16
「うッ……」
目覚めた途端に全身が悲鳴をあげる。ノアールは激痛に耐えながら目を開けた。最初はここがどこだかわからなかったが、徐々に意識が覚醒していくうちに、逃げ出した筈の炭焼き小屋に寝かされていることに気付く。
「なんで……うッ!」
掛け布を捲ろうとした途端に再び激痛で呻く。自分では腕一本上げられない状態に、ノアールは焦った。
「まだ動かない方がいい。変化したばかりで身体が順応しきれてないんだ」
突然の声にノアールはギクリと硬直する。恐る恐る視線を向けると、竈の前で見知らぬ男が暖を取っていた。
「あなたは……」
「気絶して倒れていたので、取り敢えずここへ運んだ。憶えていないのか」
男はそう言うと、陶器の椀に水を汲んでノアールに歩み寄る。
「変化した後は喉が渇く。飲め」
「あなたも……ジブリエルなのか」
「そうだ」
ノアールはその言葉に緊張を解くと、上体を少しだけ起こして椀の水を飲み干した。
「すまなかった。ここには他には……」
小屋の中には男の気配以外に感じないので尋ねると、男が、いや、と答えて首を横に振る。
「お前を運び込んだ時には誰もいなかった。しかし、竈がまだ温かかったから、もしかしたら朝方まで誰かいたのかもしれないな。お前の恋人か?」
男に問われて、ノアールは言葉に詰まる。そして、意識を失っている間も握り締めたままだったらしい右手を開くと、手の平の石をぼんやりと見詰めた。
「その石は?」
男の言葉にノアールの瞳が大きく揺れる。
「これは私の石だ……私が取り返した」
「取り返した?」
男がノアールの言葉に眉を寄せる。
「なぜそんなことを。お前はその男の為に変化したのではないのか?」
「……わからない」
ノアールは答えると、顔を歪めた。
「恐かった……。今まではどこにいても何をしていても相手の存在を感じることが出来たのに、石を取り返した途端に急に何も感じられなくなってしまって……」
ノアールはその時のことを思い出してブルリと身を震わせる。そして、不意にハッとして言葉を切ると、震える指で自分の頬に触れて恐る恐る訊ねた。
「教えて欲しい。私は……私はどちらに変化したのだ?」
「……どちらになりたかったんだ?」
反対に問われて、ノアールは激しく動揺する。
「では想像してみろ。自分の想い人が別の誰かに優しく微笑み掛けるところを」
「……ッ!」
ノアールは瞠目して言葉を失う。大きく見開かれた両目から大粒の涙がボロッと零れた。
「なんだ、答えは出ているじゃないか」
男が目を細めて楽しそうに微笑む。
「しかし困ったね。肝心の石を取り上げてしまっては、相手の位置がわからない。いったいどちらに向かったのやら」
「わかっている……ジブリエルの城だ」
そう言って立ち上がろうとしたノアールは、再び激痛に顔を歪めて蹲る。その視界に、今まで自分が掛け布代わりに掛けていたものが映った。
「これは……!」
「そこに干してあったので、上掛け代わりに借りたんだ。恋人のものか?」
男はそう言うと、その上着をノアールの肩に着せ掛ける。
「では、その匂いを辿って行くがいい。ここで見つけなければ、一生会えなくなってしまうぞ」
「……ッ!」
ノアールが弾かれたように顔を上げる。その美しい貌から一気に血の気が失せた。
「わたしが倒れてからどれくらい経った……」
「さて」
男が首を傾げて考える。
「お前を見つけたのが雨が降り出した日の午後だから、ちょうど三日といったところか」
「三日……」
ノアールは愕然として言葉を失う。とすると、ハロルドは既に王都に入ってしまった可能性が高い。王都は人も多く、道も入り組んでいる上に、路上にはたくさんの露店が軒を連ねていて年中お祭り騒ぎだ。その中から若者一人を探し出すことは困難と言うよりも不可能に思えた。
(それでも行かなければ……)
ノアールは全身の痛みに耐えながら立ち上がる。
(何としても探し出して、全てを話さなければ……)
石を奪い、契約を一方的に不履行にしたのは自分だ。国は滅びても、自分は尊きジブリエルの一族だと言うのに。
(許してもらえるだろうか……)
いきなり自分の持ち物を奪われたのだ。きっと怒っているに違いない。しかし、たとえ詰られても罵られても謝らなければと思った。謝って、そして……。
(もう一度この石を受け取って欲しい……)
どんなに離れていても、ハロルドを想うといつも胸が熱くなった。どんなに寒くてひもじい夜も、ハロルドのことを考えただけで胸がいっぱいになった。初めて人を切った時、神ではなくハロルドに許しを請うた。
(ハロルド……)
ノアールはふらつく足で戸口に向かう。数歩歩くだけで息が上がり、目の前が霞んだが、一刻の猶予も無かった。
(ハロルド……!)
なぜこの気持ちに気付かないふりをしていたのか。あんなにも焦がれた許婚に会えたというのに、なぜ自分は意固地になっていたのだろうかと己の浅はかさを悔いる。ノアールはようやく戸口に辿り着くと、扉にぐったりと体重を預けて閂を外す。そして、扉が開くと同時に支えを失い、勢いよく戸外に転げ出ると、地面に倒れた。
「ノアール!」
不意に誰かに名を呼ばれ、ノアールは信じられない面持ちで顔を上げる。そして、こちらへと駆けて来る人物を見るなり、黒曜石の瞳にみるみる涙が盛り上がってポロリと零れた。
「ハロルド……!」
駆け寄るハロルドに、ノアールは夢中で手を伸ばす。そして、痛みすら忘れて必死に身体を起こすと、自分を助け起こすハロルドの首に両腕を回してしがみ付いた。