第十話 月
「頭痛、ですか?」
小首を傾げ、雪さんがこちらを覗き込む。
膝枕をされたまま寝入ってしまった昨晩のことが思い出されて、僕は彼女と視線を合わせることが出来なかった。
「ええ。それはもう激烈な」
真っ直ぐな視線から逃げるように、大通りを走り去る自動車に視線を向けて、僕は答える。朝早いとはいえ、既に日が登って久しい。荷を運ぶトラック、会社に向かうサラリーマン達、生ごみを狙って飛来するカラスの群れ。町は、緩やかに活動を開始し始めていた。
「頭が痛くなるような事を考えてばかりいるからですよ」
雪さんはそう言って微笑んだ。
生命保険会社らしき建物を通り過ぎる。ガラス張りのエントランスには、美術館で催されている特別展のポスターが掲示されていた。筆で書かれた「巧みの技!」という文句が踊る。地元の陶芸家の作品展が行われるらしい。
目前の信号が赤に切り替わったため、僕らは足を止めた。
「現実を疑う、というのは精神に悪影響を与えるのかもしれません」
前方にを目を向けたまま、まるで独り事のように僕は言った。
行き交う車と人をじっと眺めていた雪さんが再びこちらに視線を向ける気配を感じ、僕は言葉を継ぐ。
「現実を疑う人種の典型に芸術家が挙げられます。広く評価を得ている芸術の極みの様な作品は、必ずしも見えている風景を正確に切り取ったものではありません。芸術の極致は、写実ではないのです。彼ら芸術家の目は、現実を超越していると言っても良い」
信号が青に変わる。背広姿の男性が足早に僕らの脇を駆けて行った。その姿を見送りながら、僕らはまばらな人の流れに乗るようにして交差点を横断する。雪さんは、口元に手を当て何やら考えているようだった。
対面からやってきた幾人かが、そんな彼女を透過し、歩み去っていった。
「無意識に挑戦するような芸術家は、往々にして破滅的な結末を迎えます。鮮やかなヒマワリを描き出した画家は、耳を削ぎ取り胸を拳銃で打ち抜きました。人生の悲痛を文学に昇華した小説家は、女とともに冷たい水底に飛び込みました。同様の例は枚挙に暇がありません。現実の裏側を覗き見た末に、見てはいけないものに行き着いてしまったのでしょう」
そこまで言うと、僕は彼女の様子を見遣った。いつの間にか再び僕の方を見ていた雪さんと目が合う。
「この頭痛は、警告なのかもしれません。無意識が、これ以上こちらを覗き込むなと言っている。そんな危険信号の様な――」
からん。
雪さんの下駄がコンクリートを擦る音に、僕は現実に立ち戻る。
朝の静寂に不釣合なその音を聴くものは誰も居ない。もし仮に聞こえていたとしても、これから始まる日常の重みに圧殺され、黙殺されるのだろう。
僕には聴こえる。
それは僕が、"見てはいけないもの"に肉薄しつつある証明なのだろうか。
一瞬立ち止まってしまった僕に背中を向け、歩みを進めながら雪さんは言った。
「もし――」
置いて行かれないように、僕は少しだけ足早になる。
「私の存在が、瑠璃くんの負担になるのなら――」
彼女は道を知らないのだ。僕が隣を行かなくては。
「また膝枕をお願いします」
遮るようにそう言った。言ってしまった。
今度は雪さんの足が止まる。目を丸くしていた彼女の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。
「瑠璃くんには、もうしてあげません!」
雪さんは往来の真ん中で声を上げ、とてとてと僕の隣に戻ってきた。そうして「本当に心配しているんですよ」小さな、本当に小さな声でそう言った。
「分かってますよ」
誰に言う訳でも無く、呟いた。
* * *
「暫くは電車での旅が続きます」
例によって切符は二人分買った。一枚を雪さんに手渡し、残った一枚をポケットに捩じ込む。カワヅザクラの分布地である河津町までは、電車を何本が乗り継ぐ必要があった。道程は膨大、日本の半分を南下するような旅であり、どんなに急いでも二日は掛かる。
厳密に言えば、飛行機を使うという手もあるのだが、費用が掛かり過ぎることとと、余分に席を確保する不自然が余りに目立つということで却下した。
「電気で動く輸送機械。電車。でんしゃ」
電車については、事前に解説を済ませておいた。小さな田舎町とは言え、駅ともなれば利用客も多い。不用意にはしゃがれても始末に困ってしまう。
何やらぶつぶつと呟いて、自動改札の前に立ち尽くしている雪さんを何人もの人間が素通りしている。誰にも見えないし、切符はきちんと購入してあるのだから、自動改札などそのまま通りすぎても問題ないはずなのだが、変な所で真面目な彼女は、利用客の様子をじっと眺め、使い方を習得しようと試みていた。
暫くして、彼女はようやく独力で自動改札に切符を挿入し、正規の手段をもってゲートを通過することに成功した。よほど嬉しかったのだろう。ゲートを通り抜けた後、僕に向かってぶんぶんと手を降るのだが、他人の目もあるので見ないふりをした。
比較的大きな街が反対路線にあることも手伝ってか、車内は思いの外空いており、僕と雪さんは座席を確保することに成功した。正確に言えば、僕一人がボックス席を専有していても、冷ややかな目で見つめられることのない状況が成立していた。
「山どころか、町まで出ることになるなんて、考えもしませんでした」
「町どころか、この国の半分を縦断する旅になりますからね」
電車は定刻通りに出発した。車窓の景色は滑るように流れていく。
電車を正確に乗り継ぎさえすれば、目的地までは自動でつく算段である。一時はどうなることかと思ったが、旅路は思いの外順調に推移していることを実感し、僕は安堵していた。
「そう言えば、これまでに山を出ようと思ったことは無いのですか?」
車窓を流れる景色を一生懸命見つめる雪さんに、僕は尋ねた。
「ありませんでした。というより、山を出るという発想が無かったんです。確かに、桜を見たいとはずっと思っていましたが、山の外の世界がどういうものなのか全く分かりませんので、どうして良いか分かりませんでした。夢見るだけで、実際には諦めてしまっていたのです」
「それが何故今になって、行動に出たのですか」
「上手く言えないのですが……あの日、お爺さんが乗っているバスを見かけたことがきっかけだったように思います。お爺さんと目があった時、思ったのです。山は決して閉じた世界ではなくて、外の世界にも繋がっているんだって」
雪さんはそう言うと、遠くを見つめるように目を細めた。
僕らの出会ったあの山が、その視線の先にはある。
土地勘が無いに等しい雪さんに、車窓を流れる景色から自分の山を見つけ出せるはずもない。何か感じるものがあったのだろう。僕には分からない繋がりが、山と雪女にはあるのかもしれない。
雪女と老人の出会いにどんな意味があったのか、今の僕には分からない。
示唆に富んでいるようにも思われるし、ただの偶然であるように思う。
ただ、雪さんと出会い、旅をするきっかけをくれたのは僕にとっても、雪さんにとっても、老人のお陰であることは間違いない。僕は老人に感謝し、流れ行く山並を見つめながら、今一度彼の冥福を祈った。
* * *
「月」
電車に乗ってから二時間が経過しようとした頃、車窓を眺めていた雪さんが声を上げた。僕は移動用に準備していた文庫本から目を離し、車外に目を向けた。
「瑠璃くん、月が見えますよ」
時計に目をやると、正午を少し過ぎた頃である。昼の真っ只中、月など見えるものだろうか。そう思って空を見ると、なるほど、青空の中にぼんやりと月が顔を覗かせていた。
「私、月が好きなんです」
そう言って彼女は僕の方に向き直り、何かを大切なものを抱くように丁寧に両手を胸に当てた。
「どうして、月が好きなんですか」
電車の速度は徒歩の比ではない、月はすぐに見えなくなってしまった。僕は文庫本を脇に置くと、彼女に尋ねた。
「在り来りですけど、月は暗闇を照らしてくれるから」
――暗闇が怖いんです。
月がまるでまだそこにあるかのように、雪さんは何も無い空を見つめている。
冬が終われば彼女が消えてしまう。その後は――
体から意識だけが飛び出して、暗い穴の底に閉じ込められるよう――
彼女はそう言っていた。
決して光の届くことのない、意識の檻。
雪女であるがゆえ、春も夏も秋も、そんな暗闇に囚われることを強いられる彼女にとって、それが例え微かな灯りであったとしても、闇を照らす月の光はどれほど心強かったことだろう。
月明かりが仄かに照らすあの山道を一人ぼっちで歩く雪さんの姿を僕は見た。
「瑠璃くん」
張り詰めた糸が震えるような美しい声音で彼女が僕の名を呼ぶ。
「瑠璃くんが居るから、今は――」
――寂しくありません。
がたごとと心地良いリズムを刻みながら、電車は、定刻通りに運行している。
不摂生が祟って、少々太ってしまった。
愛と勇気を友人とする先達のように、カロリィを皆に分け与えるのさと吹聴していたところ、
「ではそのカロリィとやらを寄越せ」
などと言われ、腹回りの肉を引き千切られました。
ダイエット出来て嬉しかったです。




