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 ハザウェルの用意してくれた馬はとてもよく走った。お陰で夕暮れまでには国境を越えることが出来、ハロルドはホッと息をつく。白い街道をどこまでも進み、ようやく小さな町に辿り着いたハロルドは、そこで今夜の宿を探すことにした。

「何か食べるものはあるかな」

 一軒の店に入り、注文すると、すぐに黒い塊と豆のスープが出て来る。黒い塊は野豚の肉を丹念に煮込んだもので、アルフヘイムの伝統料理だ。

「この辺じゃ見かけない顔ね」

 ハロルドの前に皿を置いた少女が、テーブルに肘を突いてしな垂れ掛かる。そうすると、大きく開いたドレスの胸元から豊かな胸が今にも見えそうだった。

「こら、ヘレン! いい男と見るとすぐに声を掛けやがって」

 カウンターの内側でグラスを磨いていた店主が少女を叱り付ける。

「すまねえな、旦那。あっしの娘なんでさあ」

 申し訳無さそうに謝る男にハロルドが笑みを返すと、少女は緩やかにウェーブのかかったブロンドを揺らしてツンとそっぽを向いた。

「あたしはもう十六よ! 結婚だって出来る歳なんだから!」

「つい昨日までオムツしてたくせになあ」

「そうそう。オレの膝の上でお漏らししたのは、どこのお嬢さんだったかなあ」

 少女の言葉に、途端に周りにいた酔客達が冷やかしてドッと笑う。その楽しそうな雰囲気につられてハロルドが笑みを零すと、人好きのするその笑顔を見て店主が目元を緩めた。

「にいさんはどこから来なすったい」

「ハーバザードです。この辺りにいい宿屋があったら紹介して欲しいのですが」

 ハロルドの言葉に、しかし店主が渋い顔をする。

「あいにく小さな町で、宿屋はウチだけだ。だが、二部屋とも先程埋まっちまってなあ」

 そして、チラリと店の奥を見る。そこにはハロルドと同じ年頃と思われる全身黒尽くめの青年が、独りで黙々とパンを食んでいた。背中まで伸びた艶やかな黒髪を、女性のように後ろで一つに束ねている。留め損ねた前髪が一筋だけ顔に掛かっていて、それが妙にその青年を女性めいて見せていた。遠目でもかなり美しい青年なので、これでドレスでも着せれば間違いなく女性に見えるに違いない。しかも、かなりの美人だ。

「部屋は狭いしベッドは一つきりだから、相部屋というわけにもいかんし……」

 思わず見惚れていたハロルドは、店主の言葉に慌てて視線を戻す。

「自分達の部屋に泊めてやってもいいが……」

 店主の言葉に、途端にヘレンがパッと顔を輝かせて父親を見た。

「ほんとッ?」

 そして、クルリとハロルドを振り返ると、嬉しそうに頬を染めて胸前で手を握り合わせる。

「是非泊まっていって! ねッねッ?」

 すると、その様子を眺めていたカウンター席の客がそっと内側へ身を乗り出した。

「いいのかい、親父さん」

 男の囁き声に、店主がハロルドに背を向けて小さく頷く。

「着ているもんも上等だし、言葉遣いも丁寧だ。きっとどこかの貴族の息子か親戚筋に違いねえ」

「だが、まだ若過ぎるだろう」

 それがハロルドのことなのかヘレンのことなのかはわからないが、そう言った意味ではお似合いの年齢である。結婚はまだとしても、婚約まで漕ぎ着ければこんな美味しい話はない。

「う~ん……」

 店主の思惑など夢にも思わないハロルドは、低く唸ると窓の外に視線を向ける。外は既に真っ暗だし、次の町までどのくらいあるかもわからない。迂闊に夜道を行って山賊や山犬に襲われても危険である。ここは店主の好意に甘えて厄介になるしかないかと思ったその時、店の奥でガタリと音がして不意に誰かが立ち上がった。

「私の部屋に泊まるといい」

「え?」

 驚いてそちらを見ると、先程の黒尽くめの青年がハロルドを見て立っている。

「私の部屋に泊めてやる。宿代は折半。それでいいな」

「あ……ああ」

 青年の言葉にハロルドが頷くと、途端にヘレンが、えーッ、と不満そうに声を上げた。

「ウチの部屋に泊まればいいのに! ウチならタダよ?」

 プッと口を尖らせて言うのへ、ハロルドは困って苦笑する。

「いや。厄介を掛けるわけにもいかないし」

 そしてそう言うと、自分の皿を持って青年のいる奥の席へと移動した。

「助かるよ。俺はハロルド。君は?」

 青年の向かいに腰を下ろし、ハロルドはにこやかに礼を言う。再び椅子に腰を下ろして食事を再開していた青年は、チラと視線を動かすと、口の中のパンを嚥下した。

「……ノアール」

 愛想の無いボソリとした返事だったが、ハロルドは思わず微笑む。

「綺麗な名だな」

「……私は嫌いだ」

「そうかな。綺麗な名前だと思うけど」

 ハロルドはそう言うと、青年の前に置かれている皿を見る。皿の上にはこの地方独特の全粒粉を練って焼いた丸パンが二つだけ載っていた。

「よかったらこれも食べないか」

 皿を見詰めながら黙々と口を動かしている青年に自分の皿の肉を勧めると、ノアールの眉がピクリと寄る。

「……獣の肉は食わない」

「では、こちらを。これには豆しか入ってないよ」

 代わりに豆のスープの入った皿を目の前に押しやると、ノアールは初めて視線を上げてハロルドを真っすぐに見た。

「お前がどこの金持ちかは知らないが、自分の食い物は自分で買う。見知らぬ者に恵んでもらうほど窮してはいないし、もし哀れまれたのであればこれほどの侮辱はない」

ハロルドは寡黙な青年が突然たくさん喋り出したので、呆気に取られて口をポカンと開ける。しかし、すぐに彼を怒らせてしまったらしいことに気付くと、慌てて首を横に振った。

「すまない。君を怒らせるつもりは無かったんだ。ただ、この肉の塊は俺一人で食べるには大き過ぎるし、豆のスープは子供の頃から苦手で、我慢すれば食べられるけど、好きな人に食べて貰えれば嬉しいと思って君に勧めただけなんだ。気に障ったのなら許して欲しい」

 ハロルドは必死に謝り、説明する。豆のスープは子供の頃に散々食べさせられたので本当に苦手な料理の一つだ。すると、誤解が解けたのか、ようやく青年の眉間の縦皺が取れる。

「好き嫌いは良くない。ハーバザードは豊かな国だが、ドルディアにはその日食う物にも困って盗みや人殺しをする者もいる。親を喪って餓死する子供も後を絶たない」

「すまない……」

 確かにそうだと思って謝ると、青年がスープ皿を引き寄せながら言った。

「これは貰おう。『貸し』にしておく」

 そして、持っていたパンの切れ端をスープに浸すと、垂らさないように口に運ぶ。口の中に入れた瞬間、その口元がフワッと小さく綻んだのを見て、ハロルドも思わず微笑んだ。

「こんなに旨いのに。可哀相な男だ」

「ありがとう」

 ノアールの言葉に、ハロルドは思わず礼を言う。嫌味を言ったつもりらしいノアールはたちまち顔を顰めると、変な奴だ、と言って再びスープを口に運んだ。

「俺はハーバザードから来た。君は?」

 青年がスープ皿を見詰めながら丁寧にスプーンで掬って口に運ぶのを無意識にジッと見詰めながら問うと、同じだ、という答えがボソッと返って来る。

「そ、そうか……」

 答える瞬間、赤い舌先がチラリと覗いて薄い唇を舐め、ハロルドは何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、思わずドキドキと視線を逸らした。


「ベッドはお前が使え。私は床で慣れている」

 夕食後、部屋に上がるとノアールが開口一番に言う。間口の狭い縦長の部屋には左の壁際にベッドがあり、後は枕元に小さなサイドテーブルがあるだけで、他に家具らしき物は無い。そして、ノアールはさっさと荷物を壁際に置くと、ベッドに背を向けて床にゴロリと横になってしまった。

「いや、そういうわけにはいかない!」

 ハロルドは慌ててノアールに歩み寄ると、肩に手を掛けようとしてハッと動きを止める。いつの間に抜いたのか、細身のレイピアがハロルドの首筋にピタリと当てられていた。

「それから、寝ている私には決して近付くな。命が惜しかったらな」

 ノアールの闇色の瞳が冷たくハロルドを見上げる。ハロルドはその言葉の内容よりも、自分を見詰めるその瞳の美しさに驚いて、吸い寄せられるように見詰め返した。

「私は無意識下でも反射的に身体が動くように訓練されている。たぶん、間違いなくお前の首を切る」

 ノアールはそう言うと、今まさに自分の肩に触れようとしていた手をチラリと見やり、スッとレイピアを引く。両刃の細剣は肌に触れたようには感じられなかったのに、違和感に手をやると、微かに血の跡が手の平に付いた。

「わかった、気を付けるよ」

 頷いて、ハロルドはノアールの肩に触れようとしていた手を引っ込める。

「忠告はしたぞ。起きた時に横に死体があっては寝覚めが悪いからな」

 ノアールはそう付け加えると、再びハロルドに背を向けて目を閉じた。

(……なんて目だ)

 今もまだ心臓がドクドク言っている。しかし、胸の鼓動が早いのは青年に対する恐怖心ではなかった。部屋の灯りを落としてベッドに横になったハロルドは、ノアールのどこまでも澄んだ黒い瞳を思い出す。髪も瞳もヴァランと同じ黒色なのに、その本質は全く違う。ヴァランの黒が何者をも塗り込めようとする威圧的な黒だとするならば、ノアールのそれは何者にも犯されまいとする黒……誰もが守らねばと思うような神聖な黒だった。

(そう言えばヴァランには何も言わずに来てしまったけれど、今頃心配しているだろうか……)

 ハロルドは暗い天井を見上げながら考える。あれにはオレから伝えておく、と父王は言っていたが、やはり顔だけでも見てくれば良かった。イリヤーの容態も心配だ。ヴァランは大丈夫だと言っていたが、風邪は万病の元。こじらせて大事に至っては大変である。その時、同じ室内でクシュンと小さなくしゃみが聞こえる。ハロルドは慌てて顔を上げて、床の上で寝ているノアールを見る。店主に借りた毛布を肩からすっぽり被ってはいるが、身体の下は硬い床だ。氷のように冷えきっていたイリヤーの身体を思い出し、ハロルドはそっとベッドを降りた。

 『寝ている私には決して近付くな』

 ノアールの忠告と、首筋に当てられたレイピアの切っ先を思い出す。しかし、気付いた時にはハロルドは青年の傍に歩み寄っていた。ノアールは左腕を枕にし、こちらに背を向けて眠っている。チラリと見える横顔は、長い黒髪がかかっていてよく見えなかった。

(大丈夫……何もしないよ)

 ハロルドはその横顔に心の中で話し掛けながら屈み込む。

(安心して。俺は絶対に君に危害を加えない)

 ドキドキしながら背中と膝裏に手を当て、毛布ごと抱き上げると、黒髪がサラリと流れて白い貌が仰け反るように上向いた。

(うわッ……)

 ハロルドは思わずドキリとして、男にしては美し過ぎるその顔から慌てて視線を逸らす。

(それにしても軽いな……)

 上背も体格も確かに小柄だが、ノアールの身体は恐ろしく軽い。それをそっとベッドに横たえると、ハロルドは自分もその脇に横たわり、毛布を自分達の上にそっと掛けた。

「おやすみ」

 そっと囁き、無防備に眠る綺麗な横顔を暫し眺めてから目を閉じる。ホッとしたのか、眠りはあっという間に訪れた。


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