7
夜半過ぎ。何かに眠りを妨げられたハロルドは、薄っすらと目を開けて周囲を窺う。視界の隅で何かがチラチラと光っている。それはハロルドのいる寝室から箱庭を見て左側、ちょうど浴室の窓の辺りだった。
「……何だ?」
最初は不審者が侵入したのかと思ったが、浴室の窓に何かが反射しているらしいことに気付く。ハロルドはそっと寝台を抜け出すと、浴室に続くドアを開けて窓を見た。
「あれは確か……」
昼間にチラと見た光景を思い出す。箱庭の上に浮かんだ四角い青空の中に一つだけ見えたもの。それは西の塔の頂だった。
「こんな真夜中に誰かいるのか?」
塔の頂には物見台がある。もしかしたら誰かが逢引き相手に合図を送っているのかもしれないと考え、ハロルドは警戒を解く。
「人騒がせな」
寝室に戻って横になったが、しかし光はいつまでもチラチラと揺れている。
「待ち人来たらずか」
そう呟いたハロルドは、しかし、次の瞬間ハッとして体を起こすと、慌てて枕元の蜀台から蝋燭を一本抜き取って火をつけた。先程の窓際に立ち、焔を手で隠して一瞬だけその手を外す。ハロルドの合図に応えるように、西の塔でもチカッと光が瞬いた。
「やっぱり……」
誰かが自分を呼んでいる。自分に気付け、ここに来いと。躊躇いは一瞬だった。ハロルドは寝衣を脱ぎ捨てて衣服を纏うと、扉の鍵をそっと開ける。そして、ドアの隙間からスルリと外に抜け出すと、常夜灯だけがポツポツと灯る薄暗い廊下を足音を忍ばせて急いだ。
外からは専用の鍵を差し込まなければ開かない扉も、内側からは簡単に開く。ハロルドは誰にも見咎められることなく直通の廊下から一般の廊下に滑り出ると、中庭を目指した。廊下には等間隔に細長い窓が開いており、常夜灯とは違う白い月の光が冷たく床上に差し込んでいる。真夜中だからか、廊下には使用人の姿も無い。ハロルドは足早にその廊下を抜けると、中庭に続く扉をくぐった。
(寒……)
春先とは言え、まだ夜気は冷たく、吐く息が白く凍る。ハロルドは上着の前をしっかり合わせると、西の塔を目指した。
(それにしても広いな……)
ハロルドの部屋は宮殿の一番東端に位置しているので、西の塔に行くにはその広大な敷地を端から端まで歩かねばならない。夜露に濡れた下生えの中を辛抱強く進むと、やがて西の塔が目の前に現れた。
(ここか……)
西の塔は近くで見ると想像以上に古かった。細長い円柱の所々に人が外を覗けるくらいの丸い小窓が開いている。一番上にある物見台の窓は真っ暗でシンと静まり返っていたが、ハロルドは構わず、正面に見える扉に歩み寄った。
キイッ……
指先でそっと触れると、古びた扉は蝶番を軋ませて内側へと開く。塔の内部は円形で、中央にある円柱の周りを人がようやくすれ違える程度の細い階段が螺旋状に這い登っていた。戸口から差し込む月明かりの中に崩れかけた石の階段が数段見えたが、そこから先は暗闇の中に溶けている。
(もし罠だったら……?)
後ろ手に扉を閉めると、途端に月明かりが遮られる。ハロルドはジッと耳をそばだてながら、目が暗闇に慣れるのを待った。
(静かだな……)
塔は古くて不気味だが、しかし殺気のようなものは感じない。ハロルドは真っ暗な階上を見上げると、明かり取りの窓から差し込む朧な光を頼りに階段に足をかけた。途端に靴底が細かな砂を踏み、ジャリっと小さな音を立てる。
ジャリッ、ジャリッ、ジャリッ……
頭上に注意を払いながら一段一段慎重に上って行くと、小窓の側を通る度に地上がどんどん遠くなって行くのがわかる。やがて王宮の建物や樹木が全て眼下に見渡せるようになった頃、ハロルドは中央の円柱の側面に何かあることに気付いた。
(扉……?)
円柱の分厚い壁が四角く切り取られており、木製の扉が嵌め込まれている。どうやら内側に部屋か何かがあるらしい。階段の先から時折冷たい風が吹き降ろして来るところをみると、このすぐ上が物見台のようである。丸いドアノブを見詰めて中を確認しようかどうしようか考えていると、その時頭上でドサッと何かが倒れるような音がした。
「……ッ!」
途端に鼓動が速くなる。ハロルドは扉の前を離れると、足音を忍ばせて階段を急いだ。やがて急に空気の匂いが変わったかと思うと、突然頭上が開ける。
(どこだ……?)
物見台は円形の小部屋になっており、吹きさらしの窓から月が見える。辺りを見回すと、東側の窓の下にカンテラが置かれており、そのすぐ傍に黒い人影が壁に寄り掛かるようにして蹲っているのが見えた。
「誰だ……そこで何をしている」
声を掛けたが応えは無い。目を凝らして見ると、ぐったりと俯いている白い顔が闇の中にぼんやり見える。
「おいッ……?」
ハロルドは慌てて駆け寄り、床上のカンテラを持ち上げてその人物を照らす。最初に目を惹いたのは、床上に流れ落ちる長いブラウンの髪だった。
(女ッ……?)
暗くてよく見えないが、着衣も一重のドレスのようなものを着ている。それが薄い布地で作られた寝衣なのに気付き、ハロルドは別の意味で慌てた。
「おい、大丈夫か!」
上着を着ていてもこの寒さである。吹きさらしの物見台にこんな格好で長時間いたら、体中の熱を奪われてしまったに違いない。ハロルドは相手が何も武器らしい物を持っていないことを確認すると、細い肩を掴んで揺さぶる。
「おいッ!」
すると、ハロルドの声に反応したのか、ぐったりと俯いていた顔が少しだけ上がった。まだ若い、美しい顔がカンテラの明かりの中に照らし出される。その肌がすっかり血の気を失っているのを見て、ハロルドは慌てて再び細い肩を揺すった。
「おいッ、おいッ!」
耳元で何度も呼ぶが、反応が無い。誰かを呼んで来なくてはと腰を浮かし掛けたその時、ハロルドの袖が微かに引かれた。
「……待って」
「……ッ!」
ハロルドは慌てて屈み込み、再びその顔を覗き込む。その瞬間、薄く開かれた目蓋の奥で青い瞳がハロルドを映した。
「あなたはッ……!」
名を呼ぼうとして、しかしすぐに違うことに気付く。髪の色や青い瞳は確かに王妃と同じだが、顔は彼女よりも随分若かった。それに、先程掴んだ肩は、華奢だが確かに男性の骨格である。
「とにかく、どこか暖かい場所へ」
ハロルドは青年の脇と膝裏に手を入れて、華奢な身体を抱き上げる。とりあえず宮殿に連れて行こうと思い、歩き掛けたその時、胸元で微かに息が漏れた。
「すぐ下に……部屋が……」
それがさっき見た扉のことだと気付き、ハロルドは頷いて階段へと急ぐ。そして、落とさないように注意しながら部屋の前まで戻ると、なんとかドアノブを回して押し開けた。
「ここは……」
どうやらそこは青年の居室のようで、狭い部屋に窓は無く、奥の壁際に簡素なベッドが見える。部屋の中央には小さな丸テーブルと椅子が一つだけ置かれており、その上に置かれた蜀台では蝋燭が一本だけ燃えていた。ハロルドは腕の中の男をベッドに寝かせると、辺りを見回す。吹きさらしの物見台に比べれば風が無い分少しはマシだが、その部屋には暖炉ひとつ見当たらなかった。
「早く身体を温めないと……」
青年の肌は寝衣の上からでもわかるほどに恐ろしく冷たくなってしまっている。とにかく宮殿に戻って誰か呼んで来ようと立ち上がり掛けたその腕を、再び冷たい手がそっと掴んだ。
「大丈夫……心配しないで……」
「バカを言うなッ」
ハロルドは思わず声を荒げると、自分の袖を握り締めている手を掴む。その手も氷のように冷たかった。
「人間は体温が下がり過ぎると死ぬ。知らないのか!」
「いいんだ……」
しかし、返って来たのは思いも寄らぬ言葉だった。青年は目を閉じて小さく息をつくと、紫色に変色した唇を笑みの形に引く。
「いいんだよ、ハロルド……」
ハロルドはその青年が自分の名前を知っていることに驚き、動きを止める。
「なぜ俺の名を……」
「知っているよ……君は僕の弟だもの」
青年が弱々しく微笑む。
「では、貴方が第一王子の……?」
ハロルドは驚いて目を見開くと、俄かには信じられずに青年をまじまじと見た。確かに年の頃は同じだが、一国の王子がこんな古びた塔の粗末な部屋に独りきりでいるなど考えられない。しかも、布団こそ高級そうだがベッドは小さく、床には絨毯さえ敷かれていないのだ。それが顔に出たのであろう。イリヤーは弱々しく笑うと目を伏せた。
「僕は小さい頃から身体が弱くてね……一年程前から寝込むことが多くなって、この部屋に移してもらったんだよ。ここは幼い頃からの僕の隠れ家でね……この部屋にいると落ち着くんだ。笑うかい?」
ハロルドはイリヤーの言葉に戸惑う。手を伸ばして触れると、布団から出ている細い腕はまだ氷のように冷たかった。
「人を呼びに行かせてください、兄上。このままでは本当に死んでしまいます。すぐに戻って来ますから、それまでどうか……」
「人を呼べば、僕はもう君に会えなくなる」
ハロルドの言葉に、しかしイリヤーは首を横に振って答える。自分を見上げる青い瞳が、真剣な眼差しで揺れた。
「どうしても君と話してみたかったんだ。死ぬ前にどうしても……」
「死ぬなどという言葉を軽々しく口にするものではありません、兄上」
ハロルドはイリヤーの言葉に眉を寄せる。途端にイリヤーが嬉しそうに目を細めた。
「嬉しいよ、君がいい子で……」
そしてそう言うと、目を閉じて声を潜める。
「僕の母に気を付けて、ハロルド……母は君を殺そうとしている」
「……ッ!」
ハロルドはハッとしてイリヤーを見詰める。
「食事や飲み水だけでなく、君に近付いて来る者にも気を付けて……母が毒を持たせるかもしれないからね」
(では、夕食のスープに毒を入れたのはやはり……)
自分をジッと観察するように見詰めていた青い瞳を思い出す。しかし、確証は無かった。
「滅多なことを口にするものではありません、兄上。もし誰かに聞かれでもしたら……」
王妃への中傷や醜聞は国王への反逆でもある。たとえ第一王子といえどもただでは済むまい。しかし、イリヤーは怯まなかった。
「本当のことだよ。だから、もし母が誰かとの見合いを勧めてきても、決してその女を閨に入れてはいけないよ、ハロルド」
ハロルドは『閨』という言葉に思わず赤面する。自慢ではないが、小城では母親と六十過ぎになる女中頭しか女性というものがいなかったのだ。そんなハロルドにいきなり『閨』の話では、面食らうのも当然である。
「わ、わかりました」
ハロルドは躊躇えながらも承知する。イリヤーは頷くと、真剣な面持ちでハロルドの手を掴んだ。
「君は僕の代わりにこの国の王になるんだ、ハロルド。だから、絶対に死んではいけないよ」
その言葉にハロルドは驚いて瞠目する。
「何を言うんですか、兄上。私は王になどなるつもりはありません」
しかし、イリヤーは静かに首を横に振った。
「僕は体が弱いから、国王になるのは無理だ。母は今でも諦めていないようだけど、父王は考え始めているよ。だから君をここへ呼んだんだよ、ハロルド」
「しかし……」
ハロルドは困惑して言葉を探す。その時。
「ハロルド様」
不意に部屋の扉が開いて、誰かが自分の名を呼んだ。ハロルドは驚いて振り返り、そこにいる人物を見て更に驚く。
「ヴァラン!」
その名を呼んだのはイリヤーだった。イリヤーは嬉しそうに瞳を輝かせたが、しかしすぐに、そうか、と呟き、寂しそうに微笑む。
「お前はもう僕の教育係ではなかったね……」
「え……?」
ハロルドは驚いてイリヤーを見る。ヴァランは部屋に入って来ると、ハロルドの後ろに立ってイリヤーを見下ろした。
「貴方が呼び出したのですか、イリヤー様」
「違うんだ、俺が勝手に……!」
慌てて説明しようとしたハロルドは、しかし、イリヤーに腕を掴まれて言葉を切る。
「そうだよ、僕が呼び出したんだ。どうしてもハロルドに会ってみたかったからね」
「……」
イリヤーの言葉にヴァランが怒ったように眉を寄せる。ハロルドは慌てて立ち上がると、ヴァランの視線からイリヤーを庇った。
「兄上の身体を早く温めないと。体温が下がり過ぎている」
その途端、ピクリとヴァランの眉が動く。そして、無言でベッドに歩み寄ると、手を伸ばしてイリヤーの細い手首を掴んだ。
「……物見台に出たのですね。歩くのもやっとの貴方が、もしハロルド様に気付いて貰えなかったらどうなっていたと思うのですかッ」
ヴァランはキツい口調で叱り付けると、掴んでいた細い手首を布団の中にグイと押し込む。
「とりあえず、ハロルド様はお部屋にお戻りください」
「しかし……!」
ハロルドは慌てて異議を唱えたが、しかしヴァランは引かなかった。
「お部屋にお戻りください。貴方様をお部屋にお送りしたら、人をここへ寄越します」
静かだが有無を言わせぬ口調に、ハロルドはヴァランの怒りを感じて口を噤む。確かに言い付けを守らずに部屋を抜け出したのは自分である。怒られても仕方無かった。
「わかった……戻る」
「では、お早く」
ハロルドは後ろ髪を引かれる思いで部屋を出る。その後に続いて部屋を出たヴァランは、チラリとイリヤーに視線を向けてから無言で扉を閉めた。