19
「国が滅んだ時、シルフィーヌ様に付き添っていたのはこの私です」
イリヤーを西の塔に運んで寝かせると、ヴァランが不意にハロルドに言った。
「えッ、じゃあ……」
身重の妊婦に付き添っていたのだ。もしかしたら自分の父親なのかと思って尋ねると、ヴァランが首を横に振る。
「シルフィーヌ様の夫は私の兄です。私は誰とも契約を交わしておりませんでしたので」
ハロルドは驚いたが、納得する。だからシルフィーヌは突然やって来た使者にも不審がることなくハロルドの身柄を預けたのだ。
「国を失った私はハーバザード国王に請われ、まだ幼かったイリヤー様の養育係になりました。私にとっては憎きドルディアの血、最初は報復も考えましたが、イリヤー様ご自身に罪は無し……。いつしか憎しみを情が上回ってしまいました」
疲れたのか、イリヤーはベッドに横になるとすぐに眠ってしまった。その寝顔を眺めながら、ヴァランが微笑む。
「ハロルド様にはイリヤー様の我侭を聞いて頂き、感謝しております」
「兄上は本当にそれでいいのかな……」
ハロルドにはまだ躊躇いがある。なぜなら、自分は国王の本当の子ではないからだ。
「幸せのかたちは人それぞれです」
ヴァランはそう言うと、イリヤーの襟元からこぼれている細い鎖を見詰める。鎖の先には黒色の透き通った石が下がっていた。
「イリヤー様は王位よりも私をお望みになられた。だから私はこれをイリヤー様に差し上げました。私の忠誠の証として……」
そして、イリヤーは強くて美しい人生の伴侶を手に入れたのだ。ハロルドは微笑んだ。
「何を考えている、ハロルド?」
自室に戻って居間の窓から四角い空を見上げていると、風呂を使ったノアールが濡れた髪を乾いた布で拭いながら歩み寄って来る。
「君のことだよ、ノアール」
ハロルドはそう言うと、白い夜着姿のノアールを見て小さく微笑んだ。ノアールには黒服が似合うが、白い服もよく似合う。
「出来れば君は母のいる小城で自由に過ごさせてやりたかったと思ってね……すまない」
謝ると、その言葉にノアールが笑う。
「バカなことを。私にとってはお前のいる場所が私の居場所だ。そこでもここでも関係ない」
ノアールの言葉にハロルドは驚いて瞠目する。暫しノアールの顔を見詰めていたが、やがて困ったように笑うと、そっと手を伸ばした。
「ここへ来てくれないか、ノアール」
ノアールの笑みがスゥと引いて、代わりに白い頬がふわりと染まる。ハロルドはノアールの肩を抱き寄せると、耳元で囁いた。
「感謝している、ノアール。君には誰よりも幸せになって欲しい」
その言葉に、ノアールが再び笑う。
「そんなのは簡単だ」
そしてそう言うと、ハロルドの肩口に顔を埋めて囁いた。
「お前が一生私を離さなければ良い」
僅かに見える滑らかな頬と形の良い耳が見る見るバラ色に染まっていくのを見て、ハロルドは夢中でノアールを抱き締める。
「ノアール、愛している」
この胸の内の歓びをどう伝えたら良いのかわからなくて、万感の想いを籠めて囁くと、ノアールが顔を埋めたままコクリと頷く。ハロルドは身内から溢れる愛しさに至福の笑みを浮かべると、しなやかなその体を両腕でしっかりと抱き締めた。
了