第四話 巡る季節を求めて
「誰かと一緒に道を歩くなんて初めての経験です」
彼女はそう言うと道の真中に躍り出て、両手を広げその場でくるりと一回りした。柔らかな雨後の陽光が差し込む山道に、彼女の下駄が発する音がからころと軽快に響いた。
そうして彼女は跳ねるように僕の隣に戻ってくると、僕の耳元でこう囁いた。
「実は、人と話したのも、今日が初めてです」
僕は今、雪女と連れ立って遥かな山道を歩いている。赤面をしながら。
何故、彼女の申し出を受けようと思ったのか、自分でも良く分からない。
不条理に、不都合に、不釣合に立ち現れた怪奇の気配に中てられて、正常な判断が出来なかっただけなのかもしれないし、怪異譚の当事者たりたいという僕の民俗学者としての欲求が心の奥底で作用したからかもしれない。
自分の衝動に論理的な裏付けを見いだせぬままに、僕は桜が見たいという彼女の申し出を受け入れたのだった。
さて。
僕が了解の旨を伝えた際の彼女の喜びようは凄まじかった。目を丸くして一瞬沈黙した後「やったぁ」と叫ぶやいなや、僕の手を引いて山道に飛び出していった。バス停に僕の荷物を置き忘れていることにも気付かず、小走りに先へ進もうとする彼女の手を解くのには少々難儀した。
詰まるところ、僕が彼女に対して十二分の警戒心をもって身構えていたのと同様に、彼女の方も理不尽な"お願い"を胸に抱き、相当の勇気をもって僕の前に相対したということらしい。
本来の彼女は、かように天真爛漫な見た目通りの少女なのである。
赤面した顔を覗き込まれるのに耐えかねて、僕は一歩前に出る。
「桜を探す前に、聞かなくちゃならないことが、たくさんあります」
僕は宣誓するかの如き声音を用いて、弛緩しきった空気を引き伸ばし、適度な緊張を取り戻すように努めた。
空気の変化に敏感なのは、彼女が妖怪故か。背後で彼女が姿勢を正すのを感じながら、馴れない厳格な口調を崩さぬよう注意を払いつつ、僕は彼女に質問をぶつける。
それは怪奇と物語を探求する民俗学者としての立場を保ち、僕自身がこれから始まるであろう旅路に自分なりに折り合いをつけるため、必要な儀式であった。
「貴方は、自分を雪女だと言った。まずそこに嘘はありませんね?」
「はい」
「それを証明できますか?」
「いいえ」
「何故ですか?」
「特別な力が無いからです。私には吹雪を巻き起こすことも出来ませんし、男性を氷漬けにすることも出来ません。雪山に生まれ、雪山に在り続ける。それが私であり、雪女ですから」
明朗な回答であり、正直に言えば比較的予想通りでもあった。
自身を雪女だと証明できる特殊能力なり性質があるのなら、バス停で偶々行き遭った見ず知らずの男に唐突に秘密の暴露を行う必要がない。物理的法則を無視した"奇跡"を起こせば事足りる。
付け足すなら、この地に伝わる伝説においても、雪女はただ手招きをするだけの、拍子抜けな程に"普通"の妖怪であったことも、僕の推測を裏付けるものであった。
矛盾は無いと判断した。
「雪女というのは他にはいないのですか?」
「いません。というか、知りませんという方が正しいですね。生まれた時から山に一人で、他の雪女に出会ったことが無いんです。いるかもしれないし、いないかもしれない、私には判断できません」
「しかし"生まれた"というからには、その、親兄弟みたいな方が居たのではありませんか?」
「いいえ、いません。私は私としてある吹雪の日に生まれました。説明をするのが難しいんですが、今と同じ姿形で突然パッと現れたという感じです」
「では、誕生以前の記憶はありますか」
「ありません、気が付いたら雪山にパッと一人、面白いでしょう」
確かに、興味深い話だ。彼女の言を信じるならば、雪女は今この瞬間の姿形のままに突然にこの地に"発生"したらしい。
彼女の語る雪女の生態により、僕が拙い経験から作り上げた妖怪像の根幹が蹂躙されていくわけだが、不思議と気分は悪くなかった。尋問めいた問答は、いつの間にか僕の民族学的情熱をちりちりと刺激し始めていた。
ようやく、理性の危険信号が解除される。
だから、それは世間話のような気軽さで、何気なく発した当たり前の質問だったと思う。分かるでも、分からないでも済む本当に気軽な質問のつもりだった。
「貴方が生まれたのは、何年前のことか、覚えていますか?」
――ひやりと、山の空気が凍りついた様な緊張感のある寒気を覚え、僕は思わず立ち止まった。
質問は虚しく山中に掻き消え、返答の代わりに無言で歩を進める彼女の背中にただならぬ気配を感じ取り、僕は何かが彼女の琴線に触れたであろうことを理解した。
「女性に年を聴くなんて、酷い人ですね」
振り返った彼女の笑みは、先刻とは明らかに異なる、見ているこちらが辛くなってしまうような拙くて切ない"作り笑い"だった。
暫しの静寂の後、彼女は呟くように言った。
「その"年"という感覚が、私には良く分からないんです」
"年"が分からない? 僕が鸚鵡返しに聞くと、彼女はそのままの姿勢で軽く頷いた。
「年、という概念は分かります。冬が終わったら、春と夏と秋がやってきてまた冬が来る。それを永遠に繰り返す。違いますか」
「その通りですが、貴方は一体――」
何を言っているのか、という僕の言葉を遮るように彼女は言葉を継ぐ。
「私、冬が終わると消えてしまうんです」
彼女は天を仰ぐ。
「雪山に暦はありませんから、具体的に何月何日かは分かりません。冬の終わりともに、私はふっと消えてしまうのです。突然体から意識だけが飛び出して、暗い穴の底に閉じ込められてしまうような、寂しくて心細い、そんな感覚です」
その感覚を思い出したのだろう。彼女は自分の肩を掴み、小さく震えるような素振りを見せた。
「そして、ある日また、生まれた時と同じようにこの山に立ち現れるのです。いつ消えてしまうかと震え、もう目覚めないのではないかと怯える。永遠に巡り続ける冬のなかで、私はずっとそんなことを繰り返してきました。春の暖かな日差しも、夏の空に浮かぶ雲も、秋の夕日の美しさも、私は知らない。私には巡る季節の感覚が分かりません。未来永劫変わることのない雪景色だけが、私の知る時間の全てなのです」
彼女の表情は、その言葉通り今この瞬間消えてしまうのでないかと思う程に儚げであった。彼女を彩る美しい模造の桜吹雪が酷く皮肉めいていて見えた。
彼女はその袖口にそっと触れ、まるでそこから花びらが舞い落ちてきたかのように、じっと手のひらを見つめた。
「だから、私、この目で桜を見たいって思ったんです。この着物の柄にどんな意味があるかはわかりませんが、雪の季節にしか生きられない私が、こういう格好で生まれてきたことにはきっと何かの意味があると思うんです」
彼女が掴んだこの世ならぬ一枚を攫っていくように、一陣の風が山道を吹き抜け、空へと駆け上がっていった。
僕たちは、暫く黙ってそれを見上げていた。
「ところで」
気が付くと、小首を傾げた彼女は意地悪な笑みを浮かべて、僕を見つめていた。顔の近さは生来の癖なのだろう。女性に免疫のない僕は顔に熱っぽくなるのを押さえられない。
「尋問は済みましたか? 民俗学者の卵さん」
「え、ああ、はい」
「一緒に桜を見に行こうって言ってくれた後に、慌てて質問責めにし始めて。男らしくないです!」
そう言うが早いか、彼女は僕の鼻を摘んでニ三度ぐりぐりと動かした。とっさの事で対応出来なかった僕は赤面を晒したまま、彼女のされるがままになっていた。
「行きます! 行きますから! やめて下さい!!」
「よろしい」
ようやく鼻を解放しても貰い、僕はほっと一息を付く。
理屈や論理的に拘泥して、目の前の人(雪女というべきか)を見ていなかったのがいけないかった。いや、寧ろ、これがそもそもの――
一つの仮説に行き着いたが、余り深く考えないことにした。
「また難しいことを考えているんですか」
彼女の手がまた鼻に伸びる気配を感じて、先んじて手で鼻を覆い隠す。不満面の彼女に僕は、
「桜、綺麗だと良いですね」
と言った。
彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべると、
「やっぱり変な人だ」
そう言ってくすくすと笑ったのだった。
コーヒーの利尿作用には恐ろしい物があります。
明らかに飲んだ以上の量が排出されていきます。
この発見により、不毛な戦争は終結し、荒れ果てた大地は緑を取り戻し、死んだ魚の様な目をした人々が希望を見出すことを期待してやみません。