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雪月花  作者: 瑠璃丸
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第五話 春の気立つを以って也

 山道の中程には登山者のために設けられた展望台があり、僕たちはそこで一旦休憩を取ることにした。

 雪女に"疲れ"という概念が存在するかはさておき、僕はといえば二日連続で過酷な山道を歩き続けてわけで、疲労はピークに達しつつあった。


「少し、今後について相談をしませんか」


 足をマッサージしながら僕は少し離れた所にいる彼女に声を掛けた。

 長年山に暮らし、山の景色などとうに見飽きている雪女は、僕から取り上げた安物のビニール傘を弄っている真っ最中であり、傘が開く度に「おぉ…」などと目を丸くしていた。

 僕の呼びかけに気づくと、ぎこちない手つきで傘を閉じ、子犬が飼い主の呼びかけに応じて走り寄って来るように、とてとてと僕の許に戻ってきた。


「はい。相談をしましょう」


 彼女はにっこり笑って僕の隣に座る。僕は水筒のお茶を紙コップに入れて彼女に差し出した。文明の利器が珍しくてしょうがない彼女の目が再び輝くのが分かったが、ここは敢えて黙殺し、本題に入ることにした。


「実のところ、桜を見に行くのは、そう簡単なことではありません」


 僕は彼女に見えるよう、二本の指を立てた。


「解決すべき問題は大きく分けて二つあります。第一は、桜の開花時期の問題です。一般的に、桜はいつ頃咲き始めるか知っていますか?」


 目を反らし、気まずそうにお茶をすする雪女。答えを察した僕はそのまま話を続けることにした。


「ソメイヨシノ、最もポピュラーな桜の品種ですが、開花時期は本州の最も早い地域で三月末頃だと言われています。今が一月末ですから、大体ニヶ月程度の開きがあります。しかしながら、僕たちには二ヶ月間を待つ時間的余裕はありません。その間に冬が終わって――」


 ――貴方が姿を保てなくなる可能性があります。

 僕は敢えて直接的な表現を用いた。

 もしかしたら、また彼女を傷つけてしまうかもしれないと思ったが、根本的に異なる存在である妖怪と人間が一緒に旅をしようというのだ、変な遠慮こそ最終的には彼女を不幸にする。そんな思いを込めた。


「どうして、それまでに冬が終わると言い切れるのですか?」


 こちらの意図をきちんと諒解して、対応してくれたのだろう平素と変わらぬ彼女の声音。

 雪女が"優しい"というのは、あながち的はずれな表現では無かったのかもしれない。


「確証があるわけではありませんが、仮説を立てることは出来ます。暦には立春、つまり春の始まりとされる日があります。一年に二十四回存在する区切りの一つであり、江戸期に発行された暦の解説本、暦便覧こよみびんらんおいては『春の気立つを以って也』と記載されています。"春の気配が立ち現れることによって立春とする"とでもいった所でしょうか。春の始まりは、すなわち冬の終わりと解釈することが出来ます」


「つまり、この日が最終期限ということになるわけですね」


「はい。無論僕の想像であり仮説の域を出ませんが、一先ひとまずこの"立春"までに桜を探し出すということを当面の目標にしたいと思います」


「うん、それで良いと思います。ちなみにそれは大体どれくらい先の話なのですか?」


「……大体、一週間弱といったところです」


 案外、短いんですね。そう言うと、彼女は草むらに寝そべった。陽光に目を細め、両の手を天にかざすその姿はやはりどこか淋しげであった。


「桜、見つかるでしょうか?」


 彼女は心細げな視線を僕に向ける。時間的感覚に疎い彼女にも、この時期に桜を見つけ出すことの難しさは十分に伝わったようだった。


 展望台の先に広がる空に目を向けると、先ほどの雨雲だろうか、大きな積乱雲が急速に移動していくのが見て取れた。


「そこで僕に一つ、案があります」


 都会では見ることの出来ない巨大な雲が次々と流れていくのを見ていると、自分にも何か大きな事を成し遂げられるような根拠の無い自信がむくむくと膨らんでいくのを感じる。


「カワヅザクラという桜があります。ソメイヨシノ程一般的な桜ではありませんが、早咲きの桜として有名で毎年二月上旬に花を咲かせます。この桜ならば、立春までに咲いている姿を見ることが出来るかもしれません」


 僕は空中に"河津桜"という文字を書いてみせた。


「カワヅザクラの主な分布地は、その名の通り静岡県河津町(かわづちょう)であり、伊豆半島の大体真ん中位に位置しています。決して近いとは言えない距離ですが、電車を乗り継げば、まぁ二日あれば十分にたどり着ける距離だと思います」


「凄い!」


 彼女は突然跳ね起きると、僕に抱き付いてきた。持っていた水筒が弾き飛ばされ、中のお茶が中を舞うのが見えた。ああ、貴重な水分が、などと考えるのは状況に全くそぐわないのは重々承知していたが、目の前の状況が状況なだけに、僕は僕の冷静を保つため、敢えてその"その他"的な情景に目を向けることに努めていた。


「ああ、お茶が……」


 情けない僕の呟きに耳を貸すことなく、彼女は凄い凄いと連呼しながら僕の頚椎をへし折らんかの勢いで僕を抱きしめ続けた。


「私、桜を見れるんですね!本当に、見れるんですね!」


 ようやく僕を解放してくれた彼女は、手を叩いながら辺りを跳ね回ったかと思うと、今度は先ほどのビニール傘を抱きしめ「やったよ、やったよ」などと言っている。ここまで喜んでくれると僕も話した甲斐があるものだと誇らしくなってしまう。クリスマスに娘にプレゼントを上げた父親はこんな気分になるのだろうか、などと感傷に浸りながら、僕は彼女の様子を眺めていた。

 すると、暫く辺りで小躍りをしていた彼女がハッと何かに気付いたような素振りを見せると、今度は悪戯がバレた子犬が飼い主の許にやって来るような弱々しさで、再びとてとてと戻ってきた。


「もう一つの問題について、聞くのを忘れていました」


「賢明な判断で何よりです」


「意地悪」


 彼女が頬を膨らませる。その様子が面白くて、僕はさらりと"二つ目の問題"を彼女に伝えてみた。彼女は一瞬驚いたような表情を見せると、青空に向かって大きな笑い声を上げ「それは大問題ですね」と言った。

 そして、芝居がかった口調でこう続けた。


「それで、君はどうするつもりなのかね」


「へぇ、来月末までには何とか」


 演技が絶望的に苦手な僕には、平坦な口調で台詞めいた言葉を淡々と話す。何故か彼女は満足な笑みを浮かべ「へたくそ」と言ったかと、僕の隣に腰掛けた。


「それは困りましたね」


「ええ、全く」


 そう言うと、僕らは目を合わせて笑いあった。雨雲は、もうどこかへ行ってしまっていた。









「お金がありません」


 僕は彼女にそう言った。

 旅は道連れ、世は情け容赦なし。河津の桜は、まだ遠い。


台風がやってきます。


修学旅行先のお寺で友人が「旅に出ると死ぬ」と書かれたおみくじを引いたことを思い出しました。


雷鳴と稲光の中、仏罰について考える火曜日。

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