第三話 その花の名は
見間違いと切り捨てるには、彼女の風貌は余りにも雪女伝承に酷似していた。
透き通るような白い肌、肩まで伸びた黒黒とした艶のある髪、流麗な花の意匠が縫い込まれた真っ赤な着物、そして――
「貴方も雨宿りですか?」
――微笑みだ。
それは、雪山で遭難しかけていた男が「余りにも可愛らしかった」と間の抜けた表現をするのも頷ける程に浮世離れした無垢な笑顔であった。
男を虜にする蠱惑的な笑みをどこかで想像し身構えていた僕であったが、「にこり」という音が聞こえてきそうな程に麗らかなこの笑顔に、すっかり毒気を抜かれてしまった。
「あ、あの」
僕は口を半開きにしてまじまじと彼女の顔を見つめてしまっていた。彼女は顔を真赤にして、もじもじと恥ずかしそうに言った。
「そんなに見つめられると、照れてしまいます」
閉じるどころか、口がぽかんと開いた。
「もしかして、貴方ゆ…」
雪女ではありませんか!? と言いかけて僕は気付いた。もし彼女が雪女ではなく、何らかの理由でたまたま雪女に似た風貌をしている女性だったら、間違いなくこちらの正気を疑われる。
雨は一層激しさを増しており、これから暫く《しばらく》一緒に雨宿りをしなければならない二人だ、出会って数分で関係性を破綻させ、気まずい思いをすることはあるまい。
「ゆ? ゆ、何です?」
彼女は小首を傾げて、こちらの目を真っ直ぐに覗きこんでくる。雪女とはとてもじゃないが、言えない。
「い、いや、何でもありません」
「変な人」
彼女はクスクスと笑う。僕は一旦深呼吸をして、彼女は普通の人間だ、などと意味不明の言い訳を何度か頭のなかで繰り返し、雪女"らしい"女性に向き直った。
「貴女は、この辺りのご出身なのですか」
「うーん。そうといえば、そうですね。村に暮らしているか、というとちょっと違うのですけれど……」
いちいち発言が僕の疑念を刺激するのはさて置き、努めて平常心を心がけ、僕は会話を続ける。
「里帰り旅行か何かですか?」
「うん、そんな感じです。貴女はここに何をしに来たんですか」
土砂降りの山道を着物姿で貴女こそ何をしているのですか? という質問が鎌首をもたげるが、僕はその鎌首を切断し、火にくべてしまう。
努めて、平常心を保つ。
僕は自身が民俗学を専攻する学生であり、怪異譚を調査するためにこの地を訪れたが、残念ながら先方の不幸があり、何の成果もなく帰るところだということを彼女に伝えた。"雪女"という表現は敢えて使わなかった。
「民俗学ってどんな事をするんですか?」
またしても顔を近づけてそんなことを聞いてくる。他人との距離が近い女性である。
僕は自分の顔が赤くなるのを感じて、どうしようもなく恥ずかしくなってしまう。平常心が聞いて呆れる。思考がぐるぐると暴走して、呂律が回らなくなっていく。
「その、民俗学とはつまり、妖怪とか怪奇現象の類を研究して、対象者、この場合怪異に行き遭った人ですね、それを取り巻くどんな要素が怪異を見せるのかを詳らかにしようという学問でして…」
「ええと、どうして人は妖怪を見ちゃうのかってことですか?」
「平たく言えば、そうです」
それまで僕の目を真っ直ぐに見ていた彼女だったが、この時始めて僕の目から視線を外すと、何やら考えこむような仕草を見せた。
豪雨が木製の屋根を打ち付けるばらばらという音を、僕は漫然と聞く。冷えていく山中の空気が、熱暴走を起こす僕の思考を徐々に鎮めていくのを感じた。
暫くすると、彼女は絞りだすようにこう言った。
「貴方は、妖怪を信じているのですか?」
それは民俗学者が現地調査において幾度と無く投げかけれ、辟易しているものだった。
自然の摂理は科学により解明され、精神の構造にも医学のメスが入り、不思議や不条理が解体されつつある現代社会において、いるはずもない妖怪なんてものを追いかける意味はあるのか。
そんな嘲笑とも哀れみとも取れる、無邪気で下らない、そんな質問の――はずだった。
僕を見つめる彼女の目を見てしまうまでは。
彼女の目は真剣そのもので、そこにはほんの少しの嘲笑も憐憫の色もなかった。ただ、真っ直ぐに僕を見つめ、僕の答えを全身で待ち構えているのが見て取れた。
だから、僕は、正直に答えた。
「僕は妖怪を信じてはいません」
彼女の目にうっすら失望の色が浮かんだ。
僕は彼女がそうしたように、彼女の目をまっすぐに見つめ、続ける。
「ただ――いたら、楽しいだろうな。というのが僕の民俗学のスタート地点でした。この気持ちは、今も変わっていません」
彼女に対して、始めて心からの笑顔を見せられた気がした。彼女は少し驚いたような表情を浮かべた後、またふっと笑った。
「本当に、変な人」
「よく言われます。民俗学者というのは、得てして変わり者なのです」
そう言って僕たちは笑いあった。歯車はかちりとかみ合い、まるで氷が溶けるように、僕たちを包むちぐはぐとした緊張が解れていく。
「雨はまだ止みそうにありませんね。もし宜しければ、これまでにどんなお話に出会ったのか、聞かせてもらっても良いですか」
それから僕は彼女にこれまでに蒐集したいくつかの怪異譚を語って聞かせた。
北国の村で出会った月を消すという笛の伝説。化猫に呪いをかけられた一人の僧侶の人生。自分の人生が書かれた本を見つけてしまった男の物語。その一つ一つに、彼女は驚き、怒り、笑い、時には眼に涙を浮かべながら熱心に聞き入った。彼女がくるくると表情を変えるのが面白くて、僕は時間が立つのも忘れて、怪異譚を語り続けた。
「ところで」
五つ目の物語を語り終えたところで、彼女は僕に尋ねた。
「貴方はここに、どんな話を聞きにきたのですか」
僕が話に夢中になっている間に、雨は、すっかり止んでいた。雲の暮れ間から再び顔をのぞかせた太陽は、時雨に塗れた緑の一葉一様に拡散され、山中にキラキラとした光を注いでいた。
正直に打ち明けるべきか悩んだが、雨宿りもお仕舞いだ、最後にきちんと彼女に伝えてからここを去ろうと思った。
「僕は――」
まっすぐに僕を見つめる彼女の目の輝きに、真白の微笑みに、僕は誠実でありたかったと思った。
「雪女の伝承を捜しに来たのです」
「雪女――ですか」
しばしの沈黙の後、彼女は独り言のようにそう言うと、山道に差し込む柔らかな光を見つめ、眩しそうに目を細めた。
「初対面の方に失礼とは思いますけれど」
彼女は僕に向き直る。着物に縫い付けられた"花"がひらりと揺れる。
「一つ、私のお願いを聞いてくれますか」
予想外の展開に僕は二の句が継げず、ただ彼女を見つめることしか出来なかった。この山奥の小さなバス停で何かが始まる予感を確かに感じて。
「私は――貴方がたの言うところの雪女です」
彼女はそう言うと着物の袖に舞う一片の花弁に優しく触れた。僕は相変わらず、何も言うことが出来ない。ただ、彼女のその一連の仕草を、夢見心地で眺めていた。
「この花を――」
赤く紅い彼女の着物を彩る花、春の象徴であるその美しい花。
「桜を、見てみたいのです」
それは冬の終わり。春の始まり。
一旦終わりかけた僕と雪女に纏わる物語は、こうして再び幕を開けたのだった。
私は米国大統領のアルバイトをしており、今日はなかなかに忙しゅう御座いました。
ガラスケースに包まれたスイッチを、ケースを粉砕するように拳を振り下ろして押下するのは楽しいものですね。
キーボードには血が滲みます。血の滲む思いとは、嗚呼、こういうものなのでしょうか。