第七話 朱に染まる
「瑠璃くん、あれは何ですか?」
「あれは"自動車"というものです。蒸気と電気の力で人を乗せて走る、からくりの一種です。馬より正確かつ速く動きます」
「では、あれは?」
「あれは信号機です。見ての通り、現代は自動車やそれに類するからくりがそこら中を走り回っていますから、事故が起こらないようにそれらの走行を制御する必要があります。信号機はそれを自動で行うからくりです」
からくりからくりとまるで歌うかのように雪さんは呟いた。一応彼女が理解できるように表現を選んでいるつもりだが、正確に伝わっているかどうかは甚だ疑問だ。山に一人で暮らしてきた彼女には目につくもの全てが珍しいのだろう、町に付いてから質問ばかりである。
その一つ一つに答えながら、僕は自分がどれだけ自分が暮らす世界の仕組みを知らないのか痛感していた。"からくり"は僕らが意識せぬままに僕らの世界に浸透し、我が物顔で、素知らぬ顔で僕らの世界をコントロールしていた。
「じゃあ、あれは何ですか?」
そう言って牛丼屋の橙色の看板を指さす雪さんの背後に、男性が近づくのが見えた。男性の視線は手元のスマートフォンに注がれており、目の前の雪さんに気づく様子は無い。
「危な――」
――くはないのである。男性は雪さんに気づく素振りも見せず、スマートフォンを弄ったまま、まるでそこに何も存在しないかの如く、雪さんの体をすり抜けていった。
いや、"すり抜けた"というと語弊がある。
いくら目を凝らしても、両者の体が重なる瞬間というものを僕は見ることが出来なかった。まるで過程が消失しているかのように、両者の体が触れると思った次の瞬間にはもうすれ違い終わっているような、奇妙な感覚であった。
僕は何度か詳細に観察を試みたものの、その度に酷い頭痛と吐き気に襲われるので、早々に諦めてしまった。
雪さん自身も町の人間が自分に一切気付かず、あまつさえ"すり抜けて"いくことに始めは驚きの表情を浮かべていたものの、それが何回何十回と続くにつれ「他の人には私が分からないようですね」と言うと気にするのを止めたようで、その後は通行人をすり抜けさせるままにしていた。
極稀に、何か違和感を覚えたかのようにその場を振り返る通行人も居たが、実際に雪さんを認めた者はおらず、一様に首を傾げると、そのまま歩き去っていった。
「瑠璃くん?」
「あ、ああ、すいません。これは日本で一番有名な牛丼、ええと、牛鍋をご飯に掛けたようなものをですね、販売している店舗です」
それから僕は知る限りの牛丼屋の歴史とシステムを雪さんに説明した。彼女は「今どきは日本人も牛を食べるんですね」などと言い、まるで何か恐ろしい物を見るように、橙色の看板をじっと見つめた。
「美味しいですよ、案外。挑戦してみますか?」
「うーんと。今日は遠慮しておきます」
足早に歩き始めた彼女であったが、ふと何かを思い出したかのように振り返ると、牛丼屋に向けて両手を合わせると「なむ」と一言呟いた。
町の人間が彼女を見ることが出来ないというのは、一体どういう事なのか。
僕は頭のなかで仮説を展開する。
――妖怪を見る。
僕はそれを無意識の作用だと考えている。
僕らの見ている"世界"というものは、脳内の無意識が創り上げた夢の様なものである。
無意識は「五感」が齎す刺激によって骨組みを形成し、「記憶」と「知識」によって穴埋めを行うことで、「世界」という大それたものを脳内に組み立てる。
この「記憶」と「知識」というものが実に厄介であり、これらの作用によって"実際にはその場に存在しないもの"が僕らの世界にはしたり顔で立ち現れる。
僕らが五感をもって把握している"実際にある"世界は思いの狭い。
今、貴方の"背後"にあるもの(ドアでも壁でも窓でも良い)は記憶と知識によって形成される"実際にはないかもしれない"世界であると言える。量子力学における観測者効果を持ち出すまでもなく、僕らの認識する世界の殆どはこの"実際にはないかもしれない"世界である。
さて、妖怪の話である。
記憶や知識というものは個々人によって千差万別であるから、僕らが形成する"世界"もまた千差万別である。その千差万別の中に、ふと妖怪が潜むことがある。
無意識下の世界形成の仕組みを認識することは("無""意識"ゆえに)不可能なので、どんな記憶と知識がどういった妖怪を生み出すかは誰にも分からない。無意識が居たほうが都合が良いと判断した場合、"実際にはないかもしれない"世界を入り口に妖怪は僕らの世界に立ち現れるのである。
僕は雪さんに視線を向ける。
彼女もまた僕の無意識が何らかの理由で必要と判断したから見えるようになった存在と言える。部外者である町の通行人には彼女を認識できないもまた道理であろう。
そんな風に言ってしまうと、彼女の存在が酷く即物的なものに感じられてしまうかもしれないが、僕にとっての彼女の存在感は本物だし、僕は彼女を自身の妄想の産物のように扱う積もりは毛頭ない。
そう。
何らかの理由――
僕が彼女に出会った理由を、僕は解き明かしたいと思っていた。
不意の頭痛で僕は思考の世界から"現実"に立ち戻る。
この頭痛の正体は僕の無意識の危険信号だと僕は考える。
何らかの不条理を噛み砕き僕に雪女を見せている無意識は、本来存在しないものに分不相応の存在感を与え続けており、その処理には相応の負担を強いられていることが想像に難くなかった。
それに加えて"雪女が通行人とすれ違う"という異様な現象を僕の脳は処理しきれず、無意識はその瞬間を"見せない"ことにより無理矢理に世界の体裁を保っているのだろう。僕がすれ違いの瞬間に注目して体調を崩したのは、そうした無意識の処理能力が些か限界を越えたためであろう。
このズキズキとした痛みが、僕の世界を支えているのである。
「また、難しい顔をしています」
きっと癖なのだろう。彼女は僕の顔を覗きこんでそう言った。
「観測者効果を前提とした非存在の存在感の創出に関する論文の前段部分を推敲していたのですが、聴きますか」
「いいえ。結構です」
心底呆れたような表情で、彼女はため息をついた。
「行きましょう。旅行資金を取り敢えず何とかしなくてはなりません」
雪さんの傘は思いがけぬ高値で売却された。
鑑定を担当した骨董屋の店主曰く、作者というか販売元は判然としないが、恐らく明治期に作られた和傘で、作りも美しく保存状態も良好であるから買い手も付きやすいとのことだった。
雪女の差し出した傘であるから店主に見えないのではないかと心配だったが、どうやら杞憂だったらしい。店主の脳がどういった作用によって傘があると判断したかは定かではないが、僕と彼の理屈が幸いにも都合よく合致し、取引は無事成立した。
新しく噴出した疑問に頭を捻りながら店を出ようとしところ、店主は僕の背中に向けて、
「お隣のお嬢さんにも宜しく」
と言った。
「あのお爺さんには、私の姿が見えていたのでしょうか」
店を出てから暫くした後、相変わらずあれこれ質問をぶつけてくる雪さんが、ふと思い出したかのようにそう言った。
「詰まるところ、勘の良い人なのでしょう」
妖怪を見ることの出来る人間には素質のようなものがある。妖怪に対する親和性とでも言うべきか。
そうした素質のある人々。
難しく言うならば、無意識による"現実"の創造に際して、妖怪とか幽霊といった不可思議を持ち出しやすい類の人間は少なからず存在する。
俗にいう"霊感のある"人達である。
妖怪存在を無意識に信仰しているからこそ、彼らは容易に妖怪を見ることが出来る。
あの老齢の店主も優れたチューニング機能を有しており、具な観察と検討の結果、彼の脳は僕の隣に雪女の姿を見出したのかもしれない。
もしかしたら、ああも簡単に"この世ならざる取引"が成立したのは、妖怪に纏わる物品を売買する場、"霊感"のある人々による何らかコミュニティーがどこかに存在するのかもしれない。
「瑠璃くんが」
彼女は足を止め、くるりと僕の方に向き直る。
「勘の良い人でよかった」
彼女がそう言って、屈託のない笑みを僕に見せた。
町は夕焼けに染まりつつある。
茜色に塗り分けられていく町並みと、伸びゆく二つの影を眺めながら、僕はまた心臓の鼓動が早くなっていくのを感じていた。
「資金は十分に確保出来ました。今日は取り敢えず休んで、明日に備えましょう」
足早に歩き出そうとする僕の袖を雪さんがちょんと摘む。
屈託のない満面の笑みは、逃がさないというような意地悪な微笑へとすり替わり、あたふたと慌てふためく僕の反応を楽しむように、耳元に顔を近づけてこう言った。
「頼りにしていますよ」
僕の顔は夕焼けの茜色でもごまかせない程に赤くなっていた。
執筆のペースが少し上がってきました。
感想や評価をくれた皆様ありがとうございます。
瑠璃丸はそんな皆様の奴隷です。