18
「ヴァラン様が戻られました!」
早朝の王宮内に伝令の声が響く。
「来たか。早かったな」
王は満足そうに笑むと、国王の正装である裾の長いローブを翻して居室を出た。
「ハロルドは一緒か! どんな女を連れて来たのか見て参れ!」
レライエは新調したドレスの裾を打ち払いながら立ち上がり、侍女たちに声を荒げる。
「二人とも無事だね……良かった」
西の塔の物見台では、馬車が来るのを今か今かと待ちわびていたイリヤーが嬉しそうに呟いた。
それぞれがそれぞれの思いを胸に、ハロルド帰還の報せを聞く。朝の静けさに包まれていた王宮が、俄かに騒がしくなった。
ヴァランの操る馬車に乗り、城門をくぐると、すぐに王宮の尖塔が見えて来た。ハロルドはそっと隣に座るノアールを見る。国境付近で人型に戻ったノアールは、ヴァランの用意したドレスに着替えていた。黒布を基調に、細かなレースを施したドレスは清楚で美しく、ノアールの長い黒髪によく似合う。その横顔を見ているだけで、ハロルドは胸が高鳴るのを感じた。
「何だ?」
ハロルドの視線に気付いて、ノアールがどうしたのかと見返す。
「いや……凄く綺麗だなと思って」
感じたままを素直に口にすると、途端にノアールは透き通るように白い頬を微かに染めて、恥ずかしさを隠すように窓外を見た。
「本当に私でいいのか……」
もう何度目になるかわからない同じ質問をされて、ハロルドは苦笑する。
「君じゃなきゃ困る」
これも何度目になるかわからない言葉を返すと、反対に尋ねた。
「それとも、気が変わった?」
我侭を言っているのはハロルドの方で、ノアールは巻き込まれただけである。思わず心配になって問うと、ノアールが視線を戻してきっぱりと言う。
「お前は私が守る」
「それは俺のセリフなんだけどね」
ハロルドは頼もしいその言葉に再び苦笑すると、愛しさにそっと手を伸ばす。指先で滑らかな頬に触れると、ノアールは俯いて再び頬を染めた。
「無事で何よりであったな、ハロルド」
謁見の間ではなく、広間に通されたハロルドは、ハザウェルの言葉に畏まる。
「遅くなりまして申し訳ございませんでした」
「して、その姫がそなたの許婚か?」
「はい。ノアールと申します」
ハロルドの言葉に、ノアールが深くお辞儀をする。再び顔を上げたその美貌を見て、ハザウェルがホゥと感嘆の声を上げた。
「さすがはハロルドの許婚。噂に違わぬ美姫だな」
「勿体無きお言葉……」
ハザウェルの言葉にハロルドが返し、ノアールが再び低頭する。すると、それまで黙って座っていたレライエがすっくと立ち上がった。
「そなた、国はどこです」
「……ッ!」
レライエの言葉に、ノアールが一瞬惑う。
「……国はありません」
「国が無い? それはどういうことか!」
レライエが不審げに声を荒げると、見かねたハザウェルが隣から助け舟を出した。
「ノアールはヴァランの遠縁だ」
「ヴァランの?」
意外な言葉に、レライエが眉を寄せてヴァランを見る。ヴァランはゆっくりお辞儀をすると、恐れながら、と口を開いた。
「ノアールは我が一族の遠縁に当たる姫。今はハーバザードの国境近くにある城に住んでおります」
「確かに顔の造りは似ておるな」
レライエがヴァランの説明に腹立たしげに鼻を鳴らす。しかし、それ以上は追求せずに、手の中の扇をパチンと閉じた。
「あいわかった。じゃが、婚姻は第一王子が妃を迎えてからじゃ! よいな!」
レライエの断固とした言葉に、ハザウェルがゴホンと咳払いする。
「そのことだがな……」
その時、母上、と声がして、突然イリヤーが侍女に付き添われて広間に入って来た。
「イリヤー?」
イリヤーが本殿に来るのは数ヶ月振りである。驚くレライエにイリヤーは弱々しく微笑み掛けると、家臣が急いで持って来た椅子に腰掛けた。
「父上とも話したのですが、僕は王位をハロルドに譲るつもりです」
「何を言うのですか、イリヤー!」
イリヤーの突然の言葉に、レライエが驚愕して激怒する。
「誰が何と言おうと、そなたはこの国の第一王子! この国の次期国王です!」
「僕には無理です。それはドルディア国もわかっている筈です。違いますか、母上」
その言葉にレライエがグッと言葉を詰まらせる。確かに、幼い頃から薬漬けのイリヤーには子を成すことは出来ないだろうと医者からも言われていたし、ドルディアからも第二王子への婚姻の打診が来始めていた。
「許さぬ。そなたはわたくしのたった一人の息子ぞ、イリヤー」
レライエが苦渋に顔を歪めて言う。ハザウェルは椅子の肘掛けを指の節が白くなるほど握り締めているレライエの手に触れると、その上からギュッと握り締めた。
「その息子のたっての願いだ。聞き届けてやれ、レライエ。イリヤーには宮殿の西側を与え、ハロルドの相談役として政に携わって貰う。それに、ヴァランからも願い出があってな。イリヤーの世話係に戻すことにした。異存は無いな?」
「ヴァランが?」
レライエが驚いてハザウェルを見返す。そして、真意を問うように、部屋の隅で控えているヴァランを見た。
「何ゆえ……」
王位がハロルドに移ったとなれば、そちらについている方が得策であろう。すると、ヴァランがレライエに答えるように頭を下げる。
「わたくしも泣く子には敵いませんので」
その言葉に、イリヤーが恥ずかしそうに笑みを浮かべる。ハザウェルは厨房から漂って来る旨そうな匂いを嗅ぎつけると、笑みを浮かべて立ち上がった。
「さて、そろそろ晩餐の時間だな。場所を移そうか、レライエ」
そしてそう言うと、再びレライエの手を取る。
「……?」
レライエが驚いて夫を見上げると、ハザウェルは笑みを深めてレライエを見詰め返した。
「今宵は一緒に酒でもどうだ、レライエ」
「……ッ?」
何年ぶりかで見る照れを含んだ笑みに、レライエは驚いて瞠目する。それがどういう意味かはレライエにもわかった。
「面白い寝物語もあるぞ。オレがまだ子供だった頃、避暑に出掛けた先で出会った可愛い姫の話だ。聞きたくはないか?」
穏やかに問われて、レライエは困惑顔で唇を引き結ぶ。その姫とは紛れもなく自分のことだった。
「……覚えてなどいらっしゃらないのかと思っておりました」
レライエはそう言ってプイとそっぽを向くと、続けて尋ねる。
「……ワインは赤でよろしかったか?」
その頬が僅かに染まっているのを見て、ハザウェルは笑みを深めると、答える代わりにレライエのほっそりとした手を取り、その指先に口付けた。