第九話 夢中の邂逅
夢を見た。
山道の小さなバス停に、僕は一人佇んでいる。
辺りは夜の闇に包まれ、青白い月の光が木々の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。
風に揺れる葉のさらさらという乾いた音が、やけに耳に残る。
煙草に火を点けた。
紫煙を燻らせながら幻想的な山の風景を眺めていると、遠くにぽつりと白い光が灯るのが見えた。滑るように蛇行しながら近づいてくるその光がバスのヘッドライトであることに気づくのに、そう時間は掛らなかった。
キィィィィ―…という不快なブレーキ音が山中の静寂を切り裂き、反響し、そして闇に溶けて消えた。
バスが止まる。僕の目の前に。
行き先表示がない。運転手が居ない。
車内灯が消えており、中の様子が全く分からない。
気味が悪かった。
幽鬼のような異様さを纏ったバスを前に逡巡する。声が出ない。足が竦む。
音もなく、
扉が開いた。
「乗りなさい」
そんな風に言われた気がして、僕は何かに導かれるようにタラップを踏んだのだった。
バスの中は、車内灯が消えているというだけでは到底説明出来ない冥さであった。
車窓から差し込む月の光により、手近な座席の存在だけは何とか認識できるが、後方は完全に暗闇に呑み込まれている。後方の様子を確かめようと、僕は座席を一つ一つ手繰るようにして車内を進んでいった。
「はじめまして、と言うべきでしょうか」
不意に、車内に枯れた声が響いた。
僕は声が発せられたであろう最後尾の座席に目を凝らすが、空間そのものを塗り潰したかのような黒を見るばかりであった。
声の出処を確かめようと、僕はバスのさらに奥へ一歩を踏みだそうとした。
「それ以上、こちらに来てはならない」
姿なき声の主は厳しい口調でそういった。
思わず足を止めると、バスがぐらりと揺れた。走りだしたようだ。
「誰、ですか?」
手近な座席に掴まり、揺れに耐えながら、僕は暗闇に向けて誰何する。
返答は無い。沈黙が車内を支配する。
だが、僕には確信があった。闇の向こうからこちらを伺う声の主は、僕が会おうとし、そして会うことの出来なかった"彼"であると。
「深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む」
僕の問掛けには答えず、代わりにやや台詞掛かった口調の嗄れた老人の声が暗闇の向こうから発せられた。
「ニーチェですね。この状況にはおあつらえ向きだ」
まるで闇そのものと会話をしているかのような不気味な焦燥感をちりちりと感じながら、僕はその声に応えた。曲がりくねった山道を行くバスは、右に左に加速度を僕に伝える。運動に酔ったか、状況に中てられたか、僕は真っ直ぐに立っているのが困難になり、座席に腰を下ろした。
再び闇を見遣り、僕は老人に言う。
「僕は、貴方に会いたかった」
「私もだよ、学生さん。このような形でしか邂逅が許されないのが残念でならない」
そう言って老人はくつくつと笑った。
「貴方は死んだはずです」
「そう、私は死んだ。だからここにいる。君の夢の中に揺らいでいる」
会話の意図を掴み損ねた僕は最後尾に目を向けるが、やはり老人の姿は捉えられない。ただ声だけが闇の中を漂っている。目の前にある闇が、遥か向こうまで伸びているように感じられた。
「君はあの雪女に会ったか」
どこか嘲笑めいた口調で、老人は唐突に話題を切り替える。そうして僕が混乱していくのを楽しんでいるかのように。
「ええ。貴方のお陰で、僕は大変貴重な経験をしています」
意図不明の会話の連続に若干の不快感を感じ、やや皮肉を効かせた口調で僕は言った。僕の小さな意趣返しに対し、老人はくつくつと笑うと「それは重畳」と言った。
「貴方は、雪さんを見たのですね。このバスの中から」
底知れぬ黒。張り詰めた沈黙。
僕は言葉を継ぐ。
「あの日、貴方は僕に何を語ろうとしたのですか」
言葉は、闇に飲み込まれたかのように、虚しく反響し、減衰し、消えていった。
排気音と共に、バスが停車するのを感じる。
「私の物語は失われてしまった」
闇が僕に語りかけてくる。
「だが――それゆえに――」
物語は、終わらせなくてはならない。
闇の中の何かの存在感が立ち消えたかと思うと、唐突に車内灯が灯った。
鉄心が振動するぶーんという耳障りな音が耳に付く。
頻繁に明滅する安物の蛍光灯が後部座席を照らし出すが、案の定というべきか、そこには何も居なかった。
「お客さん。降りるの? 降りないの?」
先程は居なかったはずの運転手の声がした。
驚いてフロントミラーを覗き見るも、目深に被った帽子が邪魔をして表情を読み取ることが出来ない。
「降ります」
運賃を支払おうとしたが、運転手は首を横に降るばかりだったので、そのまま降りた。
僕が地面に足をつけるのとほぼ同時に、バスはけたたましいエンジン音を立てて走り去っていった。
ふと我に帰り、周囲に目を遣ると、そこは僕が最初に居たバス停であった。
* * *
「やっと、目が覚めましたね」
現実に立ち戻った僕が最初に目にしたのは、視界いっぱいの雪さんの顔だった。雪さんの表情は、怒っているようにも、泣いているようにも見えた。氷が溶解するように眠気が失せ、急速に覚醒していくのを感じる。
僕は後頭部に何やらひんやりとした、それでいて柔らかい感触があることに気付いた。のそりと自らを顧みると、雪さんに膝の上に頭を横たえていた。慌てて起き上がろうとすると、雪さんは僕を手で制して、
「そのままで、良いですから」
噛み含むように、口移すように、彼女はそう言った。
「心配を、掛けてしまいましたか?」
そう言うと、雪さんはこくりと頷いた。
「急に倒れたかと思ったら、そのまま動かなくなってしまって…。何とかここまで運べたのは良いけれど、私の姿も声も、誰にも分からないから、どうして良いかわからなくて」
一気にまくし立てる雪さん。途中からその声は涙混じりになっていた。
僕の頬に、ぽたりと涙が一滴零れ落ちた。
「ごめんなさい」
僕がそう言うと、雪さんは今度は首を横に振った。
「本当に心配したんだから」
それは僕にもすぐ見破れるような、彼女の精一杯の作り笑いだった。
* * *
「夢を、見ました」
「夢?」
覚醒に伴う情報の奔流に夢の記憶が流されてしまわないように細心の注意を払いながら、僕は雪さんに先ほど見た夢の内容を話した。夢らしい脈絡の無い内容であるが、何やら思わせぶりな内容でもある。念のため、共有しておこうと思った。
僕とて夢のお告げを信じるほどロマンチックな人間ではないが、雪女に会うという非日常の只中にいるのだ、意識と無意識が引き起こす全てに注意を払うべきであろう。
「私が見たお爺さんは、瑠璃くんが会おうとしていた人だったんですか?」
涙を拭い、鼻を啜りながら、雪さんは僕に尋ねた。
「確証はありません。夢は無意識の情報整理の副産物ですから、夢の中で誰が何を語ったとしても、それは全て僕に由来するものなんですよ」
「難しい話ですね」
「論理的に考えて、知らないことを夢で教えられるということは無いということです」
「夢判断、夢占いなんてものがありますけれど」
「それらは既に見知った情報の解釈の話ですから、ちょっと違います。全く新しい情報を夢から仕入れるのは、不可能です」
「成程、なんとなくわかった気がします」
「僕の無意識が、雪さんの話を聞いて両者は同一人物であると考えたと言えます。そう判断すべき何らかの根拠を無意識が持っていると言っても良いのです」
先刻感じた強烈な頭痛は収まっていたものの、鈍い痛みはまだ継続していた。僕が顔を顰めると、雪さんは僕の額に手を当てた。その手は雪のように冷たく、幾ばくか痛みを和らげてくれた。
「続きは、明日にしましょう」
彼女はそう言って微笑んだ。そうして母親が赤子にするようにゆっくりとした温かなリズムで僕の額にトントンと触れた。
安らかな微睡みに堕ちていく僕の意識の端に、老人の言葉が蘇る。
――物語は、終わらせなくてはならない。
その無意識の囁きが意味するところを、僕はもう少し深く考えるべきだった。
歩みを進めることの、重みと痛みを。
五話投稿したら一度改訂作業を行っています。
連載しながら話の繋がりを保つのは何とも難しいものです。面白いものです。
意識の連続性について考えます。
昨日の私と今日の私は果たして同じ存在なのでしょうか。
なんて事を考えていたらぶつりと意識が途切れて――