第八話 バスは山道を走る
ビジネスホテルが満員であったため、僕らは町外れの旅館に一泊することにした。
雪さんの姿は旅館の受付でも認められることはなかったが、彼女に対する礼儀の意味も込めて二名分の料金をきちんと支払った。「後から一名来ますから」などと受付でもっともらしい言い訳をしてみたが、後からその意味するところを考えてみると、我ながら随分な恥を晒したものである。
この後、各所で同じような言い訳をして二名分の料金を支払うわけだが、各所で筆舌尽くしがたい恥をまき散らしてきたかと思うと、あの時の自分の首を絞めてやりたいと思わずには居られない。
そんな未来の懊悩を知らずして、不正の魅力に抗し得た自分は何故かどこか誇らしげであった。
* * *
「瑠璃くん。この箱は何ですか!? 小さな人間が! 人間が!」
畳に荷物を放り投げ、棒のようになった足を再びマッサージしながら、何気なくテレビの電源を付けた所、雪さんが突然に叫んだ。
「雪さんは知らないでしょうが、最近発見された"手の平人間"の棲家です。最近発見された、文字通り手の平大の人間で、観賞用に大事に養育されていますから、余り揺らしたりしないで下さい。嘔吐などされたら事ですから」
質問責めにやや辟易していた僕が発した出任せを真に受けたらしい雪さんは、箱の箱の"手の平人間"に向かって「おーい」などと言い、手を振っている。僕は笑いを噛み殺し、畳にゴロリと寝転がった。
決して大きいとは言えない天井を見上げて、深呼吸をすると全身が凝り固まっていることが良く分かった。やはり疲れていたのだろう。それこそテレビの電源が切れるように僕は眠りに落ちていった。
「瑠璃くん!瑠璃くん!」
雪さんが僕の体を激しく揺らす。時計を確認すると、一時間ほど眠ってしまっていたようだった。
「申し訳ありません。眠ってしまっていたようです」
雪さんの方を見やると、顔面蒼白、目に涙をいっぱい溜めており、何がが起こったことは用意に想像ができた。心臓が早鐘を打ち、血液がどくどくと流れるのを感じた。
眠気はすっかり吹き飛んでいた。
「雪さん、一体何が――」
「あ、あの、手の平人間さんが…」
「……はい?」
今にも泣きそうな顔で彼女が指差す"箱"の中では、包丁でめった刺しにされ血の海の中で横たわる手の平人間の顔が大写しにされていた。僕はテレビと彼女の顔を交互に見遣り「何ということを…」と呟くと、徐ろに卓上の新聞紙のテレビ欄を確認する。
『百花繚乱~女の復讐劇シリーズ④~ 女を不幸にする種馬男に死の鉄槌を。全てを失った女の壮絶な復讐劇が今、始まる』
新聞紙は丸めて部屋の隅に放り投げた。
「落ち着いて聞いて下さい」
「はい」
不安そうな彼女の目を真っ直ぐに見つめ、僕は努めて神妙な面持ちで告げた。
「あれは、テレビというもので……」
雪さんは、その後三十分間口を聞いてくれなかった。
* * *
「呑みに行きましょう」
部屋の隅に蹲り、恨めしげな視線をこちらに向ける雪さんに向かって僕は言った。
「手の平人間……」
「謝りますから」
「種馬男……」
「それは関係ありません」
雪さんはのろのろと立ち上がり、ゆらりとこちらに近付いて来た。黒黒とした長髪に赤い着物が相まってまる"幽霊"のようだ、などと考えていると、また鼻を掴まれてしまった。
「これで勘弁してあげます」
彼女はそう言うと、再び僕の鼻をぐりぐりと抓ると、楽しそうに笑った。流石に少しやり過ぎたかと心配をしていたが、これにて禊は済んだらしい。僕は安堵した。
「私、案外強いんですよ」
雪さんは悪戯っぽい笑みを浮かべた。僕も負けじと笑みを返す。
「望むところです」
* * *
雪女も酒を呑むだろうか、という素朴な疑問をぶつけるのは今は無粋というものだろう。
僕らは近場の飲み屋の奥座敷で杯を交わしている。カウンターではなく奥座敷にしたのは、例の頭痛の問題だ。不可視の雪女と言葉を交わす矛盾を意識するとやはり鈍い痛みが頭に響く。
可能な限り他人の目に触れない"密室"を確保することにより、落ち着ける状況を確保しようとしたのだ。
無意識を意識し行動を選択することで、僕は徐々に雪女に"都合の良い"行動を取りつつある。
これを"取り憑かれている"というのだろうか。
そんな事を思った。
外はすっかり宵闇に包まれている。僕は開け放たれた窓から覗く月が煌々と輝くのを見た。
「無意識の作用というのが、ちょっと良く分からないですね」
妖怪と無意識に関する僕の考察を一通り聞くと、雪さんはそう言って杯に注がれた日本酒をすすと呷った。彼女の白い喉がこくりと上下する。
「では、例に取ってみましょう」
僕は彼女に倣い日本酒を一飲みすると、卓の真ん中あたりを指差した。
「その辺りに、密閉され中を覗くことの出来ない黒い箱があることを想像してみてください。それが僕らの"無意識"です。その中からにゃあにゃあと鳴き声がするとしましょう。雪さんは、箱の中に何が入っていると思いますか」
「うーん。普通に考えれば、猫ですね」
「そう。一般的常識に照らしてみれば、にゃあと声がするのだから猫が入っていると思うのが当然です。しかし、僕らにはこの箱を開けることが出来ません。にゃあという猫の声は、蓄音機が再生した只の音なのかもしれないし、もしかしたら、猫又なんて妖怪の仕業かもしれない。実際に箱を開けてみない限り、"本当のこと"なんて分からないんです」
「言いたいことは分かります。けれど、やっぱり私は猫の声だと判断しそうな気がします。"猫又"なんて発想は私にはありませんよ」
雪さんは卓の真ん中を難しい顔をして睨んでいる。くるくると変わる彼女の表情に気を取られている自分に気付き、僕は再び杯を呷った。適度なアルコールが脳を程よく弛緩させていく。僕はいつになく饒舌であった。
「中の物を隠匿することだけが無意識の機能であれば、そうでしょう。しかし、無意識というのは絶妙に気が利く装置なのです」
「気が利く?」
「ええ、無意識は箱の中身を教えてくれるのです。箱の前で云々と思案する間もなく、無意識は僕らに囁きます。"今聞こえた猫の音は、猫又の声だよ"と。無意識の言葉に意識は絶対服従です。疑うことすら出来ません。無意識が猫又だと言えば、僕らは猫又だと認識する他はないのです」
「私、この場合、私の意識と言った方がいいんでしょうか。私の意識が出来ない発想が、無意識には出来るということですね」
「そうです。無意識は僕らが生まれてから摂取した全ての情報を内包しているのです。スープのように溶け合う情報の海から部品を拾い上げ、無意識は一番"もっともらしい"回答を作り上げ、僕たちに提示する。これは意識には到底不可能な芸当です。摂取した情報全てを意識できる人間など存在しません。そして、幾つかの要素が偶然に重なり合った時、その回答は僕らの常識をも凌駕するのです」
「その回答が猫又、つまり"妖怪"ということですね。何となく分かったような気がします」
雪さんはまた杯中の透明な液体を一口啜ると、酒気混じりの温かな吐息をふっと吐き出した。そうして窓に浮かぶ月に目を遣ると、何やら思案している様な真剣な面持ちになった。
「妖怪が人間の無意識の産物というのなら、私達は一体なんのために存在しているのでしょう」
その呟きは、寂れた旅館の小さな部屋の中に、一つの波紋を描き出した。その波紋は、湖面に雨粒が一滴落ちた程度の小さな小さな波紋だった。しかし、その真摯で切ない漣に僕の心は共振し、大きな揺さぶりとなって僕の意識に去来した。
「答えはきっとあります」
いつの間にかこちらを真っ直ぐに見ている彼女の目を見つめ返し、僕は言う。
「民俗学者を志すものとして、いつかきっと僕がその答えを、雪さんに届けます」
雪さんは、何も言わなかった。
桜は、相変わらず皮肉な美しさをもって彼女を彩っている。
――こういう格好で生まれてきたことにはきっと何かの意味があると思うんです
無意識は、僕に何かを伝えようとしていた。
* * *
「そう言えば」
沈黙を破ったのは、雪さんからだった。こういう時、努めて明るい声音を使ってくれるのは、雪さんの優しさゆえだろう。嬉しいと好意に甘えっぱなしで好き勝手話すだけの自分が、どうしようもなく子どもに感じられてしまう。
「大きな"じどうしゃ"があの山道を走っているのを何回か見たことがあるのですが、あれがどんな乗り物か、瑠璃くんは知っていますか?」
じどうしゃ、という若干舌足らずな響きに、機械文明とは無縁な昔話の"雪女"と話していることを今更ながらに思い出す。流石にこのタイミングで嘘を吐く訳には行かないので、僕は正直かつ正確に答える。
「それは"バス"というものです。沢山の人間を乗せて走る為の大型の自動車で、利用が安価なため主に大衆の"足"として用いられています」
料理はすっかり空になっていた。雪さんは杯を両手で持ち、中の液体にじっと視線を注いでいる。ああしていると量が増えそうだな、僕はすっかり酒気帯びた頭でそんな事を考えていた。
雪さんは小さな声で「ばす、ばす」と復唱している。自動車にしてもそうだったが、教えられたことは自分なりに反芻し理解しようとする勤勉な性格なのだろう。
「獣道が無くなり、新しい道路が通ってから暫くすると、山道にバスが走るようになりました」
雪さんはちらりとこちらを見る。バスという発音が正しいか確認したかったのだろう、僕が無言で首を縦に振ると、彼女は安心したような顔を見せた。
「昔のように山道を歩く人は殆ど居なくなりましたから、私はすることもなく日々往復するバスが走る様を眺めていました。バスの窓から見える人間たちは、かつてのような悲壮感のある顔つきではなく、穏やかで楽しそうな顔をしていました。相変わらず無機質な山の暮らしでしたが、人間たちのそうした顔を眺めているだけで、結構楽しかったのを覚えています」
雪さんは今一度月を見遣った。活気あふれるかつてのバスの姿を思い出したのだろう、穏やかで優しい表情だった。暫くそうした後「瑠璃くんもあのバスに乗りましたか」と僕に尋ねた。
「いいえ。残念ながらバスは無くなっていました。昨年末を最後に廃線になったと聞いています」
「……そうですか」
「過疎化が進んでいましたからね、そういうこともあ――」
――ります。僕がそう言おうとした矢先、雪さんがポツリと呟いた。
「やっぱり、あれが最後だったんだ……」
雪さんの言う"あれ"の意図がわからない僕は雪さんの言葉を待つ。最後の一本と決めた日本酒に手を伸ばし、僕と、雪さんの杯を満たした。
「私が最後に見たバス。あのバスの雰囲気だけ、いつもと大きく違っていました。八十歳位のお爺さんが一人で乗っていて、お爺さんは本当に幸せそうな顔で、私まで何だか暖かな気分になったのをよく覚えています。それでね、瑠璃くん、私――」
その人と目があったんです。
稀有な邂逅を懐かしみ、感慨に耽る雪さんを他所に、僕はある思いに囚われていた。
僕は、多分、その老人を知っている。
「それで、どうしたんです?」
何故か。鈍い痛みを覚えた。
「何もしませんでした。ただ、多分、勘違いだと思うんですけど、私の姿を見たお爺さんが、私に頭を下げたような気がするんです」
気が付くと、杯は空になっていた。相当のペースで飲み進めていたらしい。頭痛ははっきりと感じられ、万力にも似たズキズキとした締め付けが僕の脳を襲っていた。
ぐるぐると思考が巡る。
――無意識は全ての情報を内包しているのです
何故この言葉を思い出すのだろう。
そう思った瞬間、僕の意識は暗転した。
いつもよりちょっとだけ長くなりました。
3,000文字ならばと勘弁してやっていたのに5,000文字とは何事か。
ああ、止めて叩かないで!