黒なスーツの男は、暗闇に忽然と消えてしまった。研究所の方を振り返ると、遥か天高くまで煙が立ち昇って、東京の街明かりにもくもくと照らされていた。高木は足早に女の待つ方へと向かった。二人は揃って門を出た。
何台もの救急車や消防車、パトカー、マスコミ、野次馬、それから何だかよくわからない車がひっきりなしに向こうからこちらへ走ってやってくる。高木は相変わらず女の後ろにくっついて、それらの車のやってくる方とは反対向きに歩いている。
「どこへ行くのですか?」
と高木は、夜の街に揺れる女の後ろ髪へ声をかけた。女の髪は東京の夜よりも黒かった。女は歩きながら、くるっと振り返って答えた。髪が横へ切るように流れた。
「とりあえずここから離れましょう」
それから二人は早足で研究所を離れ、近くの駅までやってきた。どうやらここから遠くへ逃げようという女の算段らしい。二人はやってきた電車にすぐ乗り込んだ。車内は混雑していた。扉が閉まった。
そうして女と向かい合う形で車内に立っていると、女の肩越し、窓の向こう、ホームの人混みの中に、あのオールバックの男、足立を見つけて、一瞬、目が合った。高木はハッと思った。向こうはどう思っただろうか。高木はすぐに目を逸らした。
「今、あいつがいた……」
「あいつ?」
「研究所で見たやつです、拳銃を持っていて、仲間から足立とか呼ばれていた……。どうして追ってこれたんだろう?」
「へえ。……。じゃ、うまく逃げ切れたってわけね」
高木は追われていると思って恐怖したが、女はむしろ助かったと思っている。言われてみれば確かに、もうこの電車は足立からぐんぐん離れていくんだから、これ以上追跡される事もないだろう。高木は自分もこの女くらいに度胸を据えなくちゃいけないなと思った。
そうして二人を乗せた電車はガタガタいいながら夜の東京を走っていった。