14
夜半過ぎ。
焚き火から少し離れた場所で外套に包まって寝ているハロルドにそっと近付いたノアールは、彼が熟睡しているのを確認し、そっと首筋に視線を走らせる。上着をきっちり着込んでいるので、中までは見えない。息を殺して襟元に指先を差し込むと、中指の先が何かに触れた。
(あった……!)
しかし、パッと瞳を輝かせた次の瞬間、熟睡しているとばかり思っていたハロルドが不意に身じろいだので、ノアールはハッと手を引き硬直する。
「ん……」
横向きに寝ていたハロルドは顔だけ上向けると、眩しそうにこちらを見上げた。
「ああ……見張りの交代か?」
夜の見張りは夜半過ぎと決めていた。
「……ああ」
ノアールは低く応えると、フイと視線を逸らす。どうやらハロルドは何も気付かなかったらしい。ノアールは小さく息をつくと、枯れ枝の山から一本取って火にくべた。
「今夜は冷える……火を絶やすなよ」
広い森の真ん中を通る白い街道は、翌日になると徐々に上り坂になった。ノアールに訊ねると、ここから先はこのような起伏のある道がずっと続くのだと言う。町を出てからは一軒の店も民家も無かったが、途中には沢や清水が湧く岩場もあって飲み水には困らなかったし、食料はノアールがどこからか調達して来るもので十分足りた。
「ノアールは凄いな」
その晩もハロルドは、ノアールが仕留めてきた鴨に舌鼓を打ちながら感心して言う。一口大に切った鴨肉を串に刺して火で炙っただけだが、これが実に旨い。鴨をさばく手つきも手馴れたもので、ノアールならどこででも生きていけるに違いないと思えた。
「お前が生活力が無さ過ぎるのだ」
手放しの賛辞にノアールが不機嫌そうに返し、食べた後の串を火に投げ入れる。この串もノアールが木の枝を削って作ったものだ。
「俺も小弓は使うが……」
「誰かに追い立ててもらって仕留めるのは狩りとは言わん」
「えっ……」
まるで見てきたかのような言葉に、驚いて正面を見ると、ノアールが一瞬眉を寄せてから横を向く。
「どうせそんなところだろうと思っただけだ。お前は見るからにお坊っちゃんだからな」
そして、手を伸ばして枯れ枝を掴み、無造作に火にくべる。
「そうか……」
ハロルドは思わず赤くなると、苦笑した。
「ジブリエルへは人を探しに行くんだ」
「……縁者か」
「許婚だよ。俺が産まれる前から決まっていたらしい」
ノアールは無言でジッと焔を見詰めている。ハロルドも同じ焔をジッと見詰めた。
「ジブリエルが滅ぼされた時、彼女は侍女に抱かれて逃げ延びたらしい。だが、その後の消息は不明だ」
「既に死んでいるかもしれんぞ」
ノアールが再び焚き木に手を伸ばしながら低く言う。暫くカラカラと音をさせて手頃なものを探していたが、結局何も持たずに視線を戻した。
「生きていても奴隷商人に売られてしまったかもしれん。保護者のいない女の行く末などそんなものだ」
酷い言い方だが事実である。ノアールは瞳を険しくしてハロルドを睨んだ。
「だいたい、今まで放っておいたくせに何故今頃になってッ……」
「知らなかったんだ……!」
ノアールの責めるような口調にハロルドは返すと、苦く眉を寄せて再び焚き火に視線を落とす。ノアールは驚いたように口を噤むと、ハロルドをジッと見詰めた。
「知らなかった……許婚がいたことも、自分の本当の出自を知らされたのも数日前のことだ……」
ハロルドの言葉に、ノアールの瞳が惑うように揺れる。しかし、焚き火の焔を見詰めていたハロルドには、ノアールの表情の変化には気付けなかった。
「彼女は今もどこかで泣いているかもしれない。何としても見つけてあげなければ……」
「……見つけてどうする」
それはあまりにも小さな声だったので、ハロルドは一瞬聞き逃しそうになる。顔を上げると、焔の向こうでノアールの黒曜石の瞳が自分を真っ直ぐに見詰めていた。
「許婚と言ったって生まれる前の話だ。万が一生きていたとしても、既に誰かのものになっている可能性だってある」
ノアールの言葉に、ハロルドは、そうだな、と返す。
「幸せならいいんだ。それを確認したら何も言わずに帰るよ。でも、もし彼女がまだ不幸なままだったとしたら……」
「お前がその女を幸せにしてやるとでも言うのか! とんだ自信家だな!」
ハロルドの言葉に、ノアールが吐き捨てるように言う。ハロルドは困って眉尻を下げた。
「彼女が望むなら妻に迎えてもいいと思っている。父も母もそれを望んでいるしな」
途端にノアールの瞳が爛と燃える。そして、勢いよく立ち上がったかと思うと、憤怒の形相でハロルドを睨んだ。
「お前はそれでいいのか!」
「ノ、ノアール?」
そのあまりの剣幕に、ハロルドは驚いてノアールを見上げる。ノアールはキリッと奥歯を軋らせると、ハロルドを睨み付けたまま声音を落とした。
「お前が望んでもいないのに嫁に迎えたとて、その女が幸せになれるはずはあるまい」
「……そうか」
ハロルドは再びチロチロと燃える焚き火の焔に視線を落とすと、やがて顔を上げてにっこりと笑った。
「ありがとう、ノアール」
「なッ……!」
思いがけず礼を言われて、ノアールが面喰ったように口を開ける。ハロルドは目を丸くしているノアールを見て、笑みを深めた。
「縁もゆかりも無い俺にそこまで真摯に助言してくれるなんて、君は本当にいい奴だな、ノアール」
「助言などではない! お前があまりにもバカなことを言うからッ……」
「うん、ありがとう。嬉しいよ」
「違う!」
ハロルドの言葉にノアールが真っ赤になって怒鳴り返し、不貞腐れたように舌打ちをして再びどっかりと腰を下ろす。その横顔の、耳までが赤く染まっているのを見て、ハロルドは思わず笑みを零した。なぜだろう。怒られているのに何だか嬉しい。たとえ怒り言葉であっても、ノアールのそれはこんなにも心地良くハロルドの耳に入って来る。すると、少ししてノアールが手にした木の枝で焚き火をつつきながらボソボソと言った。
「……明日の夜には小さな村に着く。そこから先は元ジブリエル国の領土だ。少し行けば城や王都も見えて来るから、いくら方向音痴のお前でも迷うまい」
「え……」
ハロルドは驚いてノアールを見る。そして、フッと肩を落として溜息をついた。
「そうか……」
では、ノアールと一緒にいられるのはそこまでということらしい。
「なんだ、嬉しくないのか。もうすぐ着くと言ったのだぞ」
ノアールに不審げに問われて、ハロルドは思わず苦笑を返す。
「この旅ももうすぐ終わりなんだと思ったら、残念な気持ちの方が先に顔に出てしまったようだ。すまない」
「……?」
「君にとって、ジブリエルへの道案内は予定外だ。早く終わらせたいのは当然なのに、俺は君との旅を楽しいと思ってしまっていた」
その言葉に、ノアールが心底驚いたように見詰め返す。黒目勝ちの大きな瞳が、ハロルドを映して惑うように揺れた。
「楽しい……?」
困惑したような訝しむような言葉に、ハロルドは思わず苦笑する。
「いや、よく考えてみたら朝から晩まで面倒の掛けっぱなしで、君にとっては全然いいことは無かったよな」
思えば、野営の準備から食事の仕度まで全てノアールがしてくれたのだ。火の番しかしていなかった自分はキャンプ気分で楽しかったが、ノアールにとっては大きな負担だったに違いない。そう考えて、ハロルドは再び、すまない、と頭を下げる。
「村が見えたら、そこから先は一人で行くよ。本当にすまなかった。ありがとう」
「いや……」
心からの謝罪と礼を述べると、ノアールが戸惑うように瞳を逸らす。形の良い唇が何か言おうとしたようだったが、言葉にはならずに、再び焚き火の焔をジッと見詰めた。
翌朝は雨だった。始めは霧雨だったのが、一時間ほどで大粒の雨に変わる。二人は街道から少し離れた炭焼き小屋に避難すると、火を熾して暖を取った。
「濡れた服を脱げ。風邪をひくぞ」
炭焼きは何日も泊り込んで行なわれるため、煮炊きする竈や焚き木、雨水を溜める水瓶など生活に必要な物が揃っている。ハロルドは言われるままに服を脱ぐと、それらを頭上に渡された紐に掛けた。炭焼き職人もここで洗濯物を干すのだろう。竈に火が入っていれば、どんな厚手のものでもすぐに乾きそうである。
「やみそうにないな。今日はここで足止めか」
「……そうだな」
ノアールが竈の火をつつきながらボソリと応える。その瞳が自分の裸の胸を見た途端にハッと見開かれたのを見て、ハロルドも自分の胸元を見下ろした。
「これか。これは『精霊石』と言って、お守りのようなものだ」
ハロルドは母から貰った無色透明の石を見ながら言う。
「お守り……」
ノアールは立ち上がると、ゆっくりとハロルドに歩み寄った。
「よく……見せてくれないか」
「いいとも」
ハロルドは頷くと、それを首から外してノアールの手の平に載せる。食い入るように石を見詰めるノアールの手が小刻みに震えているのを見て、ハロルドは微かに目を見開いた。
「ノアール?」
「やっと見つけた……」
「え?」
ハロルドがその言葉の意味を問うとすると、ノアールがキッと顔を上げてハロルドを見る。
「これは私の石だ……返してもらう」
そして、言うが早いかペンダントを握り締めて身を翻すと、自分の荷物を鷲掴みし、雨の降りしきる戸外へと飛び出した。
「ノアール!」
ハロルドは驚いて呼び止めたが、しかし、その後ろ姿は一度も振り返ることなく木々の合間へと消えてしまう。
「ノアール……」
いったい何が起きたのかと、ハロルドは呆然と立ち尽くす。石を奪われたことよりも、ノアールの言葉が気になった。
『これは私の石だ……返してもらう』
確かにノアールはそう言っていた。誰かに盗まれたか、事情があって手放したかは知らないが、あの石は人の手を渡り渡って最後に母の元に辿り着いたのかもしれない。もしそうだとしたら、それは凄い運命だと思えた。
「事情を話してくれれば快くあげたのに」
いずれこの礼は何らかの形でしなければと思っていたのだ。母には悪いが、ノアールが本来の持ち主であると言うのなら、それを譲渡するのに何の躊躇いも無い。
「こんな雨の中に飛び出して、風邪をひかなければいいが……」
ハロルドは雨に煙る戸外を見る。雨足は更に激しくなり、ザアザアと音を立てて降りしきっていた。
(やったッ……やったぞ!)
ハロルドからペンダントを奪って小屋を飛び出したノアールは、一目散に元来た道を戻る。何度か後ろを振り返って見たが、ハロルドが追って来る気配は無く、ノアールはようやく立ち止まると、手をそっと開いて大切に握り締めていた石を見詰めた。
「これで自由だ……」
ジブリエル族にとってこの石は文字通り魂だ。ジブリエルの一族は、皆この石を握り締めて生まれて来る。石の色は様々で、ジブリエル族は愛する者を見つけると、この石を渡して永遠の愛を誓うのだ。
しかし、王族であるノアールの石は、自分の意思に関係なく、許婚となったアルフヘイムの王子へと渡されてしまった。しかも、王子はまだ産まれてもいなかったのにだ。直後にハロルドの故郷であるアルフヘイムとノアールの祖国ジブリエルはドルディア国に同時に攻め込まれた。互いに国を滅ぼされ、一族を殺されたところまでは同じだったが、母親の腹の中にいたハロルドはハーバザード国王に保護されて妾子として大切に育てられ、侍女に抱かれて城外に逃げ延びたノアールは王族の名を捨てて傭兵に身をやつした。実に皮肉な運命であった。
なのに、ノアールはまだ会ったことも無い許婚に心を囚われてしまった。寝ても覚めても、片時もハロルドのことを考えない日は無い。それは憎しみだと思っていた。なぜ迎えに来ないのか。親の決めた許婚のことなどもう忘れてしまったのかと……。
しかし、王宮の使者がハロルドを迎えに来ると知った時、ノアールは居ても立ってもいられずに、気が付いたらハロルドのいる小城まで来ていた。初めて目にした許婚は想像していたよりもずっと好青年で、その声はノアールの心を甘く揺さぶった。
『おいで、何もしないから』
「よせ……」
初めて声を掛けられた時の甘い戸惑いが蘇り、ノアールは力なく呟く。
『君との旅を楽しいと思ってしまっていた。すまない』
「やめろッ……!」
共にいることが楽しいと言われ、不覚にも胸を高鳴らせてしまったことを思い出し、ノアールはギュッと目を閉じて叫んだ。
『ありがとう』
しかし、そうすればするほど浮かんでくるのはハロルドのことばかりで、ノアールは両手で己の痩せた身体を抱き締める。びしょ濡れの痩躯がブルッと激しく震えた。
「私は自由になったんだッ……!」
なのに、心にぽっかりと穴が開いてしまったようなこの空虚さは何か。広い世界のただ中にたった独りで放り出されてしまったような……自分と他者とを繋ぐ全ての糸を断ち切られてしまったようなこの孤独感は何かと考える。激しい雨はザアザアと音を立てて身体を叩き、容赦なく体温を奪っていく。ノアールはその場にがっくりと膝を突くと、蹲って手の中の石を大切に抱き締めた。